第五章 名探偵の場合
名探偵という生き物がいる。
それは職業じゃない。生き物の名前だ。
世の中の難事件を解決し、喰らい、生きてる、妖怪のようなもの。
それが俺、渋谷慎吾なわけだが。
名探偵がそういう生き物だというのは、俺と俺の周りの人たち……つまり、名探偵の効力に巻き込まれ、何度も何度も事件に巻き込まれる羽目になった茗ちゃんとか、笹倉とかとの共通認識だ。
だけど、名探偵は生まれた時から名探偵だったわけじゃない。
仮に、そうだとしたら俺は、幼少期から行く先々で死体を見つけていなければいけない。「あれれー、おかしいぞぉー」とか言って。
そんなことは決してなかったので、名探偵は先天的なものではない、後天的なものだ、
そして、自分がなぜ、名探偵になったのかはなんとなくわかっている。
思い出す。小学生のころ。夏の、あの日。セミが鳴く公園。
大人たちがヒソヒソ何かを話している。そちらを見たら、小さな女の子が泣いていた。言い方は悪いけど、ちょっと小汚くて、髪の毛もぼさぼさで、あからさまに変だった。
「どうしたの?」
一瞬ためらったけど、じいさんが女の子には優しくしろと厳しくしつけてくれていたから、俺はその子に声をかけた。
きっかけは、あの時だ。少なくとも、自分が探偵になりたいという明確な正義の心を手に入れたのはあの時で間違いない。そして、俺があの子を好きなのも。
ずっと泣いていて、全然笑わないあの女の子を守ってあげたいと思ったんだ。
でも、再会なんてしなければよかった。君を巻き込んでしまうなら。名探偵の恋人なんていう、不遇な立場に追い込んでしまうのならば、再会なんてしなければよかった。
いつだったかそう口走った俺に、
「何を言っているの? そしたら私、今頃死体よ?」
呆れたように彼女が言った。
名探偵と因縁のある女性が死体で発見される。それは確かによくありそうな筋書きだ。
「私の方こそ、あなたを名探偵にしてしまったんじゃない?」
そんな風に思わないで欲しい。確かに、あの時の出来事は俺に多大な影響を与えた。あれが探偵を志すきっかけになった大きな理由ではある。だけど、それは、彼女のせいではない。俺がそうしたいと思ったから。
秋の海で、大声で泣いていた君を守りたいと思ったから。
その力を手に入れたことは感謝しているのだ。ちょっと、副作用が大きかっただけで。だから、茗ちゃん、
「泣かないで」
そう呟いた自分の声で目が覚めた。
蝉の鳴き声も、潮の匂いもしない。
「あー」
見上げた天井は自宅のものでも、二週間閉じ込められた孤島の別荘のものでもなかった。ここは、茗ちゃんの家だ。
そうだ昨日、島からこっちに戻ってきて、とりあえず茗ちゃんに会おうと家に勝手に上がりこんだった。
結局、ちゃんと話をする前に耐えられなくて寝ちゃったんだけど。
横を見ると、その茗ちゃんが眠っていた。
もともと童顔な俺の恋人は、寝ている時はさらに幼く見える。失った幼少期を取り戻すかのように。
眠っている彼女に、あの蝉の公園での面影を強く感じる。
茗ちゃんを起こさないように気をつけながら、枕元に放り投げたケータイを探す。朝の六時だった。
ゆっくり上体を起こすと、背中がひどく痛んだ。
そういえば、崖から落ちたんだっけ。孤島での出来事を思い出してうんざりする。本当、面倒くさい連続殺人事件だった。オペラを題材にして連続殺人を犯そうとする人間にロクなのはいないと思う。殺される側にも。
傷は痛むが、これぐらいの怪我はそんなに騒ぐようなことではない。シーズンごとに訪れる、スペシャル回のようなものだ。
そもそも俺は、いくら怪我しても死ぬことはない。そういう自信がある。
なぜなら、まだこの話には、探偵役が死ぬフラグは立っていない。
