第5話 語り手は父母を思い出す

 父は母の宮に来るたびに、雯凰ぶんおうを抱き上げて頬ずりしてくれた。

 雯凰は髭がくすぐったくて、いつもきゃらきゃらと笑った。


 母は雯凰がその膝を枕にして休むとき、そのちょっと冷たい手でずっと撫でていてくれた。

 雯凰はその手の柔らかさを感じながら眠りにつくのが好きだった。


 やはり彼らは、雯凰にとって特別な存在だった。

 それは雯凰が大好きな人に対して抱く感慨とは、まったく別次元の事柄だった。



 父の愛を独占するために、その愛が那辺にあるのかを、母は知りたがった。

 けれども母は、娘の目から見てもそれほど賢い人間ではなかったので、情報収集だとか観察だとかのためには動かなかった。

 とはいえ仮に才能がなかったとしても、観察はできたであろうに。

 そうすれば少なからず気づけたのではないだろうか。


 夫の愛は、自分が決して手の届かないところにあるのだということに。


 あるいは、もしかしたら気づいていたのかもしれない。

 観察してしまえば、その救いようのない事実を突きつけられてしまうことを。

 だとしたら母は、「自らの心を守る」という点では才能ある人間だったのかもしれない。


 見たくないものを見ない……それって実は才能に近いことだ。だって人間は往々に、嫌なものにあえて意識を向けてしまうものだから。

 しくしくと痛む歯を、あえて触ってしまうように。


「それ自体は決して悪いものではないでしょう。私たちだってそれに頼ることも多いんだから」

 父の心を取りもどすために、母がのめりこんだものを吐き捨てるように告げた雯凰に、夫はなだめるように言った。


「物事には限度があるわ」

 けれども自分が必要以上に目の敵にしている自覚は、雯凰にもあった。この気持ちを言語化すれば「ずるい」とか「うらやましい」だ。


「それは同感だけれど」

 夫も自分と同じ気持ちのようだった。


 自分たちにはどれほどのめりこみたくても、のめりこめなかったものがある。

 のめりこむことを許されなかった。けれど母は父を愛する激しさのまま、「それ」にのめりこんでいってしまった。



 はじめは児戯に等しい占いだった。


 しかしそれは日を追うごとに過激になっていった。

 占い師を宮に招き、大金を支払っては夫の愛の取りもどし方を占わせるようになった。


 そんな母を、まだ幼かった雯凰は不安な思いを抱えながら見守っていた。

 けれども母はそんな娘をないがしろにすることはなく……母は母のままだったから、雯凰は思うところがあったとしても、母を慕いつづけていた。


 今ですら慕わしい。


 父はそんな母を何度もたしなめた。けれども母に対してそれは逆効果だった。

 なぜならたしなめるということは、父が母に会いにくるということだから。

 その事実は占いの効果を母に確信させる材料にしかならなかった。


 そして父も、そんな母のことをうっとうしがることはあっても、変わらず愛していた。

 だから父もまた雯凰にとっては、ずっと慕わしい存在であった。


 父と母、どちらかをいとうことができたら、雯凰はきっともっと楽になれた。

 ああ、まことに人生とは劇的でめんどうくさいものだ。

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