第5話⑤

 年がかわった。最初にこのペンションに泊まったのは、一昨年の思い出になった。

レマ島が見える。どうして見えるのだろう。ぼくの生まれた島が、ぼくの目の前に見える。

 レマ島から、ぼくが立っている浜辺に向かって小船が近づいてくる。

 やがて小船はアンカーを打ち、砂浜に突っ込んでくる。

「急いで」

 女の子がぼくを呼んでいる。ぼくは小船に向かって走り出し、海に膝まで浸かって小船に乗る。女の子の言われるままにロープを手繰り、アンカーを左右に振ってはずし引っ張り上げる。船はエンジンのスロットを開き、レマ島に向かって走り出す。その女の子はどこかで見たような気がした。

 船は昨年の夏に会った、玄米さんが操縦していた。

 風は冷たいけれど、晴れ渡った朝の海は美しい。

 その海を見つめていると、ぼくの頭から考えることも言葉も消え去ってしまった。

 レマ島のぼくの生まれた教会が見えてきたときに、思い出した。

 長崎の町のぼくが日曜日に通っている教会で、見かけたことのある子だ。

 ぼくは、教会に行っても誰とも言葉を交わさない。両親が突然いなくなったときから、ぼくは一人でいるのが運命だと思っていた。

 たぶんその女の子も教会に一人で来ていたと思う。でも、若い人の仲間に入っていつも楽しそうに話している姿を見掛けていた。

 ぼくは、どこかでその女の子を気にしていたのだと思う。

 ぼくは、その若者のグループから話しかけられないように、いつも離れていた。

 しかしその女の子がどうしてぼくを誘って、ぼくの生まれたレマ島に連れて行こうとしているのだろう。ぼくには分からなかった。

 船がレマ島の船着き場に着くと、女の子はロープを持って岸に飛び移りポラードに括り付けた。ぼくも岸に飛び移る。女の子は教会の方に向かって歩き始めていた。ぼくも後について歩き始めた。

 坂道には雪が積もっていた。レマ島の雪のある風景を見たのははじめてだったと思う。

 女の子は教会の入口から右側に回り込み、保育所のあった部屋の扉を開け、マリア様の像の前で正座をした。ぼくもその隣に座って正座をした。

 どのくらいの時間正座をしていたのか分からなかった。とても長い時間、正座をしていたように思う。ぼくはやっと帰ってきたと思った。

 でも実際はそんなに長い時間正座をしていたわけではなかった。

 外から差し込む日差しでぼくたちの影を床に落としていたけれど、その位置はほとんど変わってはいなかった。

 雪の道を歩いてきたので、足が濡れていた。とても寒い。しかし顔は火にさらされているように熱かった。

 目を瞑り、頭は夢の中を漂うように声がでた。それは、ほとんど無意識だったように思う。

「ごめん。君が美奈子ちゃんだと、今まで気がつかなかった」

「ここで、マリア様の前であなたとお祈りをしなければならなかった」

 美奈子ちゃんは呟くように言ってから、ぼくの肩に腕を回して、抱きかかえるようにぼくのおでこに手をあてた。それから自分のコートを脱いで、ぼくの肩に掛けると、ぼくの手を引いて船のところまで行った。

 玄米さんは、船着き場の待合室で、備え付けのストーブに火を点けて待っていた。

 玄米さんは、美奈子ちゃんとぼくとを見て、幼い頃のぼくと美奈子ちゃんを思い出したと、言った。

 ペンションのある島に戻り始めた。船着き場に船をつけた。ぼくと美奈子ちゃんが降りる。玄米さんは籠に入った魚を美奈子ちゃんに渡すと、何も言わずに船を動かして去って行った。美奈子ちゃんは丁寧にお辞儀をした。

