第4話④
夕べ薬を飲んで寝たのだが、朝少し熱がある。
バッグに、おくられてきた切符とお金を、現金封筒に入れられたままで仕舞うと、アパートを出た。
アパートから一番近いバス停まで歩き、十時十五分のバスに乗って港に向かう。
港のうどん店南蛮亭で五色うどんを食べる。昨日は、身体がだるくカップ麺を食べただけだった。五色うどんが身体に染みこむように入っていく。
そして薬を飲む。
船は予定の時間に出港する。波が高い。雪が少し降ってきていた。
湾内から出ると、船はおおきく揺れ始めた。シートベルトをしている身体が右に左に揺れる。窓から外の景色を見ると、灰色の海を切り裂くように高速艇が走っていくのがわかった。
二時間足らずで島についてしまう。フェリーの半分の時間だ。しかし料金は二倍するので、野口さんが切符を送ってきてくれたので乗れたのだった。
島に着くと天候はさらに悪化し、横殴りの風に氷のような雪が混じり、頬にあたり痛い。急いで港の待合室に入った。
この天気では、赤い屋根のペンションは厳しい風雪にさらされているような気がした。
港内にある待合室で、大型石油ストーブの前の椅子に座り、気分の悪くなった身体を休め、午後二時のバスを待つ。また少し熱が出てきたのかもしれないと思った。
港の中のバス案内所のガラス窓に雪のために、午後二時以降のバスは運休になる旨の紙が貼ってあった。
午後二時のバスに乗れと、野口さんから来た手紙には書いてあった。
やがてバスが停留所に現れたのが、ガラス扉の向こうに見えた。ぼくは荷物を持って立ち上がりバスに向かった。
出発時間になっても、客はぼく一人しかいない。運転手が心配そうに、「このバスが最終で、このバスの後ここに戻るバスないですよ。大丈夫ですか」と、ぼくに聞く。
ぼくは、赤い屋根のペンションに宿泊の予約を取っていると伝える。
すると、入口側の一番前の席に座っているぼくのほうを、運転所が帽子を取って振り向くと、
「そんなペンションあったかな。大丈夫なの?」と、真顔でぼくを見た。
ぼくは、ペンションの主人と連絡がついていて、約束が出来ていると、無理矢理に笑顔つくって言った。
バスは雪の降る中、ワイパーを動かしながら、ゆっくりと走り始める。道路を走っている車を見かけないし、歩いている人は全くいなかった。途中の停留所は乗ってくる客がいないので、どんどん通過していった。
フロントガラスにあたる雪の勢いが増し、窓から見える木立は激しく揺れていた。外は厳しい吹雪になる。その中をバスはゆっくりと進んでいった。
やがてバスは目的の停留所に到着する。ぼくは、ここの停留所で去年も一昨年も降りている。それにも関わらず、野口さんの手紙には降りるべき停留所の名前が、太い字で書かれていた。
ぼくが、その手紙に何か違和感をもったのはきっとその時だと思う。
手紙に、降りるべき停留所の名前が書かれているのはおかしなことではない。別に問題ではない。
でも、何かを感じる。ぼくはその時怯えていた。何もかも、ちょっとした感じ方に異常に反応したのだと思う。
バスを降りるとき、運転手はまた、「本当に大丈夫なのか」と、聞いた。
バスの開いた扉から氷のような雪が吹き込んできた。1メートル先が見えない。それでもぼくは運転手のほうを向き少し笑って、
「大丈夫です」と、応えた。
バスはゆっくりと動き始め、あっという間に赤いテールランプは、降りしきる雪の中に見えなくなってしまった。
皮の手袋をしていたが、指がちぎれるように痛い。海の音が聞こえてくる。ペンションの方向を確認する。赤いペンションの屋根は見えない。しかし、その時少し風と雪がおさまり、振り返ると海が見えた。
海は獣のように吠えていた。
その海の上に、黒い塊が見えた。それは鯨の背中のようだった。
ぼくは、慌ててペンションのあるはずの方角に歩き始めた。
去年も一昨年も黄昏時には灯っていたはずの、ペンションの灯りが見えない。気持ちが焦る。もう少し近づけばきっと、灯りは見えるだろう。足が積もった雪に遮られて思うように前に進めない。必死で足を上げ歩く。
ペンションのかたちがうっすらと見えてくる。また吹雪が強くなってきた。
ペンションにやっと辿り着いたが、ペンションの窓や扉は閉ざされて、人の気配はない。
扉を叩く。
「野口さん来ました。来ましたよ。開けてください」と叫ぶ。
雲の裂け目からのぞいた薄い陽が落ちて消えた。雪は降り続いている。
手や足の指が激しく痛い。
ぼくは何か大きな勘違いをしていたのだろうか?
