3-1

 割り当てられたところを回り終えた俺たちは、その場で解散になった。だから俺はさっきのことを訊こうとポンコに振り返った。

「タヌキたちは何を」

 俺は途中で言葉を止めた。そこにポンコがいなかったからだ。辺りを見渡しながら呼びかけたけど、返事はない。

(ポンコのやつ、どこへ行ったんだ)

 そうしていると、ドアの動く音が聞こえた。見てみれば、さっき出てきたドアが小さく開いていた。奥に進めばさっきのタヌキやアライグマがいる。

(あいつ、もしかして中にこっそり入ったのか?)

 俺は辺りを眺めて、自分を見ている者がいないか確認してからドアの中へ滑り込んだ。勝手に入ったらいけないことくらいわかっている。だからこそ、ポンコが入ったなら引き返させないといけない。

 さっきの通路を逆にたどって、タヌキやアライグマが保護されている部屋のそばまで戻ってきた。でも思いがけないことに足を止めてしまった。

 ガラス戸の前にいるのはポンコじゃなくて四矢だった。コップをガラス戸にくっつけて、右耳を当てている。さっきの女の人たちはいない。

「ふむ。タヌキ舎の餌係と一緒にいたやつが動き始めた?」

 またタヌキたちが顔を向けあっているので、まるで二匹の話を盗み聞きしているかのよう。俺は肝をつぶした。

「それ、さっきのポンコと同じ……?」

 四矢は今気づいたような顔で俺を見て、耳をコップから離した。

「ん? 俺、今何か言ったか?」

 そらぞらしく告げて、視線を部屋の中にやる。俺も同じところを見て、首を傾げてしまいそうになった。

 室内のケージにタヌキが二匹とアライグマが一匹いる――ように見える。でも何だか違和感がある。さっきはこんな感覚がなかったのに。

 じっと見つめているうちに感じてきた。タヌキの片方とアライグマは元のまま。でも、もう一匹のタヌキは違う。よそのタヌキじゃなくて、この動物園に住んでいるガンちゃんの方だ。俺はガンちゃんに注目して、だぶって見えるものがあると気づいた。

 木の葉が一枚。

(あれはガンちゃんじゃない。ポンコが作った幻だ!)

 ハッと気づいた。さっきドアを動かしたのはポンコじゃない。ポンコならドアや壁くらいすり抜けることができる。そしてタヌキ一匹くらいなら、わざわざドアなんか使わなくても窓から屋外へ出してやれる。案の定、タヌキたちがいる部屋はドアに鍵がかかっているけど窓は少し開いている。ケージの鍵はひねるだけのもので、外から開けるのは簡単だ。

(さっき医務室のドアを開けたのはおじさんだ! どうしてここにいるのかは知らないけど、ポンコがガンちゃんを連れ出したのは間違いない!)

 四矢は含みがありそうな目で俺を眺めていた。

「お前、一人か。もしかして振られたのか?」

「元々そういうのじゃないです」

 俺は即答したけど、四矢は表情を変えない。

「じゃあ、はぐれたのか? だったら正門そばの事務所へ行って、園内放送で探したらいい」

 においで追ってくるようなやつが迷子になると、俺には思えない。四矢も自らの意見にこだわろうとしなかった。

「それとも、貧血か何かで倒れて人間用の医務室に運ばれたのか? 事務所からちょっと歩いたところのやつ」

 それだけはないと俺は言いたかった。どっちにしても、放置はできない。

「じゃあ……おじさん、俺ちょっと急ぎますから」

 とりあえず園内放送はいい考えだと思ったので、事務所へ向かおうと考えながら駆け出した。

 どうしてここにいるんだと四矢に尋ねている余裕はなかった。



 もしかしたらポンコは園内で狭苦しく生活しているタヌキを外へ連れ出そうとしているんじゃないか。事務所に向かっている途中の俺はそんなことも考えていた。姿を消せるポンコと小さなタヌキなら、誰に目を留められることもなく動物園から抜け出すことができる。本当にそうされていたら、後を追うすべはない。