 船着き場の駐車場に赤い色のホンダエヌボックスが停めてあった。美奈子ちゃんがその扉を開けると、「乗って」と言った。

 車のボディーが泥で汚れていた。雪道を走ってきたのだと思った。

 車は多分五分ほど走っただけだと思う。ペンションの入口の横に着いた。ぼくは朦朧としていた。熱が上がってきたと思った。

「ここが、赤い屋根のペンションかどうか分からない。野口さんが居ない。ここは、本当はどこなのだろう。赤い屋根のペンションならば、レマ島は見えないはずだ」

 熱に浮かされて、声に出して呟いていた。声に出して言うことで気持ちが楽になったのだと思う。階段の手すりにもたれ掛かるように二階に上がり、ベッドにひっくり返った。

 ぼくは、少しだけ眠った。しかし腕時計の針は一時間を回っていた。間もなく正午になるところだった。

 何もかも熱に浮かされて見た幻だったような気がした。レマ島を見たことも、レマ島に行ったことも、そして美奈子ちゃんと会ったことも。

誰かが階段を上ってくる。とても軽やかな足音がして、扉をノックした。

「はい」と応える。

 扉を開け、右手にトレーを持って美奈子ちゃんが入ってくる。

 ぼくの寝ている横に立つと、胸のポケットから体温計を出して、熱を測りなさいと言った。

 言われるままに、シャツの第一ボタンを外し、体温計を脇にさした。

 ぼくが体温を測っている間に、美奈子ちゃんは部屋のテーブルの上に真鯛の煮付けとあら汁それにご飯を置き、お茶を入れた。

 体温計から音がしたので取り出すと、美奈子ちゃんはそれを直ぐに受け取る。

「わたし看護師になったのよ」

 次に口を大きく開けるようにと言った。美奈子ちゃんは顔を寄せてきて、ぼくの口の中を覗き込んだ。美奈子ちゃんはとてもきれいになった。ぼくの心臓が激しく動く。心臓の存在にこれほど分かったことは今までになかった。

「たぶん大丈夫だと思う。玄米さんに貰った魚を煮付けたから、それでお昼をとってちょうだい。それから薬を飲んで、今日はやすんでいなさい」

 美奈子ちゃんはトレーを持つと、ぼくの方を向くと優しく笑みを浮かべ部屋から出て行った。

 薬を飲むとまた眠たくなった。とても安心したのだと思う。こんなに安心できたことはこれまでになかったと思う。この気持ちはぼくが両親と暮らしていたときの気持ちなのかもしれない。しかしそれはすっかり忘れてしまっていた。


 目が覚めると、部屋には電気ストーブが赤外線の明かりをつけ、窓の外には黄昏れた空が見えた。

 熱は下がっているように思った。枕元に置いてあった体温計で熱を測ると三十七度を少し超えたぐらいだった。ぐっすりと寝たせいか、身体が軽くなって起きられた。一階に降りると、テーブルの上にはすでに夕食が置いてあった。また、家の中はぼく一人になったようだった。

 赤い屋根のペンションはぼくの家だった。眠りから覚め、熱が下がり覚醒したぼくの感覚が、そのことを思い出させた。

 昨年も一昨年もここに来たとき、なにか懐かしい感じがしていたのは、ぼくの家がそのまま使われていたからだった。

 夕食を済ませ、食器を片付けてから外に出る。星がいくつも見え始めていた。海の向こうにレマ島が見えているので、とても嬉しい。

 五歳の時の自分は、今寄りかかっている棕櫚の木によじ登って、レマ島を見ていたのだった。振り返ると、そこにはぼくの家があった。

 この家を去って長い年月が過ぎているので、玄関の明かりで浮かび上がっているぼくの家は所々傷んでいた。

 ところで、美奈子ちゃんはどこへ行ってしまったのだろう。目が覚めたときから一番気になっていた。

 家の前に停めてあった赤色のホンダエヌボックスは消えていた。明日は本土に帰らなければならない。三日から仕事が始まる。美奈子ちゃんとはここで話したいことがたくさんあるような気がした。でも本土の教会で会えればそれでいいと思った。


 朝になった。やはり家の中はぼく一人だった。パジャマのまま家の前の棕櫚の木の下まで来た。レマ島はそこにあった。

ぼくは、言葉に尽くせないほど安心した。暫く見ていたかったけれど、帰りの準備を進めなければならない。家に戻ると洗面をすませ、着替えをした。ここに来たときに着ていたものは昨夜、洗濯機で洗濯をして干しておいたので、それに着替え、今着ているパジャマを洗濯して、部屋干しをした。

 ところでこの家は誰のものなのだろう。ぼくの両親の手から誰かに渡っているはずだと思う。

 テーブルの上には昨日から、夕食といっしょに、ドリップコーヒーとバケットにフランスパン、それにイチゴのジャムとマーマレードが置いてあった。パン切りナイフで、フランスパンを二切れ取るとトーストする。コーヒーの香りで気持ちが落ち着く。明日からこんな贅沢な時間は持てない。

 またギリギリの生活に戻っていく。

 窓の鍵を閉め、電気を消し、シャッターを下ろしてここに来たときと同じようにした。

 結局、野口さんとは会うことが出来なかった。

 ぼくには、ここで何が起こったのか分からなかった。

 予定の時刻にバスが来た。結局、美奈子ちゃんは、今日ここには来なかった。携帯の番号も、住所も聞くことはしなかった。でも本土の教会で会うことは出来るはずだった。

 バスはすでに、乗客が三人ほど乗っていた。このバスは循環バスなのだ。

 島の港から予定時刻で高速船は出発した。

 三時に本土の港に着いた。ぼくはまっすぐにアパートには帰らないで教会に行ってみた。新年二日目四時の聖堂は、誰もいなかった。

 この三日間の出来事は夢のようだった。夢ではないように祈った。

 心の中では、今ここで美奈子ちゃんに会えることを期待していた。でも、そんな偶然があるはずはないとも思っていた。

 ぼくはここから一時間歩いてアパートに帰った。アパートに近づくにつれて、ぼくの現実がぼくに覆い被さってきた。


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