第2話②

 島が消えている。

 前の年、ここから本土に帰るときに、ぼくは何か大きな勘違いをしているのだと思った。

あるべきものが、そこに存在しない。親が結婚式を挙げ、ぼくが生まれた場所がなくなっていた。

 その時、ぼくはペンションの野口さんにそのことを言い出せなかった。話をしたとしても、ぼくの話はうまく伝わらないどころか、ぼくの精神に何か問題があるのかと、思われてしまうだろう。

 アパートに戻ってきてしばらくの間、そのことが頭から離れなかった。ぼくの存在が、どんどん消えていくように感じた。

 ぼくの戸籍はぼくの生まれたレマ島ではなくて、赤い屋根のペンションのある島になっていた。


 七月、夕方六時を過ぎてもまだ明るい。仕事が終わると、いつもの通り三十分をかけて歩いて家に帰る。道すがら思いはレマ島に向かう。

 一つの考えが浮かんできた。

『ぼくは大きな勘違いをしているのではないか。ぼくが登っていた棕櫚の木は、ペンションのそばのあの木ではないとしたらどうだろう。どこかの船着き場前の棕櫚の木に登っていたとしたら。ぼくは平日は船でレマ島に渡っていた。母か父が運転する車で近くの船着場まで行き、そこから一人で船に乗って教会の保育所に向かった。船着き場のそばに棕櫚の木があって船を待つ間その木にのぼっていたのではないか』

 その考えは正しいように思えた。遂には、そのことはそれで解決したと、自分に思い込ませた。

 

 今回、二回目の赤い屋根のペンションに来たのはレマ島を見つけるためだった。

 滞在二日目、朝一番のバスで町まで行くとレンタカーを借りて島を回った。

 海沿いの先に島が見える場所は、何カ所もあった。ぼくの泊まっているペンションの前に、島が見えないのが不思議なくらい、この島は、まわりをたくさんの島で囲まれていた。

 何カ所か船着き場のあるところに車を置いて、島を見て、棕櫚の木を探した。ぼくのイメージに一番近い場所はやはり、赤い屋根のペンションのそばにあった。

 その船着き場は廃屋のようになっていたが、よく見ると時刻表が貼ってあった。この時刻表が今も運用されていれば、次に船が来るのは四時間後になる。

 船着場のそばに立っている棕櫚の木を抱きかかえてみたが、伝わってくるものが何もなかった。

 この棕櫚の木では、ないと思う。ぼくが棕櫚の木に登って見ていた島の形と、今見ている島の形が違うと思った。でもここしかなかった。

 歳月を経れば、感触もイメージも変わってしまうと無理矢理思うことにした。

 船着き場やその辺りにも人の気配はなかった。何か思い出せるものはないかと、海の向こうの小島を右手に見ながら十分ほど歩いてみた。

 自転車に乗ったお爺さんが近づいてきた。挨拶をして呼び止めると、声を掛けてくれたことを喜んでいるように、自転車からおり、

「よか天気たいね」と、言った。

 呼び止めたことを謝って、すぐにレマ島のことを聞いた。

「ぼくはこの島のすぐそばの小島で生まれました。その後両親が不慮の事故で死に、五歳のとき島を離れて本土に渡り、今は本土で生活をしています。久しぶりに戻ってきたら、ぼくの生まれた島が分からなくなり探しているのです」

 お爺さんはしばらくぼくの顔を見て、それから海の向こうの島を見た。

「島に渡るにも、船は今の時間出ておらん。おいは昔漁師やったと。今は自分が食べる分しか釣らん。昔の人は少のうなった。」

 ぼくの気持ちを伝えるのは難しい。自分でさえ、自分の気持ちが整理できていないのだ。ぼくがレマ島を見つけ、そこに行けたとしても、誰もいない深閑とした場所でむなしく思い出だけが漂っているような気がする。

