第3話③

 ぼくの日常は、オートメーションの機械が同じ製品を単調に作り上げていくように過ぎていく。

 毎日同じ時間に起き、会社に行き、ほぼ同じ時間に家に帰り、いつも通りの時間に寝る。休日も休日のパターンが決まっているだけで、起きる時間や寝る時間はいつもと変わることはない。

 会社で割り当てられている仕事に大きな変化はない。それでも取引上のトラブルはたまには発生するが。それはあって当たり前の世界で、ぼくは無理せず、出来るだけ波風の立たないように解決をこころみているので、これまでトラブルがこじれたことはなかった。

 仕事も私生活も無理や冒険はしないことにしているので、人の仕事や生活に首を突っ込むことも、手助けをすることも、意見を言うこともしない。

 会議の発言は全くしない。上から命じられたことを、こなしていくだけだった。

 残業は出来るだけしないようにしていた。したがって、出世はしないだろうし、会社が苦境に陥ったときは、最初に首を切られるだろう。

 しかし、この会社は安定しているので、そんなことは心配していなかった。

 会社の帰りにはスーパーマーケットによって、食材や日用品を買って帰る程度でほかに寄り道をすることはない。会社の同僚と飲んで帰ることは全くしない。

 もちろんぼくを飲み会に誘う人もいない。半ば強制参加の会社の懇親会も、状況を見計らって途中で帰ってしまうことにしていた。

 家にはテレビもラジオもない。新聞を読むこともしない。僕が情報を得るのは携帯電話のニュースを伝えるアプリだけだったし、家でする事と言えば、炊事洗濯や掃除、それから休日に図書館で借りてきた本を読むこと、それに時々日記を書いていた。

 友達も近所の知り合いもいなかった。

 ぼくの給料は、大学を卒業した同期の社員よりかは、かなり低かったと思う。でも月々の給料で少しは貯金をすることが出来た。


 しかし、そんなぼくの日常に事件が起きた。

 会社が顧客に提出した書類に、担当責任者としてぼくの名前が記され、印が押されていたのだ。

 その書類によって、上役に報告されることもなく、従って必要な手続きは一切踏まず、勝手に会社名を使って、ぼくは顧客と契約を結んだかたちになった。

 二週間ほど前、今年入社した片山さんに、帰り支度をはじめたぼくに、

「大井話がある」と、呼び止められ会議室に連れて行かれた。

「一応了解しておいてもらえればいい話だ。零細企業だが、医療機器の部品を作っていて、そこの社長が今までにはないすぐれた製品を完成させた。

 まだどこの商社も目をつけてはいない。会社の会議に諮っていれば時期を逸することになる。だからと言って、入社一年にも満たない俺の独断で融資を認めるわけにもいかない。それで、おまえの名前と印を使うことにした。おまえの印は印鑑屋で用意した。これがそうだ、おまえが持っていろ」