万が一、そのフラグが立ったら、全力で握り潰しにいく。
「シン……」
可愛く名前を呼ばれたので起きたのかと思ったが、寝言だったようだ。
なんとなく手を伸ばし、その頬を撫でる。くすぐったかったのか、
「んっ……」
えらくエロい声を出された。
二週間孤島に閉じ込められていて、正直めちゃめちゃ茗ちゃんに会いたかった。謎を解いたあとはいつも会いたくなるけど。
ただ、その時に手は出さない、というのを自分ルールで決めている。
茗ちゃんと再会した大学生のころ、恥ずかしながら俺は女遊びがかなり激しかった。
もともと俺は実家の家族との折り合いが小さいころから悪かった。大病院の院長一家の長男として生まれ、跡取りになるはずだった。だけど、ガキの頃の俺はまあ勉強はできないわ、そのくせ探偵小説ばかり読み漁るわで、親を含め親戚の期待値はかなり低かった。姉が、なかなか優秀だったこともあるけど。
あの家で俺を人間扱いしてくれていたのは、死んだじいさんだけだった。
いろいろ不満がたまっていた俺は、大学受験の時に猛勉強した。そして、姉が通っていた大学よりも、さらに偏差値の高い大学の医学部にストレートで合格した。のを、入学手続きをわざと怠ってなかったことにした。
あの時の両親や親戚の怒り狂い具合は、かなり面白かった。
子供のころから貯めていた貯金と、じいさんの援助で家を出て一人暮らしを始め、一年遅れで法学部の大学生になった。
言い訳だというのは十分わかっている。それでも、あの時俺は寂しかったんだ。そして、二十歳の、我ながらまあまあ良い顔と、達者な口を持つ男が寂しさを埋める手段として選んだのは、女性だった。
とりあえず合意の上での関係で、お互いに遊びだったということだけは主張しておきたい。それにしたって、最低だとは思うけど。
茗ちゃんと再会したのも、合コンの席でだった。人数合わせで呼ばれた茗ちゃんと違って、俺は最初から行く気満々だったし。まあ、あの合コンに関しては、行ってよかったと心底思うけど。
「渋谷慎吾……? もしかして、厳悟のおじいちゃん先生のところの、シン兄ちゃん……?」
目の前の女の子から、じいさんと俺の懐かしい呼び名が登場した時は本気で驚いた。
「え、もしかして……」
「あ、はい。硯茗です。その……ご無沙汰してます」
あの時以来、まったく連絡を取っていなかったけど、ひとまず元気そうで安心した。その場は取り繕って、合コンを続け、二次会はパスして彼女を連れて別の店に行った。他人には聞かれたくない話があったから。
「その、元気だった?」
「……おかげさまで」
笑うけど、答えるまでの間でいろいろあったんだろうなと思った。
「法学部なんだよね。……ご両親のことで?」
「はい。弁護士に、なりたいと思って」
でも、いろいろあったにしても、今は過去に向き合って弁護士になろうとしている。すごい子だなと思った。対して俺は、
「渋谷さんは、どうして法学部なんですか? お医者様になるんだとばっかり思っていましたけど」
「あー、実家は姉が継ぐから」
俺は家から逃げて、探偵になりたいという夢みたいなことをほざきながら、なんとなく法学部に入っただけだった。
近状報告とか、当たり障りのない話をして、そのあとは終わった。終電にぎりぎり滑り込む。
メインの乗り換え駅を過ぎてしまえば、混雑は多少軽減される。空いた席に彼女を座らせ、たわいもない話をしていた。
「あ、次で降りますね」
茗ちゃんが言った時、俺はそっか、とか言って笑った。
気をつけて。またね、連絡するね。そう言って別れるつもりだった。最初は。
だけど、またっていつだろうと思った。
連絡して、この子はまた俺に会ってくれるのだろうか。つらい思いをした時に出会った、俺なんかに。