 ぼくはきっと、今よりも孤独になる。

 お爺さんは何も言わず、自転車に乗ると、来た道を戻っていった。

 ぼくは本当にここで生まれたのだろうか。ぼくに親がいたのかどうかさえ、よく分からなくなった。

 取りあえずぼくは、仕事をして、生活をしている。どこかで生まれていなければならない。しかしその場所は消えてしまった。

 ぼくがこの島で生きていたことを知っている人は、誰もいないようだった。

 ぼくの過去は、両親と共に消えてしまったのだと、海風に吹かれ、少し震えながら思った。


 廃屋のような船着き場までゆっくりと歩いて戻った。もうこの島に来ることはないだろうと思う。

 船着き場に向かって、小舟が入ってくる。その小舟を操船しているのは先ほど会ったお爺さんだった。ぼくは、何かを考えることもなく、多分無意識でその小舟に近づいていった。

「わいが行きたごうとった島に、連れて行ってやろう」

 お爺さんが右手で舵を切りながら叫んだ。 

 船着き場から、小さな釣り船に乗った。乗るとすぐに小船は動き始めた。小さな椅子に座り右舷の手すりにつかまった。

 お爺さんは玄米と言い、漁師をしていたのだと、また言った。

 床の上の水の入った発泡箱にはマダイとアオリイカがおよいでいた。

 十分ほどで島に着いた。

 船から下りるとき、玄米さんは首から提げていた木製のロザリオを手に取ると、

「こいばおまえにやる」と、ぼくの前に差し出した。

 ぼくは一瞬ためらったが、これを受け取ることが玄米さんの気持ちにつながることなのだと、なぜか思った。

 ぼくは頭を下げてお礼を言った。

 二時間したら迎えに来ると言い残して、船は引き返していった。

 ロザリオを右手で握りしめながら、ぼくは坂道を上り始めた。

 道がぼくに記憶を呼び戻している。この坂道を一人で上って、五歳までのぼくは、教会の保育所に通っていたのだ。

 坂道の最後の角を曲がると教会はあった。教会は小さくなったように感じた。扉の引き戸に手を掛け、少し力を入れて引いた。扉は簡単に開いた。十坪ほどの小さな聖堂の壁に磔刑になったキリストがいた。

 祭壇の前のベンチに座る

 時間が止まっていたような気がした。ぼくはずっとここにいたのではないか?

五歳の時ぼくはここを去ったことになっている。しかしその後の時間は全部熱に浮かされた夢だったのではないだろうか。ぼくは、いつも一人でここにいたような気がした。

 聖堂の中は、塵やほこりもなく清楚に片付けられていた。母と父の顔が目の奥に映る。いままで両親の顔を思い出すことはなかった。最初から覚えていなかったのではないかと思っていた。

 思い立って、聖堂を出て保育所のあった場所に行ってみた。教会の横にある集会所だ。やはり引き戸は簡単に開いた。もともと鍵はなかったように思う。ここの部屋も小さくなったような気がする。

 毎日、ぼくはここで一日を過ごしていた。

 ぼくと美奈子ちゃんとシスターの上戸先生と時々レイマさんもいたと思う。山を歩いたり、歌を習ったり、掃除をしたり、お昼ご飯を作って食べたり、お昼寝をしたり、そして教会でお祈りをした。お祈りと言っても教会で静かに座っていることだった。

 この部屋の壁には棚が付いていた。そこに石膏のマリア様の像があった。ぼくが我が儘をいうと、マリア様の下に座らされて先生に叱られた。ぼくはよく叱られていたと思う。美奈子ちゃんはぼくの横に立って、叱られているぼくを見下ろしていた。

 その棚にマリア様がいなくなっていた。ぼくにとって、とても大切なものだ。

ぼくは今でも、困難なことが起きると、ここにいたマリア様を思い浮かべていたことを、今知ったように思う。

 ぼくの無意識の祈りがきっとこの部屋まで飛んできていた。


 マリア様の像がいなくなった部屋を見回すと、ここはレマ島ではないような気がしてきた。

 外に出た。

 教会から少し坂をおり、脇道に入ったところに美奈子ちゃんの家があったはずだと思う。

 家は閉ざされていた。人が住んでいるような気配はなかった。

 家の形は整っているけれど、もう何年も人は住んでいないようだった。近所に家はなく、うっそうと木に囲まれていた。美奈子ちゃんの家ではないような気がする。やはりここはレマ島ではない。 