 片山さんは、ぼくの話を聞こうともせずに、会議室から出て行った。

 ぼくは、片山さんを追いかけるように自分の席に戻ったが、片山さんはもういなかった。片山さんは、会議室から出て、直接どこかへいったのだ。帰ったのかもしれなかった。

 次の日、朝一番で片山さんに「昨日の話、困ります」と言った。

 すると片山さんは、パソコンに向かって仕事を続けながら、

「その話は忘れてくれ」と言った。

 ぼくは、昨日渡された印鑑を返そうと机の上に置くと、片山さんはキーボード上から指を離し、

「それはおまえの名前が書かれている印鑑だ。おれが受け取るわけにはいかない。おまえが持っていろ」と、ぼくを睨みつけるように見た。

 それから、目をパソコンのディスプレーに向けると、またキーボードを打ち始めた。

 そのときは、昨日の話はなくなったのだと思った。

 それから二週間後、部長に呼ばれて、ぼくが融資したことになっている会社が倒産して、その会社の社長が失踪していると言われた。

会社の書類にぼくの名前が記され印が押されていたとしても、どうしてそれで契約が成立して、融資が行われてしまったのか分からなかった。

仕組まれているとしか思えない。失敗をしたときの責任が全部自分に降りかかってくるようにされていた。

 ぼくは部長に、片山さんに言われたことや、次の日に「困ります」と言うと、「忘れろ」と言われたことを話した。

 すぐに片山さんが部長に呼ばれた。部長はことの顛末と、今ぼくが部長に話したことを、片山さんに告げたらしい。

 片山さんは自分の机に戻ってくると、ぼくの横に立ち、顔を鋭くさせ、ぼくに殴りかかるような勢いで

「口から出任せの、適当なことを言うな。仕事をしない奴にとやかく言われる筋合いはない」と、怒鳴り始めた。

 他の社員は、こちらを向き聞き耳をたてた。

 部長が慌てて飛んできて、片山さんをなだめると「君は何も知らないと言うことかね」と、言った。

 片山さんは、前のめりになり部長の顔を見上げるようにして、

「大井は三年もこの仕事をしていながら、仕事を何も理解ができていない。それで都合が悪くなると、その責任を私になすりつけようとする。今だから言いますが、実は私が入社して、この半年でこのようなことが度々あったのです」と、興奮しながら話した。

 片山さんはこの後、取引先と打ち合わせがあるとかで、そそくさと出掛けていった。

 部長はもう一度ぼくを、部長の席に呼んだ。

「いいか、おまえと片山では学歴も、能力も違う。さらに今片山が言ったように、勤務態度や会社への貢献もおまえとは比べものにならない。おまえが片山と争っても勝てる見込みなど全くないのだよ。それどころか、とんでもない犯罪まがいのことは、おまえはしてしまって、どのくらいの被害がでるか分からないが、おまえに弁償してもらうことになる」

 結局ぼくは、会社に一千万円の弁償金を払うように求められ、印を押した。

取りあえず、この三年間で蓄えた二百万円は即金で支払い、残りは月々の給料の天引きとボーナスの全額から支払うことになった。

 毎日、残業しなければ生活が出来なくなった。

 アパートは郊外の六畳一間の部屋に移った。

 この返済をこれから十年間続けないと、利子をふくめた弁償金は支払い終わらないと、部長に言い渡された。

 それでも、会社が警察沙汰にしなかったことを、有り難いことだと思わなければならないらしい。

 片山さんは、この話がこのような形で決着をみた後、親の経営している町工場を引き継ぐということで会社を辞めた。ぼく以外のみんなに挨拶をして、会社を去って行った。ぼくのほうを向くことはなかった。


 季節は冬になり、金曜日の夜、疲れ果てて家にたどり着き、帰りがけに買ったスーパーの弁当を開くと、携帯電話のベルが鳴った。

ぼくの携帯に電話をしてくる人は、仕事以外ではいない。こんな夜に電話をしてくるのは、またぼくの知らないところで事件が起きているのだということが頭に浮かぶ。

 携帯のベルは鳴り続けていたが、電源を切った。弁当を開いたままで、小さなLEDライトだけを持って外に出た。少し歩きたいと思った。部屋に留まっていることが怖かった。

 今度のアパートは街灯もないところに建っていたので、外は真っ暗だった。しかし星明かりが夜空一面に輝いていた。

 遠くから海の波音が聞こえてくる。

 道路わきの崩れた塀に腰掛けて、星の煌めきを見つめていると、この明かりに照らされた生き様に、過去も未来も今もないような気がしてくる。

 喜びも、苦しみも、恨みも、感動もいったい何によるのだろう。

 このまま、この社会から消えてしまって、人里離れたところで草や木の実や、捕らえた魚を食べながらひっそりと生きていく生き方もある。

 ぼくはそのように生きるために、この世に生まれてきたように思う。

 アパートに戻ると、開いていたヘ弁当を食べ、共同の洗い場の水で身体を拭いて寝た。

 目覚まし時計がけたたましく鳴る。目はそれ以前から覚めていたが、時計の音で布団から出て、洗面を済ませ、水を飲むと家を出た。会社までは歩いて一時間は掛かる。途中で携帯の電源を入れる。