そして、俺はこのまま帰って、今日は一人で眠らなければいけないのだろうか。
この子を逃したらいけない。この子とだったら、真人間に戻れる。あの時、小さな女の子を守りたいと思った、あのまっすぐな心を今ならまだ取り戻せる。そんな風に考えたんだ。
電車がホームに滑り込み、腰を浮かしかけた彼女を遮るように、
「茗ちゃん」
名前を呼ぶと、顔を近づける。
電車内だとか、そんなこと考えなかった。
もしも泣いて嫌がられたら、諦めようとは思っていた。
だけど茗ちゃんも目を閉じてくれたから、そのまま彼女の唇に自分の唇を重ねる。
ドアが閉まったころ、唇を離し、
「終電、なくなっちゃったね。うちに来ない?」
そう誘ってみた。彼女は小さく頷いた。
今ならわかる。あの時の俺たちはお互いにあちらこちらに傷を負っていて、それを慰め合う相手が欲しかっただけだ。そしてお互いに、過去を知る人物は便利だったのだ。
気持ちのメインは茗ちゃんになっていた。それでも、関係をちゃんと切らないままの女の子も何人かいた。あの頃の茗ちゃんが文句を言うことはなかったから、やっぱりあの時のあれは、傷の舐め合いだったんだ。
大きく変わったのは、多分じいさんが死んだ時。茗ちゃんと再会して、半年後のことだった。
九十も超えていたし、いわゆる大往生というやつで、本人はかなり幸せそうな顔をして逝きやがった。だけど、俺は唯一味方でいてくれた親族を失った。
「お前はもう、この家には関係ない。葬儀にも来るな。恥さらしが」
両親と姉に、完全に絶縁を言い渡された。あいつらに優しくされた記憶なんて全然ない。それでも、心のどこかで期待していたのだ。家族として扱ってくれることを。
心が折れた俺が向かったのは、茗ちゃんの家だった。
家族のことを相談できるのは、茗ちゃん以外にいなかったから。二十年前のあの夏の日、茗ちゃんを連れて帰った俺を家族は詰った。余計なことばかりして! と。もっとも、あの頃はまだじいさんが元気だったし、一喝してくれたおかげで面と向かって文句を言われたのは最初だけだが。
それでも、茗ちゃんはあいつらがどんな人間を知っている。だから、俺は茗ちゃんにすがりついたのだ。ただ、慰めて欲しくて。一人になってかわいそうに、って言って欲しくて。
だけど、茗ちゃんは、
「ねぇ、失礼な言い方だけど、おじいさまの遺産ってかなりあるわよね?」
思いがけないことを言い出した。
「え? あ、うん。あるけど」
「もしもだけど、ある程度まとまったお金があったら、あなたがやりたがっている探偵事務所ができるわよね?」
その頃の俺は、ちょっとだけ学内でなんでも屋のようなことをやっていた。普通の企業に就職する自分が想像できなくて、探偵事務所でもやりたいと言っていたのだ。あれは半分夢物語だったが、茗ちゃんは真剣に覚えていてくれたらしい。
「え、でも俺に相続権とかなくない?」
「私、あのおじいさまがあなたにびた一文も残さないってありえないと思うの。おじいさまが亡くなれば、あなたが渋谷の家から追い出されるのは明白だったし。だったら、残しているんじゃないかしら?」
「何を?」
「遺言書」
「そんなものがあるって、俺聞いてないけど……」
「あるとしたら、多分あなたに有利であの人たちには不利なもののはず。そんなものがあったとしたら、隠蔽するに決まっているわ、あの人たちなら」
人の家族に随分な言い草だが、それには賛成できた。
あいつらならば、やりかねない。院長の座を退いてもなお、患者から好かれているじいさんを疎ましく思い、金が欲しいと口にしていたようなやつらだから。
「探してみる価値はあるんじゃない?」
茗ちゃんが微笑んだ。
「そしたらあなたは、やりたかった探偵事務所をやればいい」
ね? と笑う。
