消えた島(五島列島に生きる)
里岐 史紋
第1話 ①
海から吹いてくる風がぼくの耳元で何かを叫んでいるように感じた。
社員が交代で取る夏休み休暇はいつもぼくが最後で、九月の半ばになる。
長崎港からフェリーにのって三時間ほどで到着する五島列島に来ていた。
七月、郵便受けの中に観光案内のチラシが、今年も入っていた。そのチラシに赤い屋根のペンションの写真が載っていた。
このペンションはぼくの家だったような気がする。
しかし、今それを証明するものは何もない。チラシに載っている赤い屋根のペンションがぼくを見つめているように思う。
周囲百キロ以上ある島の岬に、赤い屋根のペンションは建っていた。
前の年、そこに二泊した。しかし何も記憶をたどれるものはなかった。
もちろんペンションの主人野口さんに尋ねることはしなかった。何
をどのように聞いていいのか、分からなかったからだ。
赤い屋根のペンションの二階に一人で泊まっている。
客室は三つしかない。古い民家を改造した小さなペンションだ。
野口さんは以前大工さんだった。多分七十歳位だと思う。今でも頼まれれば大工仕事を手伝うことはあるらしい。顎髭をきれいに整えている。壁に掛けられているこの島の風景画は野口さんが描かれたものだ。夕焼けの海がとても美しい。前掛けにプリントされた港のモダンな絵も野口さんが描かれたものだそうだ。とても器用な人だと思う。
奥さんは、ファッション雑誌に掲載されてもいいような雰囲気をもっている。センスのよい服を着ている。
都会の人みたいな感じを受ける。パンとコーヒーが似合う。ぼくのことを「信司君」と呼ぶ。そんなふうに呼びかけてくれる人は他にはいない。機械の部品を扱っている商社に勤めているぼくを、会社の上司は「大井」と呼びつけにするし、大学院を卒業して入社した、新人の片山さんも入社したての四月から「大井」と使い走りのようにぼくを呼び捨てにした。
ぼくは商業高校を卒業するとすぐにこの会社に入社したので、三年目になっていたけれど、年齢では今年大学院を卒業した片山さんよりかは、四つ下だった。相変わらず会社では一番年下だった。ぼくは会社以外では人とつき合うことはない。だから親しくぼくの名前を呼ぶ人がいないことは仕方のないことだと思っていた。
ペンションから少し離れた野原に、家が一棟建ち始めていた。野口さんが、一人で建てているらしい。今のペンションは古くなって傷みが色々なところに出ているので、新たにペンションとして、家を建て始めたのだそうだ。このペンションの二倍はありそうだ。形もペンションらしく西欧風の建物になっている。時々大工仲間も協力してくれていると野口さんが言っていた。
野口さんは教会も建てたことがあるので、西欧風の家も建てられるのだと思う。
ペンションから海岸に出る道の傍らに、棕櫚の木が一本ある。
その木には思い出があった。五歳のぼくが、木を抱きかかえながら、自分の背丈ほどの高さまで登ることができた。その棕櫚の木が残っていた。
このペンションに初めて来たときの夕方、誰もいないことを見計らって棕櫚に抱きついてみると、昔の感覚が蘇ってきた。今では木に登らなくても、子供の頃の目の高さになっているような気がした。
幼い頃、棕櫚の木によじ登ると、目の前の島を見ていた。棕櫚の木に登った方が島により近づけるのだと思っていた。
しかし今、ぼくのまえにあるはずの島は消えていた。
砂浜に座り込むと、大切なものがまた消えたと思った。
ぼくの前から大切なものが一つ一つ消えていった。
ぼくはその島をレマ島と呼んでいた。
しかしレマ島は消えてしまい、島があったと思われるところには、海霧がかかっていた。
レマ島の小さい教会で、ぼくの親は結婚式を挙げた。それから一年後、ミサの最中に母親は産気づいて、レマ島で一人住まいをしていたお婆さんに、ぼくは取りあげられたのだった。
母はその話をした後に「だからあなたは神様に見守られながら生まれた子なのだよ」と言ってぼくの手をとった。
ぼくが多分四歳か五歳の時だ。
ぼくを取りあげてくれたお婆さんとは、その教会の保育所で何回か会ったような気がする。確かそのお婆さんの名前はレイマと言ったのだと思う。
その方は産婆さんでシスターだったような気がする。その保育所にはぼくともう一人、女の子がいた。
ぼくが五歳だったとき突然両親が消えた。
ぼくを保育所に送った後、両親は日帰りで本土に出掛けていき、そこで事故にあった。
古い二階建ての木造アパートが火に包まれていた。燃えさかる炎の中、一階の格子の入った窓から女の人が外を見ていた。両親は鍵のかかっていないその部屋に入って、その女性を救い出そうとしたらしい。
その時突然二階が崩れ落ち、その女性と共に亡くなってしまった。その女性は身体の不自由な一人暮らしの老女だった。
その話は後日、ぼくが生活をするようになった施設で知った。
