第三話 一人だけの孤独

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 俺はソファーから起き上がった。目覚まし時計を見ると、朝の六時半。ジリリと叫び始めるまでには三十分ある。

(昨日は山で疲れたから、もっと寝ていたい……でも起きないと)

 睡眠欲求を堪えながら立って、目覚まし時計のスイッチを切った。俺が本来眠っているはずの部屋をのぞくと、ベッドの上でポンコが小さな寝息を立てていた。

 寝相は意外なくらいによくて、寝間着がはだけていたりしない。俺はそれを残念に思ったりしない。

(あんなに元気だったけど疲れはして、起きられないのか? 何にしても好都合だ。説明の手間が省ける)

 俺はそっと自室を離れて、台所の冷蔵庫を開けた。昨日のうちに買っておいたコンビニのお握りを取り出して食べ始める。

(よし、ポンコが朝と昼に食う分もちゃんとある)

 冷蔵庫の中にはお握り数個と冷やしそばとポテトサラダ。ガスコンロどころか電子レンジも使わなくていいものばかりだ。ポンコはガスを使わせると火事を起こしそうだし、電子レンジなど電化製品だと「スイッチを押す」という行為すら覚えられないらしい。生まれたときから身近にテレビや扇風機があった俺たちとは感覚が違うんだろう。ポンコ自身は「かまどとかがあれば料理できるよ!」と言っていたけど、七輪で鮎を焦がしたこともあったので俺はあんまり信じていない。

(ポンコの飯以外も準備万端だ)

 持っていくべきリュックサックは、もう居間の隅にこっそりまとめてある。それを確認した後でまたポンコを見てみると、口をもごもごさせていた。食べ物のにおいがしたからだろう。

(そのまま寝ていろ。せめて俺が出かけるときまで)

 俺は支度を調えた。動きやすさを重視した服に着替えて、リュックを背負って、最後にメモ用紙とボールペンを手に取る。


〈ちょっと出かけてくるから大人しく留守番していること。飯は冷蔵庫の中〉


 書き置きをテーブルに残して、足をひそめつつアパートから出発した。起きてからそこまでにかけた時間は三十分弱。行き先は割りと近いし到着したい時間はまだ先なので、本当はもっとゆっくりしていい。でもそうするとポンコが起きてしまうかもしれない。



 俺は自転車で走って、途中でしばらく時間をつぶして、目的地へたどりついた。日曜日なだけに混雑していて、駐輪場まで行くのも大変だった。

 道路脇の大きな看板には、〈F市どうぶつパーク〉の文字。マスコットの青い生き物もにこにこ笑顔で描かれている。頭は短めのナスみたいな形で、短い手足に鋭い爪なんかなく、愛嬌たっぷり。

 今、ちょうど九時になったところ。この動物園が客を迎え始める時間だ。俺の周りには子供のいる家族連れやデートしに来たらしき男女が大勢いる。

 みんな入場券の自動販売機前に並ぶけど、俺は一直線に入場門へ向かった。財布から颯爽と――行列を横目に見ているとそんな気がしてくる――カードを取り出して、係のおばさんに見せる。

「ああ、君かい。いつもありがとうね」

 俺は会釈して、〈カナちゃんクラブパス〉と書かれたカードを財布に戻した。カナちゃんとは、看板に描かれたマスコットのこと。カナちゃんクラブとは、年間フリーパスを買った者が自動的に入会するファンクラブのこと。

 俺は園内へ足を踏み入れた。町中にほとんどない動物や自然のにおいは、もう俺の鼻に伝わってきている。

 壁を見ると、企業会員一覧と書かれたプレート。会社や店がある程度の額を支払うと、カナちゃんクラブ入会と同時に名前が載る。テレビ番組の始まりがけや終わりがけに表示される〈提供〉みたいなものだ。

 福狸神社の名もあった。俺の実家じゃなくて、この土地にある福狸神社のこと。

 俺がフリーパスを持っているのは福狸神社の関係者だからじゃない。個人で入手したからだ。俺はプレートの名前もできるだけ気にしないようにしながら先へ進んだ。

(今日はイベントの日だ。せっかく抽選に当たったんだから、しっかり楽しまないとな。山へ行くって言われたのが昨日でよかった)

 そう進まないうちに、ちょうど事務所から出てきたスタッフが俺に手を振ってくれた。

「たまには彼女を連れてきてもいいよ?」

「そんなのができたらってことで」

 俺は愛想笑いだけしておいた。

(ここは俺にとって秘密の場所なんだ。そうそう人に教えられるかっての)

 まだ敷地の入り口だけど、動物の鳴き声がどこかから聞こえてきた。俺はそれだけで嬉しくなってくる。



 俺は雑踏に紛れて見物を始めた。

 園内の入り組んだ道を一筆書きのごとく進みたいなら、西門から入らないといけない。ただし大抵の人は正門から入る。いつもの俺は「これが通だ」とか考えつつ西門を使って、一筆書きルートを進む。でも今日は寄り道したせいで正門を使ったから、ルートを考えず気ままに移動しようと決めた。どうせイベント開始まで時間がある。

 正門のそばにはレッサーパンダの獣舎がある。今日もタヌキやアライグマに似た動物が三匹いて、居眠りしたりうろついたりしていた。

(今日もマリナは美人顔だな! サチコはのんびり顔でかわいいし! テツはやっぱり精悍な感じだ!)