そして本当に、あいつらが隠していたじいさんの遺言書を見つけてくれた。実際に動いてくれたのは、今の茗ちゃんのボスである上泉先生だが、それでも彼女に頼んでくれたのは茗ちゃんだ。
「遺言書の隠蔽は相続人の欠格事由に当たりますけど、どうするんですか?」
偽物だの、守銭奴だのやいやい言ってくる親族を、冷たい目で睨む。元敏腕検事の眼力は俺でもおっかないと思う。
本来ならば、隠蔽したあいつらには相続する権利がないとして、俺が全部もらうこともできた。だけど、それをやると恨まれてひどい目に遭うはずだ、という上泉先生のアドバイスに従って、遺言書どおりの相続で手を打った。
それだって、俺が探偵事務所を開いて、しばらく暮らしていくにはなんの問題もない金額だ。
「本当にありがとうございます、上泉先生、茗ちゃん」
片がついて頭をさげる俺に、茗ちゃんは、
「当たり前じゃない慎吾。昔、あなたは私を助けてくれたんだもの。今度は私が助ける番でしょ?」
綺麗に微笑んだ。
それを聞いて、不覚にも俺は泣きそうになった。
ああ、この子を俺はちゃんとあの時助けられていたんだ。
今更ながらに、ちゃんと理解した。不安だったんだ。あの時の俺は、余計なことをしただけじゃないかって心のどこかで思っていた。俺じゃなくてもっと他の人の方が、彼女にいい道を提示できたんじゃないかって。あんなギスギスした家じゃなくって、別の場所に避難できた方がよかったんじゃないかって。
だけど、間違ってなかったって教えてくれた。
そこから俺は、探偵事務所を開くための準備を始め、一方で他の女の子たちと縁を切り始めた。
同じころ、茗ちゃんが司法試験の予備試験に合格した。今の司法試験は法科大学院を卒業するか、別に予備試験を合格するかしないと受験資格がなくって、俺は何も考えずに茗ちゃんも法科大学院に進学するんだろうと思っていた。
けれど、彼女には大学の四年間と、大学院の二年間は長すぎたようだ。予備試験に合格して、次の年に受けた司法試験で合格した。
頭がいい子だとは思っていたけれど、めちゃくちゃ優秀だと思った。大学在学中に司法試験合格とか。そして、本当に努力していたのだ。
司法試験の合格発表の日、茗ちゃんに海辺に呼び出された。
「法務省まで見にいかないの?」
法務省に合格者の番号が張り出されるが、それを見に行くのはやめたようだ。
「ネットでいい」
短く言われた。
合格発表は十六時。直後はなかなかサーバーに繋がらなかったりしていたようだ。
呼び出されたものの、ちょっと離れたところにいて、と言われたので、砂浜に腰を下ろして、黙って海を眺めていた。近くにいても俺にできることはないし、待っているこっちも胃がキリキリしてくるし。
ちょっと経ってから、俺に背を向けていた茗ちゃんが振り返る。顔がこわばっていて、それがどっちだかぱっと見にはわからなかった。
在学中一回で合格する可能性の方が低いことを考え、慰めの言葉をなんとかひねり出そうとした俺の予想に反して、
「番号、あった」
硬い声で彼女が答える。
理解するのに一瞬間があって、
「マジで?!」
理解したときには、妙に大きな声が出た。
慌てて彼女に駆け寄ると、画面を見せてもらう。確かに彼女の番号があった。
「本当だ! すごい! やばい! 茗ちゃん、やったじゃん!」
はしゃぐ俺に対して、茗ちゃんは無言で頷くと、なぜか靴を脱ぎだした。
「茗ちゃん?」
怪訝に問う俺を無視して、茗ちゃんはそのまま海の方へガンガン進んで行く。服を着たまま、海の中へ。
「ちょっと、茗!」
慌てて追いかける。茗ちゃんは俺を無視してガンガン進んでいき、突然顔を海につけた。
「うわぁぁぁ、何やってんだよ!!」
慌てて腕を掴んで引っ張りあげる。
なんだ、この奇行は!?
