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俺はポンコに神社へ帰れと言いたかった。でもすっかり暗くなっていたので言えず、アパートまで連れて帰ってしまった。
「上がったよー」
ポンコが濡れた髪をタオルで拭きながら居間に入ってきた。結局今日は泊まることになって、俺が貸した長袖の寝間着を着ている。
「後ろ前だぞ」
俺が教えてやると、ポンコは寝間着の前と後ろを見比べた。
「こういうのはあんまり着たことないから、よくわからないよ」
そう言いながら着直す。俺はとっさに目をそらした。
(よそでやれよ!)
凹凸はなさそうだけど、異性は異性だ。
「リョクも一緒に入ったらよかったのに」
ポンコがこともなげに言って、俺は目を見開いてしまった。ポンコはそれでも平然としている。
「ボク、向こうの家でお風呂に入ってるリョクを何度も見たよ?」
「のぞきの経験を堂々と話すな」
俺は動揺を抑えながらポンコと入れ替わりで脱衣所へ向かった。
(こっちは風呂場から鼻歌が聞こえただけでも心臓バクバクだってのに)
ポンコは巫女装束を意外と行儀よく畳んで置いていた。俺はそれから目をそらしつつ自分の服を手早く脱ぎ捨てて、風呂場へ入った。
(いつもとにおいが違うような)
神の眷属ににおいなんてものがあるのかどうかは知らない。俺はできるだけ考えないようにして、湯船のお湯を体にかけた。
熱が染み込んでくる。もちろん、ここに誰がつかっていたのかも思考の外へ追いやる。さっきポンコの胸もとに浮いているものが二つ見えたと思い出したけど、全力で振り払おうとしながら体を洗う。
俺は不意に気づいた。ドアの外に誰かいる。
「お背中流すよ!」
声と同時にノブが回って、俺は即座にドアを押さえた。
「遠慮しとく!」
入ってこられると困る。非常に困る。いろいろ考えたせいで、俺の体は眠っていた魔獣が目覚め始めている。子供のころ妖怪を体内に封じられたとかじゃなくて、男なら一匹ずつ飼っているあれのことだ。ポンコはそんなことを考えてもいないみたいだけど。
「大丈夫。せっかく貸してもらった服を濡らしたらいけないから、ちゃんと脱いだよ!」
「余計駄目だっての!」
俺はいくつもの思考を駆け巡らせていた。
ポンコは巫女装束を着ていた。巫女が下着なしというのは嘘だ。小学生のころ、この目で着替えをのぞいたから間違いない。
でも、日本の女は元々下着を使っていなかった。ポンコがいつから生きていていつの習慣を身に付けているかによっては、寝間着を脱ぐと何も身に付けていないことになる。そもそも上を使っていないことは間接的に視認してしまっている。
「そういや、年いくつ?」
「どうしたの急に。ボクなら百九歳だけど」
「はいアウト!」
「あうとって何? 開けてよー!」
「開けてたまるか!」
俺は封じられた魔獣の覚醒度が上がったと自覚しながらドアに背中を当てて体重をかけた。
急に向こうからの力がなくなった。諦めたのかと俺は思ったけど、違った。
ドアから白い手がぬうっと二本伸びた。完全にホラーだ。『意識的につかまれている』とかいう状態じゃなければ、こんなこともできるんだろう。
「壁抜けはずるいぞ!」
ただ、驚いたお陰で魔獣は少しだけ大人しくなった。
俺はポンコに自室のベッドを貸して、居間のソファーで寝ることにした。頭の下には枕代わりのクッション。体の上には夏用の薄掛け。
ポンコは遠慮していたけど、女の子――の姿をしたもの――をソファーで寝かせてのうのうとベッドで寝るのは落ち着かない。ポンコの「一緒に寝ればいいよ」という案は丁重にお断りした。そんなことをされたら絶対に眠れない。
ソファーで寝るのは初めてだ。でもいろいろあって疲れたせいか、明かりを消すとすぐに眠気が押し寄せてきた。
眠り始めた俺は、また夢を見ていた。授業中は小学生のころだったけど、今度は中学生のころ。
「俺」は、社会を担当している先生からテストの解答用紙を返されていた。付けられた点は悪い。当時の友達数人と、似たり寄ったりの点を見せ合う。
この後で起きることを俺は見たくなかった。でも夢は先の場面へ進んでしまう。
「福分の占い、当たらねえじゃん」
友達は「俺」に冷たく言い放った。
中学校は小学校と違って中間試験だの期末試験だのと面倒なことがある、それなら占いで問題を当てたらいいじゃないか。中学一年の俺は友達とそんなことを話して、占いで試験のヤマを張った。そして完全に外れた。俺はそのときのことをときどき夢に見てしまう。