 坂の途中から、玄米さんの船が近づいてくるのが見えた。ポケットから先ほど玄米さんにもらった木製のロザリオを出し、首からさげて、船着き場に急いだ。

 帰りの船の中で、ここ以外に教会のある小島はないかと聞いた。

「村から離れたことはなかけんでわからん」と、独り言のようにつぶやいた。

 船から下りるとき、お礼にと千円札を二枚出すと、ちらっと見ただけで受け取らないで、船はすぐに村の入り江の方へ帰って行った。


 ぼくはレンタカーに乗り、赤い屋根のペンションに戻り始めた。

 夕方になっていた。

 棕櫚の木の下に行く。やはりこの棕櫚の木からレマ島を見ていたのだと思う。空は茜色に染まりかけていた。

 棕櫚の葉が風にそよいで何かを語りかけてくるみたいだった。

 夕食の時間になっていたので慌ててペンションに戻った。

 テーブルの窓際の椅子に座る。鯛のソテーを食べながら、ワイングラスにそそがれた地元の白ワインを飲んだ。

 大きなガラス扉が開き、海の音と気持ちのよい風が入って来た。


 次の日、車を町に返しに行き、町からペンションに戻るためのバスの待ち時間が二時間以上あったので、武家屋敷通りにあるふるさと館の喫茶室で持ってきた文庫本を読んだ。

 昨日玄米さんからもらった木製のロザリオは、昨日から首に掛かったままだった。

 シャワーに入るときも寝るときもぼくの胸の上にあった。

 文庫本を置く。顔を窓に向けると早秋の日差しが木葉の上で踊っている。ぼくは玄米さんのことを考えていた。玄米さんは何かを知っていたのではないだろうか。玄米さんの住所を聞いておけばよかった。

 でも玄米さんを探すことは出来ると思った。


 夏休み休暇三泊四日の最終日、まだ暗いうちにペンションを抜け出すと、海岸に行った。海を見ている。夜が明けてくる。手の届きそうなところ、そこにレマ島があるはずだ。

 でも見ることができない。今年もこの苛立ちを消し去ることが出来ないまま、帰ることになる。

 レマ島のことは忘れてしまえばいいのだ。そのことでぼくの生活が変わることはない。相変わらず海の一カ所に青い海霧が掛かっていた。

 ペンションに戻ると、洗面所で髭を剃り、顔を洗い、歯を磨いた。二階の部屋で帰り支度をしてから、一階におりた。朝食の用意ができていた。

 やはり、食堂には誰もいなかった。ぼくは、食事が終わると食器を洗い場に持って行った。野口さんの奥さんは、そのままにしておいてくれればいいと、いつも言っていたけれど、だれもいない食堂に食べ終わった食器が残っているのは、ちょっといやな気がした。

 食堂のテーブルを拭いていると、野口さんが来て、車で港まで送ってくれることになった。

 車の中で、野口さんが突然「次はいつくるの」と聞いてきた。

 ぼくには意外な質問だった。ぼくは、もうここに来る気持はちはなくなっていた。

 でもそんなことは言えないので、

「来年のこの時期にまた来られたらいいと思います」

 気持ちとは裏腹の嘘とも言えるようなことを言ってしました。

 またしばらく野口さんは、黙って運転をしていた。

 民家が増えてくる。学校が見える。もう間もなく島の中心地に入る。

 そこは、島の玄関に当たる港のそばだ。また、突然野口さんは前を見たまま言った。

「もう少し早く来られればいいね」

 ぼくはその言葉にどんな意味があるのか分からなかった。しばらく考えてから、

「はい」と、返事をした。

 商店街のコーヒーショップ前で下ろしてもらった。本土へ行くフェリーが出港する時間はまだ暫くあった。そこから、港までは歩いて十分ほどの所だった。

昨日歩いていたのでおおよその場所は分かっていた。

 コーヒーショップで鞄から文庫本を出し、昨日の続きから読み始めた。その本は遠藤周作の「沈黙」だった。


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