「しょっぱい」
茗ちゃんが呟く。
「だろうね! ああ、もう、目にしみるでしょ」
シャツを脱いで、それで茗ちゃんの顔を拭いていると、
「うん、しみる」
茗ちゃんが、呟く。
「だったら、なんで……、茗ちゃん?」
「これは、海水の、せいだから」
茗ちゃんはそれだけ言うと、俺の胸元に額を押しつけた。
そのまま静かに泣き出した。
ああ、本当にこの子は、どうしようもない。こんな時ぐらい素直に泣けばいいのに、海水のせいにしないと泣けないなんて。
「茗」
隠したいだろうにだんだん大きくなってくる嗚咽。
たまに聞こえる、お父さん、お母さんっていう言葉。
彼女が七歳の時から背負ってきたもの。
「合格、おめでとう」
耳元で囁くと、彼女はついに大声をあげて泣き出した。
ああ、もう絶対この子を守っていこう。そう決めた。
だからだろうか。夢の中に出てくる茗ちゃんにはいつも、蝉の鳴き声と潮の匂いがつきまとっている。
俺はもう完全に他の女の子と手を切って、真面目に茗ちゃんと向き合っていくと決めた。それは俺が勝手に決めただけだと知ったのは、遺産相続が決まってから一年半ぐらいあとだろうか?
晴れて探偵事務所のオープンが決まった日だ。
前々から、事務所を開く時には何か看板犬のような動物を飼いたいと思っていた。犬はちょっと大変だし、と思っていた時に出会ったのがキューだった。ペットショップで売れ残っていた九官鳥。
言葉を覚えすぎて逆に買い手がつかないと店主が言っていた。それが俺にぴったりだと訳もなく思った。
そのまま連れて帰り、事務所の俺の机の隣あたりに置く。
「これからよろしくな、キュー!」
「ゴンベイ!」
そうだ、あの頃からあいつは変な言葉を言っていた。誰か客が覚えさせたんだろうな。
そうこうしているうちに、茗ちゃんがやってきた。オープン祝いと言って。
「よかったね、慎吾」
「ありがとう、茗ちゃんのおかげだよ」
答えると、茗ちゃんは弱弱しく笑った。珍しく。
そして、ちょっと言いよどむようにしてから、
「いいきっかけだから、私たち、別れない?」
とんでもないことを言い放った。
え、別れるって、何!?