 ショートメールがポップアップしてくる。

『昨夜電話をしたが、出ないので心配をしている。すぐに電話をするように』

 ぼくのことを心配してくれる人がいることを怪訝に思ったが、それは赤い屋根のペンションの野口さんだった。

 早朝ではあったけれど、道の脇によって電話をした。呼び鈴が一回鳴り終わる前に野口さんの低く落ち着いた声が聞こえた。

 ぼくは昨日電話に出なかったことを、疲れていたのでという言い訳をして詫びた。

野口さんはそれに応じることはしないで、用件を話した。

「年末から正月に掛けて、いつもの部屋をとってあるから、来るようにと伝えたかったのだ。それだけだ」

 ぼくには、そのような経済的な余裕はない。交通費だって出せないし、宿泊代も払えない。ぼくは、なにも答えないまま沈黙した。

 野口さんは、話を続けた。

「引っ越したようだな。今の住所を言いなさい」

 ぼくは、言われるままに、今の住所を伝えると、野口さんはなにも言わずに電話を切った。

 また、ぼくは罠にはまったのかもしれないと思った。

 野口さんがぼくを罠にはめる理由が分からない。しかしぼくに罠をかける悪魔がいて、ぼくがその罠にかかるように仕組まれている。そんな気がする。

 でもそんなことどうでもよかった。ぼくの人生なんか本当にどうでもよかった。

 二日後、野口さんから現金書留が届いている旨の不在連絡票が、アパートの郵便受けに入っていた。次の日、会社の帰りに郵便局の夜間受付口で現金書留を受け取ってアパートに戻った。

 部屋に戻り、寝る間際に現金書留の封を開いた。ここからどのような罠がこぼれ落ちてくるのだろうか、考えつくものはなにもなかった。

 中から一万円札と本土と島までの高速船の往復切符が入っていた。十二月三十一日に出発して、一月二日に帰ってくることになる。

 ぼくが乗ることになる船やバスの時間が書かれた指示書のよう手紙が添えてあった。

これは何なのだろう? 

 布団に入ると、ぼくは砂浜の岩に座り、消えた島を見ようとしている自分になった。

 そのまま眠りに入り、夢の中でも消えた島の方角を見続けている。空はどんより曇っているが風は吹いていない。

 暖かく穏やかな日だ、そこに片山さんと野口さんが現れてぼくを見て大笑いをしている。

 ぼくはこの二人を棍棒で殴ってやろうと思い、岩に座ったまま目で棍棒になる枯れ枝を探すのだけれど、枯れ枝が見つからない。

 見当たらないどころか座っている岩が砂に変わっていく。海も風も、何もかも砂に変わっていく。前を見ると棍棒を手にした片山さんと野口さんが、恐ろしい形相をして、今にもぼくに殴りかかろうとしていた。

 そこで目が覚めた。汗をかいていた。


 年末年始にぼくが行ける場所などどこにもない。野口さんの立ててくれた計画に従えば、それでいいのだが、しかしぼくは、野口さんとは、そんな親しい間柄だとは思ってはいない。

 ぼくが昔、野口さんのペンションのあるところに住んでいた可能性があることも、話してはいなかった。

 夢の中で、片山さんと野口さんが、ぼくに殴りかかってきたことも、心に重くのしかかっていた。

 野口さんがぼくから奪えるものは、何もないと思う。

 そこはぼくが両親と暮らしていたところだ。そこに罠があるのであれば、落ちていってもいいと思う。


 年の瀬を迎えた。

 朝、悪寒がして通勤の途中から頭痛がし始める。

 会社にいる間中顔がほてり、頭痛が治まることはなかった。熱が高くなっているのが分かる。夜九時まで会社で残業をし、今日はバスで帰ろうとバス停まで辿り着いてみると、最終バスが出たところだった。

 バス停のベンチに座り込む。とても歩けない。寒さで震えそして熱い。不思議にぼくは落ち着いていた。ぼくは生きたいとは思っていなかったのだ。そのことを実感として知った。

 誰かがぼくを見ているような気がする。熱で意識が漂っている。誰かがぼくの頭を押さえ込んでいる。息が苦しくなる。頭を押さえているその手に、ぼくの気持ちはどうして安心しているのだろうか。

 迷路の中で助かりたいと慌てていたわけではないけれど、ぼくを迷路から導いてくれる手を感じていたような気がする。

 ぼくは誰かに支えられて、白い部屋に運び込まれた。そこに初老の男性が現れて、ベッドに寝かされ長い時間をかけて点滴を打たれた。

 情況を理解できないまま、しかし点滴を打たれている時間の長さだけは克明に覚えていた。

 点滴のビニール袋から落ちてくる薬剤の滴を見つめていた。この滴がぼくの命の滴のように感じていた。その滴の映像がやがてそのまま夢の世界になった。起きていた世界と夢の世界と違うところは一つだけだった。