(とりあえず動物園の中にいると信じて、園内放送で探してもらうしかないか)

 医務室に連れていかれたことはないだろうし、と思いながら事務所の前に着いて――肌寒さのようなものを感じた。

(何だこれ)

 ポンコの気配とは完全に逆で、冷たい。感じる方向には人間用の医務室もある。動物用と同じ平屋で、部屋数が少ないのか敷地面積はあっちよりなさそう。扱う動物が人間だけだからか。

 それを見ているだけで違和感のようなものが押し寄せてくる。まるで冷えた風が吹きつけてきているみたいだ。

(そういえばイベント開始前のポンコもあっちも見ていた。何かあるのか? もしかしてポンコも医務室にいるのか?)

 俺は不安を堪えながら医務室へ近づいていった。そうしている間におかしな点をいくつも見つけた。

 医務室から近い獣舎では、動物たちが鳴き声をやけに大きくしている。客たちはそれを不思議そうに眺めていた。

 客たちも変だ。歩いている人は、道の脇にある医務室を大回りで迂回する。そこに〈穴があるので気を付けてください〉なんて標識はない。まるで無意識に避けているみたいだ。

 何より俺に奇妙さを見せつけたのは、転んだかどうかしてひざに擦り傷を作った子供と女性スタッフ。二人は医務室へ歩いていく。

「消毒して絆創膏を貼っておけば治るからね。医務室に道具がいろいろ」

 スタッフは医務室に近づく途中で立ち止まった。隣にいる子供も同じ。不思議そうに顔を見合わせてから、スタッフは思いついたことがあったみたいに手を叩き合わせた。

「治療道具は事務所にも……事務所にある。行こうか」

 すぐさま引き返す。俺は園内の道をよく知っているので、二人が来た方向を見ればどこを通ったのか大体わかる。二人が事務所の前を通り過ぎたこともだ。後戻りするくらいなら最初から事務所へ行くはず。

(医務室へ近づいた途端に医務室のことを忘れた……そんな感じに見えた。やっぱりこの中に何かあるのか)

 意を決して、医務室へ歩み寄る。

 他の客が迂回していくところへ踏み込んだとき、俺は医務室のことを忘れたりしていなかった。ただ、一瞬だけ別の感覚があった。温かい雰囲気。ポンコのものだ。

 その直後、俺は氷室で呼吸したような気分になった。ずっと感じていた冷たさが急に増したせいだ。目に見えない迫力のようなものも感じる。

(こんなの、俺が近づいて平気なのか?)

 平気だという気は全くしない。占ってみるまでもない。

(でも、ポンコがこの中にいるんだとしたら放っておけない)

 俺は止まりかけた足を叱咤して医務室の中に入った。ドアの先は廊下。俺は一歩一歩進んでいく。先へ行くごとに冷たいものは強くなる。

 廊下の途中にあるドアから大きな音がした。俺は近づいてノブに手を伸ばしたけど、ひねるかどうかためらってしまった。それでも気を引き締めてドアを開けた。

 その途端に飛び出してきた者がいた。小柄で、白と朱の服を着ている。

「ポンコ?」

 背中からぶつかってきて、俺から抱き止められる形になった。かなり勢いがあったから、俺は受け止めきれず廊下の壁に背中を打ちつけた。

「あ……リョク。来ちゃった」

 ポンコは疲労感のある目を俺へ動かした。何が起きているのか、どうしてポンコがぶつかってきたのか、俺は部屋の中を見ただけで理解させられた。

 中にベッドがあって、人が横になっている。具合が悪いと聞いていたスタッフ、タヌキ舎の餌やりを担当している原だ。

 その手前辺りの床では茶色いものが震えている。さっき動物用の医務室にいたタヌキのガンちゃんだと俺は気づいた。

 ガンちゃんが見上げているものは、室内で最も奇妙。黒い影としか表現できないものが原の上で漂っている。どうにか人型だと思える姿で、顔の辺りには目や口らしき切れ目がある。どれも細長くてつり上がっていた。

「化け物……?」

「魔物、だよ」

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