「慎吾も事務所開いたし、私も司法修習始まるし、いい機会だと思うの。いつまでもこんな……過去にとらわれて傷の舐め合いみたいなことをしていても仕方ないでしょう?」
知らなかった。茗ちゃんがそんなことを考えていたなんて。
そして、そんなの絶対嫌だった。俺はもう、傷の舐め合いがしたいから茗ちゃんと一緒にいるわけじゃなかったから。本当に好きだったから、だから一緒にいたのに、そんなこと言われるなんて。
パニクった俺が口にした言葉は、
「わかった。それじゃ別れよう」
だった。
あっさりとした別れの言葉に、茗ちゃんがちょっと泣きそうな顔をして、
「それで、今日からまた新しく付き合おう」
俺は変なことを口走った。意味がわからん、と今なら思う。でもその時は、なんとかして別れたくなくて必死だったのだ。
「傷の舐め合いとかじゃなくて、本当に。俺、茗ちゃんのこと大好きだよ?」
茗ちゃんはくしゃっと顔を歪めて、
「あなたは、何にもわかってないっ!」
そのまま右手を振り上げると俺の頬を叩いた。
ばっしん! と超いい音がした。
「ウヒョォ!」
キューが変な声で鳴いたことは、よく覚えている。
そうやって殴られたものの、最終的に俺の提案は受け入れてもらえた。茗ちゃんとしても、俺に好意を抱いてくれていたのは間違いないことだったから。
それ以来、変な傷の舐め合いとかじゃなくて、普通の恋人として付き合っている。ちゃんと、茗ちゃん一筋で。
一つ問題があるとすれば、探偵事務所を開いてしばらくしたころから、俺が完全に名探偵になってしまったことか。
おちおち旅行にも行けやしない。
以上、回想終わり。ちょっと長くなってしまった。
とまあ、そんなわけで女遊びの激しかった俺は、ちゃんと付き合うようになった後は反省して自分ルールをいくつか設けた。
寂しいからという理由で、彼女に手を出さない。あと、酔った勢いもなし。それから、事件を解決した夜、名探偵として仕事をした日もなし。
そんな時は、ただ単に欲を満たすためだけに彼女を抱いたような気がしてしまうから。
さて、そして今、俺の恋人は隣で眠っている。
今日は土曜日。第三土曜日はもともとできるだけ予定を入れない約束をしている。茗ちゃんは真面目だから、仮に俺から連絡がない状態であっても無理になったら連絡をくれるはずだ。ということは、今日は茗ちゃんの予定は空いている。
で、今日は事件を解決した日には、当たらない。
寝起きの彼女はいつもより素直で、可愛い。
二週間も離れていてしんどかった。
とかなんとか俺が考えている間に、
「ん……、シン?」
茗ちゃんが目を覚ました。
「おはよ」
俺は微笑みかけると、身を屈めて頬と頬をくっつける。ちょっと体が痛かったけれども、我慢だ。
茗ちゃんがくすぐったそうに笑う。普段ならなかなかしない、寝起きならではの顔だ。
決めた。この後意識がはっきりした茗ちゃんに怒られるかもしれないけど、嫌がられないならしたいようにシよう。
ということで、茗ちゃんの隣にもう一度寝転がった。
「俺はやっぱりまだ信じられない。お前が本気で恋愛してるなんて」
「……まだ言う、それ?」
月曜日、孤島の事件の事情聴取で警察に出向いたら、笹倉に会った。まあ、あいつの職場だから当然なんだが。
なんとなく二人で飲む話になって、夜再度待ち合わせをした。そんなバーで酒に酔った笹倉がいつもの話をしてくる。
大学同期のこいつは、俺の女遊びが激しかった時を知っているので、そう思うのもわかるのだが。だからといって、大学を卒業してから何年経っていると思っているんだ。
「だって、あの渋谷が!」
「俺だって人の子なんだけど。あんまり言うと傷つくけど」
こいつの場合、茗ちゃんに気が合ったというのもあるだろうけど。あの日の合コンにはこいつもいて、露骨に茗ちゃんに対しては反応が違うからすぐにわかった。
……あれ、過去形だよな? まさか、今も好きってことはないよな。