 夢の世界は空気が黄色み掛かったミルク色だった。薬剤の滴が薄いガラスから出る鈴のような音を出しながら一滴一滴と落ちていた。

 その音はいったい何だったのだろう。とても懐かしい鈴の音のようだった。


 その眠りから目を覚ますと、そこはベッドが六台ある病室だったが、使われていないようだった。人の気配がなかった。しかし部屋の整備はされていた。

腕時計を見ると、朝の五時を回ったところだった。ゆっくり起き上がり廊下に出てトイレを探した。

 身体は楽になっていた。熱も下がっているような気がした。しかし歩くと少し足下がふらついた。病院用のパジャマを着ていたが、点滴を打たれる前に誰かに手伝って貰って着替えたような気がする。

 それは医師ではなかった。ベッドのよこの台に、ぼくの服が畳んで置いてあった。

洗面所で顔を洗ってベッドに戻り、枕元の灯りを点けた。部屋は暖房がついていた。ベッドに腰掛け昨日のことを思い出そうとするけれど、まだ頭はしっかりとはしていない。どこかに熱が潜んでいる。

 階下から階段を上るスリッパの音が聞こえてくる。窓の外が明るくなってきた。

猫背の初老の医師がパジャマ姿で現れた。

「どうだね。具合は」寝起きの顔でぼくを見た。

 ぼくは昨夜のお礼を言った。

「もうすっかり良くなりました」

 医師はぼくの口の中を見て、聴診器をぼくの胸と背中にあてた。

「今日一日は、家で安静にしていた方がいい。ここの病棟はもう使われてはいないのだ。一昨年、わしは病院長から町医者に変わった。近所に大きな病院が増えたし、わたしも年を取った。着替えたら一階に降りきなさい」

 ぼくは慌てて着替え、ベッドを直すと、一階に降りた。いつも持ち歩いている健康保険証を見せ、薬をもらい、それから費用を払った。入院は出来ない病院なのでという理由で入院費は取られなかった。財布に入っていたお金でなんとか支払うことができた。

「昨夜、ぼくをここに運んでくれた方はどなたなのでしょう」

 一番知りたいことを尋ねた。

「わたしとは顔見知りの若い女性だ。知り合いなので君を泊めてくれと懇願されたので、入院ではなく泊めたのだ」

 ぼくはその女性に、お礼を言いたかったので、その女性について聞いたのだけれど、

「彼女は君をよく知っているのだから、彼女から君に連絡がいくだろう。わたしが勝手に教えてトラブルになったら困る」と言って、何も教えてはくれなかった。

 ぼくは、それ以上聞くことはできなかった。

 もう一度初老の医師にお礼を言って医院を出た。その足で会社に向かった。

ぼくには若い女性の知り合いはいない。会社の他の部署には若い女性はいるけれど、話したこともないし顔もよくわからない。ぼくのことなど知っているはずはない。

ぼくのことを知っている女性などいないのだ。しかしぼくを助けてくれた人がいる。

そのことは、考えないことにした。考えても何も思いつかないのは分かりきっていた。

 ぼくを知っている人はいない。ましてやぼくを助けてくれる若い女性などいるはずはない。

 ぼくは歩いて診療所から会社に向かった。少しめまいがして足下がふらついたが『何も問題はない』と、自分に言い聞かせた。

 今日十二月三十日は、午前中に掃除と片付けをして、午後は解散となった。ぼく以外の社員は納め会で町に繰り出していった。

 明日は島に渡らなければならない。なんとかそれまでに、熱は下げておきたかった。家に帰ると、共同炊事場でお湯を沸かし、それで身体を拭き、カップ麺を食べ、薬を飲んで布団に潜り込んだ。

 なかなか寝付けない。身体から熱が抜けていないのを感じる。死という言葉が浮かぶ。今までにも死への希求がなかったわけではない。

しかし、クリスチャンの自分にはそれが許されてはいない。

明日島に渡る。そこは両親と五年間暮らした場所だ。そこが唯一、ぼくの帰る場所のような気がする。そこで死ぬことができたらと思う。

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