第12話 真実と償い

 蘭君らんくんはどこかなじるように言った。

「生きていたなら、どうして教えてくれなかったんですか?」

「外に接触できるようになったときには、もうかあさんが死んでいたから……ろうを継いだあなたの負担になると思ったのよ。でもお墓には行ったのよ」

 我ながら言いわけじみていると思いながら、ばいは説明した。

「ねえさんらしい……」

 彼女はどこか恨みがましそうな口調で、それでも納得した様子でうなずいた。


 梅花は努めて明るく言う。

「わたしがいなくても、あなたたちはうまくやっているようだったから。菊珍きくちんもお嫁に行ったし」

「……そうですね」

 一瞬、彼女の目が昏く光ったような気がした。


「蘭君」

「はい」

 蘭君はにこりと微笑んだが、梅花はごまかされない。

「菊珍になにかあったの?」

「……特には」

「では、彼女に関わるなにかがあったのね?」


 菊珍と蘭君は年が近いために、仲がよかった。梅花と竹葉ちくようのように。今みたいな投げやりな言い方をするなんて、信じられない。


 そう言うと、蘭君は肩を落としました。

「ごまかされてはくれないんですね……ねえさんは、昔のわたしたちしか知らないから。わたしたちも忘れてしまったのに」


けんをしたの?」

「いいえ。そんなことで済んだらどれほどいいか」



 梅花が奴婢ぬひの立場に落とされたことは、妓楼にもすぐ伝わった……圧倒的な驚きでもって。

 特に母の嘆きは深かったという。

 今や竹葉を失った彼女にとって、もっとも近しい存在は赤子のころから育てていた梅花だった。宮城に行っても、ある程度は自由に会えると思ったからこそ送り出したのだ。

 それが奴婢になり、生死を確かめることもできない状態になったのだから、受けた衝撃は彼女の健康を打ちのめすには充分すぎるものだった。


 そして彼女は、病床で呟いたのだ。

 ――菊珍を行かせればよかった。


 確かに菊珍ならば、奴婢にされることはなかっただろう。当時は貴妃だった皇后は、歌の上手うまい妓女だけに狙いをつけていたから。

 けれどもそれは結果論にすぎない。母自身、わかっていて言わずにはいられない……その程度のものだったのだろう。

 だが菊珍にとってそれは糾弾にしか聞こえなかった。なぜなら彼女は身にやましいところがあったから。


 蘭君は吐き捨てるように言った。

「あの女は、あえてねえさんを宮妓にするよう立ち回ったんです」

「……待って、それは、つまり」


 梅花は竹葉の死をきっかけに、宮妓になることを決めた。

 つまり竹葉の死は……。


「あの女が仕組んだことです」

「うそよ……」

 頭の中で割れ鐘をたたくような音が、うわんうわんと響く。そんな中、梅花はそれだけを呟いた。



 菊珍はどうしても官妓になりたくなかった。

 なぜなら父の同輩に会う可能性があったからだ。

 かつて自分を友人の娘としてかわいがってくれた者たち。妓女に身をやつした姿を、彼らに見せたくはなかった。

「客として……たまに来るだけなら、まだ耐えられる! けれど、彼らのもとで妓女として働くのなんて!」

 菊珍は血を吐くような勢いで叫んだという。だが母の叫びはもっと激しかった。

「殺してやる!」

 と絶叫し、はさみでもって菊珍を刺そうとしたのだ。彼女にとって今や菊珍は、二人の娘の敵だった。

 けれどもたまたま見舞いに訪れた花街のかしらが、事態を収拾し、菊珍を隔離したのだという。



「あとは、話がおもてになる前に……またはかあさんがあの女を殺す前に、一番高く値をつけた客に売り払ったそうです」


「身請けされたあとは、側室としてそれなりに遇されたそうで……天は不平等ですね。ただ本人は正妻になりたかったようですけれども」


「……先月、亡くなったそうです。五人目の子を産んだ肥立ちが悪かったそうで。この前、手紙が届きました」


「そんなつもりはなかった、と……少なくともねえさんのことを奴婢にするつもりはなかったと書いていました。確かにそのとおりでしょうね。でも問題はそんなことじゃない。あの女は……最後の最後で、いい人間になったつもりで死んでいったんです」