日にちを間違えた?いやそんなことはない。日にちが違えば予約の高速船には乗れなかったはずだった。
携帯で野口さんに連絡をすることにした。しかし、指はしびれ、感触がなくなっている。しびれた指ではリュックのサイドポケットのチャックを開けない。チャックを歯でかみ、やっと開くとサイドポケットのなかから携帯電話を取り出した。
しかし、昨夜ぼくはあまりにもだるく、携帯電話を充電しないままで寝てしまった。取り出した携帯電話はやはり電源が切れ、しびれた指でボタンを押しても、何の反応もなかった。
その時ぼくは、ある日のことを思い出した。
ずっと忘れていたことだった。ぼくが両親とここで暮らしていたときのことだ。
保育所の先生に連れられて、ぼくは美奈子ちゃんと一緒に別の島の教会に出掛けた。そこは、捕まった潜伏キリシタンが投げ込まれた牢屋だった。一二畳の部屋に二百人近い人が押し込められ拷問を受けた。
幼い男の子は海の深みに追い込まれ、
「アップアップ」と苦しい息を吐きながら拷問に耐え、そして死んだ。女の子は老人の死体にわいた蛆に腹を食い破られて死んだ。
ぼくと美奈子ちゃんはその話をたくさん並んだ石碑の前で、立ちつくして聞いた。
あまりの恐ろしさに泣くことも出来なかった。
誰がその話をしてくれたのか、どうしても思い出せない。先生ではなかったように思う。
もう一人誰かがいたのだ。
ぼくはどうして神様は助けてくれなかったのかと思った。拷問を受けた人々の記念碑には、神を賛美する言葉しか書かれてはいないとその時、聞いた。
幼いぼくの心にその話が刻まれたが、その話は、ここで、このような情況ではじめて思い出すことが出来た。
ぼくは、その拷問で亡くなった人達と少し同化出来たのではないかと思った。
暗闇の中で降りしきる雪を感じながら、ここに居続けてぼくはどうなるのかを考えていた。しかし死ぬことを思うことはなかった。
開かないペンションの扉に背を向け、海の方を見た。
雪はおさまり始め、強い風に押され勢いよく流れていく雲の間から青空さえ見えた。一筋の光が照らす海の上に、鯨の背のようなものが見える。
「島だ」ぼくは思わず叫んだ。
探していた島が見えた。あるべき場所にある。でもどうしてだろう。
見えたことが逆に不思議に思えた。
その時、背中の扉からコトンという音が聞こえたような気がした。
もしかしてと思い、シャッターを上にあげてみる。難なくシャッターは動き、その先の扉も鍵が掛かっていなかった。転がるように家に入る。入口横のスイッチを押す。測灯がともる。
ファンヒータのスイッチを入れると、ボッと音を出し、赤い炎が出る。手をかざした。
「野口さん。来ましたよ」
誰かがいる気配はない。家中の廊下を歩き回ったが、やはり誰もいない。ぼくは階段を上り、いつもの部屋に入り、リュックを置き、一階の風呂場の浴槽には湯が入っていなかったので、シャワーで身体を温めた。
リュックからビスケットとペットボトルの水を出して口に運び、昨日の医院で貰った薬を飲んだ。また熱が出てきたような気がした。
ぼくは疲れ果てて、無意識で動いていたように思う。一階の電気とファンヒータのスイッチを消し、二階の部屋に戻る。用意されていたパジャマに着替えると、部屋の電気を消しベッドに横になった。風が窓を揺らす音が聞こえる。その先から寄せて砕ける波の音が聞こえた。
その砕け散る波音を聞きながら、ぼくは眠りに入っていった。
何か、物音がした気がする。その音で、目が覚めたのだと思った。
夢を見ていたのかもしれない。
時間が分からない。しかし、すっかり夜になっていると思った。
やはり音がする。どこかへ出掛けていった野口さんが帰ってきたのかと思った。
しかし気配が違う。廊下を歩いている音が微かに聞こえるだけだった。
風が雨戸を揺すり、波の砕け散る音が聞こえた。この夜に、誰が、何のために、どうやってここに辿り着いたのだろう。
一階に降りていけば直ぐに分かることだと思った。でもぼくは降りていくことは出来なかった。
いつの間にかまた眠っていた。
付けたままで寝た腕時計を見ると、八時を回っていた。
ガラス窓を開けて、さらに雨戸を開けた。外は昨日とは打って変わって青空が広がっていた。夜中に聞いた物音は、夢の出来事だったのだと思った。
雪が少しだけ積もっていた。夜半過ぎに、雪が雨に変わったのだろうか。
この部屋から見える景色は、この建物の裏側になる。浜辺とは逆方向で堤防が見える。
一階に降りる。野口さんがいれば安心できると思った。
テーブルの上に朝食の用意がしてあった。しかし誰もいなかった。
ぼくは洗面をして朝食をとり、元旦の浜辺に行った。
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