急に不安になる。茗ちゃんが笹倉の方に行くとは思ってないけど、なんかこう、やりにくいじゃないか、それって。
「本気なんだ?」
「本気だってば」
「まあ、そうなんだよなー、お前が他の女の子全部切ったんだもんなー」
だから何年前の話をするんだよ。酔うといつもこれだ。っていうか、酔うの早すぎだろ。二杯目だろ、まだそれ。
「なあ」
「あ?」
「結婚しねーの?」
初めての方向性のジャブに酒を吹くところだった。
「はぁ?」
「だって、お前三十路じゃん?」
「まだだよ!」
「付き合って長いじゃん? そろそろ結婚とかならないの?」
「あのなあ、お前、どの立場で喋ってんの?」
どうしたもんかな、と悩む。他の人ならば適当にごまかしただろう。だけど、付き合いの長いこいつには、名探偵の顔なじみの刑事としていつも付き合ってくれているこいつには、あまり不誠実なことはしたくない。俺なりに。
「……俺だって、茗ちゃんと結婚したいし、子供だって欲しいよ。俺と茗ちゃんの子とか、もう絶対可愛いし」
「話ふっといてアレだけど、ナチュラルにのろけぶち込んでくるのやめてくれないか?」
俺は家族に縁が薄かったから、温かい家庭というものに強い憧れがある。それはきっと、茗ちゃんもだろう。
だから本当は、今すぐにだって結婚したい。
今だって、ふざけ半分だけど結婚の話をすることがある。
一昨日だって、そうだ。
「ねぇ、茗ちゃん」
「なぁに?」
「結婚しない?」
「どうして私が泥棒を追いかけ回したり、人の喉笛を切ることを研究したりする男と結婚するとお思いになるの?」
間髪入れずに言葉が返ってきた。
「ポーラ・パリスかよ」
むしろよく突っ込めたな、俺。
「冗談ばっかり言ってないで、そろそろ起きましょ。お腹空いたし」
言ってするりと、腕から抜けてベッドの外に出てしまう。ついでに、
「ああ、そうそう。朝ごはん食べたら、その怪我についてお説教だから」
「……はい」
一時が万事この調子だ。結婚の具体的な話が進む余地はない。
ただ、茗ちゃんが本気で結婚を嫌がっているというわけではないと思う。彼女もわかっていて断っているのだ。
俺のことを気遣って。
「だけど、笹倉。実際問題、無理だろ」
「何が無理なんだよ」
目が据わってんぞ、こえーな。
「落ち着いて考えてみろ。俺はなんだ?」
「性格のおかしい名探偵」
「前半に異議を唱えたいがまあ、その通りだ。で、茗ちゃんとは大学時代からなんだかんだで七年ぐらいの付き合いがある」
「そうだな」
「想像しろ。名探偵とだらだらと交際を続けていた恋人。ある日、ついに二人が結婚する。すんなり行くと思うか?」
笹倉は少しの間黙っていたが、
「思わないな」
ため息まじりに吐き出した。
「それは、やばいやつだろ」
少し酔いが飛んだらしい。真面目な顔で言う。
「やばいやつだよ。なんだかんだで邪魔が入って延期になる、とかならまだいい方だ。色んなパターンが考えられる」
一番あってはならないのが、茗ちゃんが殺されるパターンだ。十分に考えられる。
ついに結婚する二人。襲われる花嫁。失意の名探偵。通算百回目の記念回とかに向いているかもしれないな、それか最終回か。
「……難儀だねぇ」
笹倉が呟いた。
「本当にな」
「実際、どうにかなんないわけ、お前のソレ。探偵辞めるとかしたら、すぱっと解決するとかないわけ?」
「探偵辞めたけど、事件に巻き込まれる探偵なんてたくさんいるだろ」
「あー、まあそうだよなー」
「それに、俺が探偵辞めるとか言いだしたら、名探偵の資格がないとかいって、死ぬ気がするな」
推理を放棄した探偵なんていらない。そう判断した神様に、きっと俺は殺される。なんの神様か知らんけど。
「俺だって死にたくないし、それじゃあ、なにも解決にならない」
「そうだな」
「今の俺にできるのは、せいぜい茗ちゃんを過度に巻き込まないように気をつけることだけなんだよ」
それがなかなか難しいんだけど。どれだけ気をつけていても、怪我をさせてしまうこともあるし。