 マリナとかいうのはこの動物園で付けられた名前。俺はどのレッサーパンダがどの名前か見分けられる。見分け方を説明する相手はいないけど。


 ペンギンプールは人気の場所。今日も子供たちがペンギンを見て歓声を上げたりしている。でもペンギンたちは泳いだりぼうっとしたりして気ままに暮らしていた。

(これからどんどん涼しくなる。こいつらにとって嬉しい季節が来るな。ペンギンにもいろいろいるから一概にいいとは言えないけどな!)

 昔、俺は「ペンギンは南極で暮らしているはずなのに、どうして動物園のは夏でも平気なんだろう」と思っていた。

 今は違う。通路の左を見ればガラス張りの個室にあるペンギンプール、右を見れば外気に触れるペンギンプール――二つのプールがあることも答えに関係していると、もう知っている。

(インターネットによると、ペンギンには『寒さが平気で、寒い地方に住む種類』と『比較的暑さが平気で、寒くない地方に住む種類』がいるらしいな。動物園はそれぞれを『クーラーをガンガン使った屋内』と『外気に触れる屋外』に分けて飼育しているとか)

 これはトリビアとして使える話だけど、誰かへ話したことはない。


 園内を歩いているうちにたどりついたのは、シベリアオオヤマネコの獣舎。檻の間近で眠っている姿がかわいいので、俺は映像として保存せずにいられなかった。フラッシュを浴びせたらストレスの原因になってしまうけど、俺が使っている携帯ゲーム機の3○Sはカメラに光る機能がないので関係ない。

 俺以外にも撮影している人がいる。ビデオカメラを持った父親と子供が、楽しそうに中を眺めていた。

「お父さん、あれ何?」

「ヒョウだよ」

(違う! シベリアオオヤマネコだ! プレートにそう書いてあるだろ? お父さんは正確に教えてやれ!)

 俺はそのことを言いたくて歯がゆかったけど、変な人と思われそうなので我慢した。


 タヌキ舎の近くに行くと、タヌキが獣舎の外にいた。

「リョク、ここって賑やかだね!」

 ポンコは笑顔いっぱい。目の当たりにした俺は、引きつったまま固まってしまった。

(落ち着け、落ち着け俺……!)

 来る方法は、よく考えてみれば簡単なこと。いつかのようににおいをたどればいい。わからないのは来た意図だ。

「どうしてここに……?」

 俺が辛うじて訊くと、ポンコは居間に置いてきたメモ用紙の束とボールペンをたもとから取り出した。

「ご飯は書き置きの通りにあったけど全部なくなっちゃったから、お昼をどうしたらいいか訊きたくて」

 どうやら朝と昼に分けて食べるという考えがわかなかったらしい。俺はポンコの行動を思い浮かべながら、冷静さを少しずつたぐり寄せた。

「入場料はどうしたんだ」

「何それ?」

 ポンコは首を傾げた。きっと透明状態で園内に入ったんだろう。キセル乗車みたいなことをさせてしまったと俺は思ったけど、心配するほどじゃないと気づいた。

(こいつは百九歳。たしかこの動物園は六十五歳以上だと入場無料だ。見た目が中学生くらいだってことから考えても、小中学生以下はタダだし)

 安心した俺を、ポンコは嬉しそうに見ていた。

「リョク、にこにこしながら歩いてたね! 楽しそうだったよ!」

「ほっとけ」

 俺が一人で来る理由には、そんなふうに言われるのが嫌だということもある。

「ここは俺にとって秘密のくつろぎ場所なんだ。何て言うか……俺は動物いっぱいの山で友達と遊びながら暮らしてきたから、動物がいると落ち着くんだ。あのアパートはペット禁止だし」

 ポンコが「なるほど~」と言いながらうなずいてくれたので、俺は胸をなで下ろしていた。

(一番の理由は言いにくい。動物が多い場所にいると、昔の思い出に浸れるなんて)

 占いができて何もこだわることなく友達といられて、動物いっぱいの山で一緒に遊べた――占えなくなって一人故郷を出た今とは違いすぎる。

 ポンコはそんなことに気づく様子もなく、辺りを見渡していた。もう昨日の疲れは残っていないみたいだ。

「リョク、一緒にお散歩しようよ!」

 駆け出していって、俺に手招きする。

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