 だから……と蘭君は続ける。

「気を落とさないでください。ねえさんはもう、新しい生き方を見つけました。もうそのように生きてください」

 蘭君の言葉を呆然ぼうぜんと聞くだけだった梅花の体を、彼女はそう言って抱きしめた。そして耳元で呟く。

だんせいせいが死んだときのことを覚えていますか?」

「ええ……」

 頷く梅花に、蘭君はふふと笑った。

「皮肉なことです。あの日、一番妓女というものを恐れていたわたしが、妓女としての生をまっとうして、終わらせました」

「……終わらせた?」

 身を離して問いかけると、彼女はどこか寂しげに笑った。

「妓楼は次の娘に引き渡しました。私は郷里に帰ろうと思っています」

 

 ……もう、あの場所は、かあさんとねえさんたちがいた場所ではないですから。

 あの女が死んで、もう心残りはねえさんしかありませんでした。本当は今日、わたしは宮妓になろうと思って来たのです。皇帝陛下の目にかなえば、勅命で宮妓になれます。そうしたらねえさんがどこでなにをしているのか……生きているのか、死んでいるのかがわかると思いました。けれどももう悔いはないので、今日……お申し出を断ってきました。

 ねえさん、わたしはねえさんがいたころに戻りたい。

 あのころが、いちばん幸せでした。ほんとうの家族と一緒にいたときよりずっと。

 あのころわたしは守られていました。いずれ来る恐ろしい日も、ねえさんたちがいればなんとかなると思っていました。

 

「でも、あなたは自分でなんとかした」

 ぼんやりと聞くだけだった梅花は、ここで口を開いた。

「……ねえさんも」

 二人、目を見合わせて泣き笑いの表情を作った。

 翌日蘭君は宮城を辞し、琵琶びわを携えて郷里に帰っていった。そのあとの消息は不明である。


 そうしてりゅう蘭君は本当の伝説になった。

 段静静のような、歴史に埋もれていった多くの妓女たちと違って。


        ※


 目の前にことりと茶杯が置かれた。


「昨日は悪かったわね」

 顔を上げると麗丹れいたんが、きまりの悪そうな表情を浮かべていた。

「ありがとう」

「謝罪に対して礼を言うのもおかしな話ね」

「そのことではないの。あのあと、わたくしが妹と話をするために、色々と動いてくれたでしょう?」

「……そうよ」

 梅花はふふと笑い、茶杯を手に取った。彼女の淹れた茶を飲むのは、実はこれが初めてだった。


 昨日聞いた菊珍の話は、梅花の心を打ちのめすには充分だった。

 だが衝撃が強すぎて、かえってまだ浸透しきっていないのだ。


 けれどもゆるやかな絶望が胸を満たしていることは、感じている。

 ――どうしてあなたは、そういう人になってしまったの?

 菊珍に聞きたいと思った。彼女はどう答えるだろうか……もう決してわからないことだ。

 自分がためらってしまったために、わからないのだ。


 ――これがせんけんを傷つけた報いなのかしら。

 不意に脈絡なく、そんな考えが脳裏をよぎる。

 今はもう亡い彼女。

 けれども、まだ彼女の息子は生きている。


 いつか自分は、彼に償いをする。

 償いたいことは他にもたくさんあるが、もう償える人がいない。いたとしても償うことを許してくれない。だから彼にだけは。

 そのとき自分はきっと、惜しみなくすべてをささげるだろう。


 ……そう思いながら、梅花は茶を一口飲んだ。意外に上手だった。


伯母おばさまの法要に行かねばならないから、来週は全面的に任せたわよ」

「わかっているわ。わたくしのぶんもお祈りしてきて」

「ええ」


 部屋を出ようとする麗丹が、なにかを思いだしたように呟いた。

「そういえば、梅の花が咲いたそうよ」

 梅花は顔をあげ、窓の外を見た。春の光が差し込んでいた。

 不意に、同じ光を受けて目覚めた日があったことが頭によぎり……すぐに消えていった。


「そう」

 心を乱す三回目――嬋娟の息子の即位まで、まだずっと先のことだった。

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