「天才占い少年のくせに」
「頼り甲斐のねえやつだな」
夢の中で何人もの友達が罵倒を続ける。実際はここまでの言葉じゃなかった。夢だから誇張されている。
「こいつに占いを頼んでも仕方ねえな」
友達の姿が一つ一つ消えて、周りが暗くなった。何だか肌寒いようにも感じる。
試験のヤマ当てに失敗したときから、俺の占いは当たらなくなった。そうすると占いを頼んでくる人が消えて、俺は占う方法を思いつくこともできなくなった。当たり前にできていたことができなくなるのはすさまじく心細かった。
俺はそれまでやらなかったオリジナルじゃない占い――種占いとか――にもすがってみたけど、やっぱり当たらない。天才占い少年なんて呼び名は全然聞かなくなって、俺は空気の変化に耐えられず故郷を離れた。
できれば俺が誰なのか一人として知らないところへ行きたかった。でも親は「目標があるわけじゃないなら、高校までは地元にいろ」の一点張り。親戚の「自分が管理する」という言葉に乗ってこのF市へ移り住むことは、妥協として落ち着くべきところだったかもしれない。
こっちへ来てからも、占う方法くらい思いつかないかとときどき考える。居間に置いてあるメモ用紙とボールペンはそのためのものだ。でも閃かない。種占いをやっても、散らばった種からは何もつかめない。虚しいだけだ。
ふわりと、俺は温かさを感じた。
神社から自転車で離れようとしたとき、犬に咬まれた痛みで苦しんでいたとき――今日何度か受け止めたもの。
(何だかいいにおいがする。すごく落ち着く)
意識がだんだんはっきりして、俺は自分がソファーの上でクッションを枕に眠ったと思い出した。
そのはずなのに、頭に当たっているものはクッションじゃない。手で触れてみると、すべすべした感触がある。
目を開けた俺は心臓を跳ねさせた。俺が頭を置いているのは、ソファーに座ったポンコのひざ。
しかもポンコは俺の頭をゆっくりとなでている。いつ入れ替わったのか、俺にはわからない。
「起こしちゃったね」
ポンコは俺を優しいまなざしで見下ろす。
「ボクたち福狸神社のタヌキは福を分けるって言われてるから、こうして近くに置いておけばいいことがあるかもしれないよ」
俺はポンコの上からどこうと思った。でも、体を動かせなかった。動かしたくなかった、というのが正直なところか。これだけ安心した気分になったのはいつ以来だろう。
神の使いであるポンコににおいなんてあるのかと風呂場では思ったけど、今はどうでもいい。いい匂いがすると感じているんだから、いい匂いがある。それで十分だ。
「重い……だろ」
俺は辛うじて問いかけた。ポンコは優しくほほ笑むだけ。
「ううん、大丈夫。そんなに重くないし、リョクはもっと苦しいんだと思うし」
その一言を聞いた俺は、数時間前に考えたことが間違いだと気づいた。
ポンコは俺がどれだけ悩んだかわかっていない――そんなことはない。俺の気持ちを理解したうえで占ってくれと頼んできている。俺の風呂を見たらしいけど、きっと占えないことに打ちひしがれているところも見ていたはず。
俺が占えなくなったことで周りは変化した。俺に絶望したり、占いを頼まなくなったりした。でも、ポンコは俺がまだ占えると信じている。信じてくれている。そう気づくと、俺の心は随分軽くなった。
「それで、何を占ってほしいんだ」
俺が小声で言うなり、ポンコは太陽が輝くような笑顔になった。そこまで喜ぶなよと、俺は照れ隠しに目をそらす。
「今は無理だけど、きっと」
「よかった」
ポンコはまた俺をなでる。
「じゃあ、占ってもらえるまでリョクのそばにいていい? あ、占うことはそのときまで内緒にしておくね! 聞いたときの直感も大切だろうし!」
俺は「好きにしろよ」と答えるのが精一杯だった。二度目の眠気が押し寄せてきたからだ。
こんなところは人に見せられない。でもポンコの手やひざは俺の凍りついた心を溶かしていくようだった。
いつもなら、あの夢を見て起きた後はもう一回寝ることにためらいがある。同じものを見たら嫌だからだ。
でも今夜はもうあの夢を見ない気がする。俺はそんなことを考えているうちに甘い眠りへ落ちていった。
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