ぼくはその事故のあった日、もう一人の園児桧本美奈子ちゃんの家に泊まることになった。ぼくはどうして、美奈子ちゃんの家に泊まることになったのか分からなかった。
次の日両親が死んだことを告げられた。その意味もよく分からなかった。親が、今、死んだと言うことが理解できなかった。両親とぼくは永遠に生活が続いていくものだと思っていた。
次の日、その教会で両親の葬儀が行われた。
背の高い痩せた神父様が、
「信司のお父さんとお母さんは急に天国に帰らなければならなくなったのだよ」と、言った。
ぼくはやはりその意味が分からなかった。顎に髭をはやしたお爺さんが美奈子ちゃんの家にぼくを迎えに来て、船に乗った。
レマ島の小さな港で美奈子ちゃんが「さようなら」と、小さな手を振った。
ぼくは美奈子ちゃんを見たままで、多分首をかしげて、なにも言わなかったのだと思う。手を振り返すこともしなかったと思う。
海岸沿いのぼくの家には、お母さんもお父さんもいなかった。
顎髭を生やしたお爺さんは、タンスからぼくの服を取り出すと、ぼくの子犬のアップリケの付いたリュックにそれを詰めた。
ぼくはそのリュックを一人で背負った。顎髭を生やしたお爺さんは、ぼくの手を引いて家を出た。それから港に行き、大きな船に乗って本土に向かった。
船の中でお爺さんに、「お母さんとお父さんはどこにいるの」と、聞いた。お爺さんは不思議な顔をしてぼくを見た。
船が本土に着くと、車に乗せられた。
白い車で扉に何か文字が書かれていた。ぼくが車に乗ると、お爺さんは「元気でな」と言って、くるりと背中を向け、どこかに行ってしまった。
ぼくを乗せた車は、海沿いを少しの時間だけ走った。運転をしている男の人は何も話さなかった。ぼくも黙っていた。
白い四角の建物に着くと、男の人が「さあ降りなさい」と、言った。
ぼくは必死で扉を開けようとしたけれど開かなかった。外から別の男の人が、扉を開けたので、車の外に出た。
ぼくはずっと子犬のアップリケが付いたリュックを背負っていた。歩くときも、船の中でも、車の中でも、そして白い家に入るときも。
白い家に入ると、ゴアゴアの毛糸の服を着た太ったお兄さんが、小さい部屋にぼくを招き、そこの椅子に座るようにと言った。
太田さんだった。太田さんは、ぼくが中学校を卒業するときに施設をやめて、都会に行ってしまった。
太田さんは小さな部屋で、施設の決まり事を優しくぼくに説明してくれた。最後に何か聞きたいことはあるかと言ったので、
「お母さんとお父さんはどこにいるの」と聞いた。
太田さんは少し困った顔をすると、それには取り合わず、ぼくを四人部屋につれていき、奥の右側の二段ベッドを指さした。その下側がぼくの居場所になった。
収納用の二段重ねのカラーボックスが部屋の奥にあった。ぼくの収納場所は右側の下だった。
太田さんに言われるとおり、子犬のアップリケの付いたリュックを肩から下ろして、なかから服を出し、しゃがんでぼくのカラーボックスにしまった。
部屋には、ぼくよりも年上の女の子が三人いた。みんな大人しかった。会話はほとんどしなかった。
すみれちゃんは時々思い出したように大きな声を出して泣いた。みんな最近ここに来たようだった。
小学校を卒業し、男の子だけの四人部屋に移された。
その部屋ではぼくが一番年上で、他の三人の面倒を見なければならなかったが、夜はみんな集会室で遊んでいたから、ぼくは部屋の隅にあったテーブルで静かに勉強することが出来た。
中学を卒業すると、奨学金で県立の商業高校に通うことが出来た。
義務教育を修了すると施設から出なければならなかったので、奨学金を出してくれる団体の役員の人に保証人になってもらい、アパートを借りた。
下校後の夕方と休みの日はコンビニでバイトをして生活費を稼いだ。商業高校で習っていた簿記の方法で小遣い帳を作っていたので、無駄遣いはせず、貯金も少しできた。
部活も遊ぶこともしなかったし、学校までの往復もバスに乗らないで片道四〇分を歩いて通った。途中にバイト先のコンビニがあった。
家に帰ったら宿題をして寝るだけだったので、テレビやラジオも必要はなかった。携帯電話も連絡する相手がいなかったので、持つ必要はなかったが、バイト先の店長に連絡できないのは困るからと言われて、プリペード式の携帯を持たされた。
その費用はバイト代から引かれた。
高校を卒業すると、機械の部品を取り扱う商社に入社することが出来たので町のアパートに移った。その町は両親に連れられて一度来たような気がする。そして両親はこの町で死んだ。
高校に入ると間もなく、ぼくのいた施設が閉じられた。小学校も中学校も統廃合でなくなり、その場所は老人のための福祉施設になった。
商業高校も廃校にむけ生徒募集をやめた。一歩前に進むと、ぼくの過去は一つ一つ消えていった。
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