この間、茗ちゃんが犯人に捕まった時なんかは、本当に心臓が止まるかと思った。
あんな何の伏線もない状態で、名探偵の恋人が死ぬなんていうビックイベントがあるわけないし、大丈夫だと自分に言い聞かせていたけれども。脚本家がクソだと、なんの脈絡もなく恋人を殺す可能性もゼロじゃないんだな、とこの前ドラマを見ていて思った。
いや、長く続いているシリーズの、探偵役の相棒が最終回で何の脈絡もなく犯人にされていたから。数年前から通り魔をやっていたって、それ前のシーズンの時から匂わせておけよ、と思ったのだ。
どんな状態でも安心できない。気をつけるけど。
「なんか、困ったことあったら言えよ」
珍しく優しい笹倉の言葉に、
「ありがとう」
素直に微笑んで返す。
どんなに巻き込んでしまっていても、いつまでも味方でいてくれる。こいつも失いたくない重要な人間だ。
俺は、名探偵というのはそういう呪いをかけられた生き物だと思っている。
なぜなら、俺は生まれた時には名探偵ではなかったから。
ということは、どこかに元に戻る鍵は転がっているはずなのだ。
「何読んでるの?」
「んー、この前新人賞獲ったやつ」
お風呂上がり、髪を拭きながら出てきた茗ちゃんに、読んでいた本の表紙を見せる。
「慎吾って本当にミステリが好きね」
俺の部屋の本棚にぎゅうぎゅうに詰められた古今東西の探偵小説、ミステリ小説を眺めながら茗ちゃんが呟く。
「まあね」
「何か借りていい?」
「どうぞ」
茗ちゃんが本棚に向かう。彼女だって、ミステリが好きな方だ。
もともと、探偵ものもミステリも好きだった。
だけど、最近ではそれだけの理由で読んでいるのではない。
鍵が、転がっているんじゃないかと思って。
名探偵の呪いを解く鍵が。
名探偵が名探偵を辞める話というのは、ない。あるとしたら犯人になるパターンか、殺されるパターンか。そのどちらも却下だ。俺は死にたくない。
あとは最近読んだ本だと、恋人が逆恨みで殺されて、心が壊れて探偵をできなくなったものもあったが、そんなもん、論外に決まってる。
茗ちゃんを傷つけることなく、もちろん俺も死ぬことなく、名探偵の呪縛から逃れる方法をずっと探している。二人で普通の幸せを手に入れる方法を探している。
そう、俺が本当に解きたいのは謎じゃない。
呪いだ。
名探偵の呪いを解きたいんだ。
ぱたん、と読み終えた本を閉じる。
「面白かった?」
どれにしようかな、で本を選んでいた茗ちゃんが尋ねてくる。どうやらなかなか読む本が決まらないらしい。
「星四ってとこかな。新人だからおまけして」
「借りていい?」
「いいよ。持って帰っても」
「ありがとう」
茗ちゃんに持っていた本を手渡すと、
「俺も風呂入ってくる」
と立ち上がる。
面白いか面白くないかと言われたら、なかなか面白い本だった。犯人は割とすぐわかったけれども、心理描写とか嫌いじゃない。
でも、役に立つ本じゃなかった。
呪いを解く鍵はなかった。
シャワーを浴びながらため息。
絶対にあきらめない。
なんとしても、解いてやる。この呪いを。
そのためには、まずは目の前の謎をとく。それが大前提。
現れた謎から逃げていたら名探偵の資格を喪失してしまう。そしたら呪いを解くこともできないまま、死ぬことになるだろう。
そうやって事件を解決していきながら、同時進行で呪いを解く方法を探すのだ。現実の事件の中に、鍵が落ちているかもしれないし。
解けない謎などあるわけがない。俺は名探偵なのだから。呪いの謎だって同じだ。未来はこの手で掴み取る。
そして今日も。
事件が起きた屋敷、食堂に集められた関係者の顔を一人一人見渡しながら、俺はシニカルに笑う。
ここからは俺のステージだ。
「さて、皆さん」
名探偵、皆を集めて「さて」と言い、ってな。
その男、名探偵につき 小高まあな @kmaana
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