第10話⑩

 八月の末、浜辺から見る空は黄昏の茜色から、紫、さらに銀の星を散りばめながら濃紺へと移っていく。ぼくは家の外に椅子を出して、その風景の中に身を置いていた。

 波の音が心地よく聞こえてくる。風が、汗ばんだ頬を冷ますようになぜていく。

 去年の夏、玄米さんに連れていってもらった島は、やはりレマ島だった。マリア様の像は野口さんが別の場所に保管していたのだった。

 潜伏キリシタンを祖先にもつ野口さんが、ぼくの案内役をしてくれているように思う。

 でもぼくは東にあらわれた星を見ながら思う。

『ぼくは一昨年も去年も、九月この場所にいた。でも、今ぼくが見ているレマ島は消えていた』

 現実は、変容していく。

 ぼくの内にあるぼくの実態は、現実の変容でねじ曲げられ、掻き回され、ぼくの内に、思いもしなかった別の世界を創出させる。

 やはり島は消えていた。

 ぼくはここで消えた島を探していたのだ。


 ぼくはサラリーマンになって、本土の教会に行くようになった。

 その時、ぼくが教会に来たことを、看護学校の学生だった美奈子ちゃんは、不思議な人に巡り会ったような気がしたらしい。

 ぼくは教会に集う人を見ることはなかった。見ることが出来なかったのだと思う。レマ島のように。


 ぼくの多額の借金を美奈子ちゃんに押しつけることになってしまった。それはぼくにはとても耐えがたいことだった。

「あなたが、私を見つけるためには、その重荷を背負わなければならなかったのだわ。牢屋で拷問を受け耐え続け、天に昇った子供達の祈りを見つめながら生きていけるのは、大切なこと」

 美奈子ちゃんの話すことは、ぼくに祈ることを教えてくれたように思う。ぼくの前に道が現れた。

 野口さんは、ぼくと一緒にレマ島に行く船のなかで、

「お前はきっと島に帰ってきてくれると思っていたから、教会もお前の家もなんとか持ちこたえてきたよ」と、言った。

 

 九月になり結婚式の前日、美奈子ちゃんと、美奈子ちゃんの両親、兄夫婦が本土から来た。美奈子ちゃんは、島の高校を卒業すると本土の医療センター付属看護学校に入った。その時には兄さんは結婚して本土に暮らしていた。美奈子ちゃんの両親は、島を離れる決意をしたらしい。島を離れて、兄夫妻の暮らすマンションのそばに自分たちの住まいを借りて移り住んでいる。

 今度、ぼくたちは島に帰るから、両親は島に戻ること考えているらしい。

 ぼくは一緒に住んでもらいたいと思っている。

 

 結婚式当日、教会の若者グループも、本土からジェットフォイルでやってきた。 

 島の青年団とその家族は朝のうちにレマ島に渡り、披露宴の準備をしてくれている。

 教会での結婚式のあとは、島の伝統に則った披露宴になる。島の船着場に観光船が一隻横付けされている。船会社の社長さんが、特別な価格で提供してくれたものだ。

 神父様を先頭にその船に乗り込む。既に何人かは酒が入っていて賑わっている。

 ぼくはタキシードを着て。美奈子ちゃんはウエディングドレス姿になっていた。

 美奈子ちゃんはとても綺麗だ。

 ぼくたちがレマ島に渡ったときには、結婚式と披露宴の準備がすっかり整えられていた。

 結婚式が行われる聖堂の引き戸は取り外されていて、その先の小さな広場は野外礼拝堂のようになり、ベンチが並べられていた。

 式は予定通りにおこなわれ、その後の披露宴は青年団や地元の人が伝統的な獅子舞や踊りを披露してくれた。

 酒は地元の焼酎蔵元が、一ケースをご祝儀で届けてくれた。多分野口さんの口利きがあったからだと思う。

 紺碧の海の色がそのまま空の色になっていく。その下で今日集まってくれた人の、賑やかな歌声や話し声、笑い声が空気を染めていく。

 今日この日があることを、ついこの間まで想像することさえできなかった。

 この世界は存在しなかった。全く存在しなかったものが現れてくることがあるのだと思った。


 船は、レマ島を出港する時間は決められていたので、披露宴がお開きになる時間は正しく守られた。玄米さんも、二時間後に迎えに来ると言って引き上げていった。ぼくと美奈子ちゃん二人だけがレマ島の教会に残った。

 ぼく達はシャツとジーンズに着替えると、教会のうらの小高い丘に上った。そこからぼく達の家のある島を見ると、間近に大陸のように見えた。

 ぼく達は草むらに立って海を見つめている。

 美奈子ちゃんの横顔は見ながら、一昨年と昨年、このレマ島が消えてしまったことを話した。  

 美奈子ちゃんは、柔らかい表情で海を見ていた。


「ぼくは、いったいどこに居たのだろう。ぼくは、ぼくの家に泊まっていて、棕櫚の木のある海岸でこの島を探していた」

 ぼくは、きっと自分に語りかけていた。このことは、多分自分で答えを出さなければいけないことだと感じていたからだった。でもぼくはさらに語り続けた。

 本当にそれは声を出して語っていたのだろうか。

「本土の教会で美奈子ちゃんを探していた。サラリーマンになり本土の教会に行ったのは美奈子ちゃんに会えるかもしれないという、心の深海の底で、自分でも意識さえ出来ないところで期待があったからだと、今確信がもてる。でも見つけることはできなかった。直ぐそばにいたのに」

 美奈子ちゃんは、ぼくの方を向くと少し笑った。それは可笑しくって笑ったわけではない。

 とても安心したときにでる微笑みのようだった。

「教会であなたが私を探していたのは知っていたわ。でも私を見ようとはしていなかった。だから私を見つけることは出来なかった。きっとあなたは、レマ島も私と同じように、探してはいたけれど見ようとはしていなかったのね」

「でもレマ島は突然、ぼくの前に出現した。吹雪の中で」

「そのとき、あなたは自分に向き合ったのだと思う。そしてレマ島を見ようと思った」


 美奈子ちゃんの言ったことが分かるためには、やはり自分で解決しなければならないことがあると思った。

 レマ島が見えた後、本土にもどったぼくは、教会でまだ美奈子ちゃんを見つけることはできなかった。必死に探してはいたけれど、きっと会おうとはしていなかった。


 自分はそのときの生活の中に埋もれていた。

 でも、ぼくはレマ島に会えたことで、その生活を飛び出すことができたのだと思う。生きるために生きることの感覚を掴んだのだと思う。


 今度は本当に何も語ってはいなかった。

 太陽が西に傾き始め、海の波が銀色にキラメク瞬間をとらえるように、ぼく達の思いはとても自然につながっていた。


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