第8話⑧
次の日曜日、いつもよりも早く教会に着いた。聖堂の中には、誰もいなかった。
若者のグループがいつも座っているベンチの右端に座った。座って目を瞑った。
神様がぼくを支えてくれるように祈った。
隣に誰かが座った。肩がつくほどに、ぼくの横に寄り添うように座った。
ぼくは目を開いて横を見ると、そこに美奈子ちゃんがいた。
ミサが終わり、教会の集会室でコーヒーを飲んだ。聞きたいことも話したいこともあるのだけれど、言葉が上手く出てこなかった。
ぼくは一言だけ言った。それが一番大事なことだと思ったからだ「この時は消えないようにと本当に思っている」
美奈子ちゃんは少し笑うと、携帯の電話番号を教えてと聞かれたので、解約してしまったことを話した。その理由も伝えた。長い話になってしまった。会社でぼくに降りかかった事件から、今に至るまでを話したからだ。
こんな話を聞かされたら、もうぼくと会うのが嫌になってしまうだろうと、話し終わってから後悔した。
でも、これから会う機会があれば、いつかは話してしまうことだと思った。
美奈子ちゃんはやはり医療センターで看護師として働いていて、今日は夜勤なのだと言った。
グループはハイキングへ行っていると教えてくれた。仲間は十一人いるのだけれど、ぼくが加わったので十二人になるとのことだった。美奈子ちゃんは、これから帰って少し休んでから病院に行くと言った。ぼくは、店の住所と電話番号を伝えた。
ぼくも、美奈子ちゃんの住んでいるところの住所と携帯の番号を教えて貰った。
二人の間が急に近くなった。
日曜日には会うことができるようになった。でも毎週会えるわけではなかった。仕事の関係で朝から晩まで働かなければならないときが、美奈子ちゃんにもぼくにもあった。
事前に連絡しあっていたので、それで心配になるようなことはなかった。
五月、最後の木曜日の昼下がり、赤色のホンダエヌボックスを運転して、突然美奈子ちゃんが店に来た。
ぼくの顔を見るなり、
「お買い物に来たわ」と言って笑った。
ぼくはビックリしたけれど、とても嬉しかった。この店では客がほとんど来ない時間帯なので、レジのカウンターをはさんで立ち話をした。
今度の日曜日は昼間の当番なので、教会には行けないと言ってから、しばらく考え込むように黙って、
「信司君の住んでいる清掃倉庫を見せて」と、
ぼくの目をみつめて言った。
とても困ったけれど見せないわけにはいかない。レジの後ろの扉をあければそこが清掃倉庫だった。洗剤とワックスの臭いが気になった。
美奈子ちゃんはビックリしたような目をして、倉庫のボロマットレスを見下ろしていた。
「あなた、私と一緒にいた島から帰った後、ここに住み始めたんだ。いったいいつまでここに住むつもりなの」
少し怒った顔をしてぼくを睨む。
「借金の返し終わる、後十年」
美奈子ちゃんとの付き合いは終わったと思った。こんなところで生活している男とは、近づきたくないと思うだろう。
でも教会で挨拶することが出来ればいい。それは既に覚悟を決めていたことだった。
美奈子ちゃんは赤色ホンダエヌボックスに乗って帰って行った。
このコンビニは夜十一時に店を閉める。夜九時には全く人通りがなくなってしまうので、本当は十一まで開けておくのは電気代の無駄になるけれど、それはフランチャイズチェーン本部のきまりになっていた。
夜十一時で店を閉めると、その時電話が鳴った。
この時間に電話が掛かってくるのは店長と決まっていた。今度の日曜日には仕事に出てくれとか、直ぐに居酒屋に来て仕事を手伝えとかの、どちらかだった。
居酒屋には、自転車で二十分ほど掛かる。暖かくなったので、今では大変ではないが、寒い時期は辛かった
しかし、電話は店長ではなかった。
「前に来ているの。シャッターを開けてちょうだい」
慌ててシャッターを開けた。先ほど、店の前で車の停まる音がした。それは赤色のホンダエヌボックスだった。
美奈子ちゃんは店に入ると、シャッターを閉めてしまった。そのまま清掃倉庫に入ると電気を点け、スニーカーを脱ぐと、マットレスの上にデニムのパンツの膝を抱えるように座った。ぼくは靴を履いたままマットレスの隅に腰掛けてうつむいた。
美奈子ちゃんは怒っているみたいだ。
「あなた、私をどうするつもりなの」
ぼくは、また知らないところで、何かをしでかしてしまったのだろうか?
ぼくの心臓が押さえようもなく、激しく動き始めた。
必死に考える。
教会で、『美奈子さんを知りませんか』と、グループの人に聞いたのが話題になっているのだろうか。
でもいまさら、それが問題になるとは思えない。しかし今は謝るしかないと思った。
「ごめんなさい」と、言った。
「それ、どうゆう意味。五歳のあなたが、お母様が事故で亡くなる一週間前に、マリア様の前でなんて言ったのか覚えていないの」
そのことは、この間、レマ島の教会でお祈りしたときに思い出していた。でも美奈子ちゃんには黙っていた。
ぼくは、小さな声で言った。
「覚えている。ぼくは美奈子ちゃんと結婚する」
「そしたら、あなたのお母様が、真剣な顔で、美奈子ちゃん信司をよろしくお願いしますって、私に頭をさげたのよ」
ぼくは、五歳の時の、そのことを謝らなければならないのかと思った。そのときぼくが言った言葉が重荷になっていたのだろうか。まさか。
「ぼくは、その時の、今の……、ぼくが、まさかこんなになっているとは思わなかった。ぼくは落ちるところまで落ちているし、美奈子ちゃんはなんて言うか、とても綺麗になった。ぼくの手の届かないずっと上にいる」
美奈子ちゃんがとても怒っているのがわかった。
「だから?」
「ぼくは、美奈子ちゃんを幸せに出来るようなまともな男ではなくなってしまった」
「私、あなたに幸せにしてほしいなんて頼んだ覚えないわ」
ぼくは、とても混乱した。
ぼくのなかの押さえがたい欲望がぼくを突き上げてくる。それは、悪なのかどうかがわからない。それは、さらにぼくを絶望に追いやるものなのだろうか。
でも絶望に追いやられて、ぼくの中に凄む悪魔がぼくを地面にたたきつければよいのだと思った。
世界中のありとあらゆるものが、ぼくに襲いかかってきて、ぼくを叩きのめすだろう。
「美奈子ちゃん。ぼくと結婚してください」
「わかったわ。私たち一緒に島に帰りましょう。それもできるだけ早く」
それだけ言うと、美奈子ちゃんは赤色のホンダエヌボックスに乗って帰って言った。
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