3

 俺はTシャツとチノパンに着替えて、ノートパソコンでネットを見ながら残りのパンを食べた。

 ネットを見ていると言っても、どうしても見たいものがあるわけじゃない。ただの惰性だ。ポチポチと適当にサイトからサイトへ飛び移る。

 いつもどおりのことをしているうちに、神使タヌキ少女が来たという非日常的すぎることは霞んできた。さっきまで俺は夢を見ていたんじゃないのか、パンが減っていたのは寝ぼけながら食べていたせいじゃないのか、と。いくら神社で育ってきた俺でも神使に出くわした話なんて聞いたことがないんだから仕方ない。

 食べ足りないと感じる分を買い置きのスナック菓子で補ったとき、携帯電話が鳴った。

 実家から「ちゃんと暮らしているか」なんて電話だと直感した。でもそうじゃないとすぐに気づいた。玉七つ集め漫画Zのオープニングが鳴ったときは、クラスの者からメールが来たということ。もっとも、俺にメールを送りそうな者はあまりいない。

 ペットボトルのお茶を飲みながら緩慢な動きでメールを開いてみると、やっぱり水野からのメール。〈女の後輩から話しかけられて羨ましいやつめ!〉なんて本文だと俺は想像した。


〈変なものを見た! 笠地蔵のあれみたいなやつを付けた猫がいて、犬に追いかけられてた! 犬は盛る時期になると猫まで襲うのか?〉


 俺は本文を読むなりお茶を噴いてしまった。今どきの携帯電話は少しくらい水を浴びても平気なので助かった。

「まさか……さっきのか?」

 背筋が寒くなってきた。放っておくのは寝覚めが悪い。

「猫になったのは、俺があんなことを言ったせいだ」

 俺はすぐさま水野に返信した。本文は〈どこで見た?〉だ。〈お前にしては返事が早いな〉なんて返ってきそうだけど仕方ない。



 水野のメールにあった場所は、アパートからそう離れていない繁華街。俺は外出用のリュックを背負って自転車で駆けつけた。

 駐輪所に自転車を置いて、人が大勢歩いている道を進む。このあたりは歩行者天国で、仕事から帰る途中の大人が多い。日が暮れているので、店の看板は鮮やかに輝いて人を引きつけようとしている。もう秋の今は夜だと気温が「寒い」の領域に入りかけるけど、ここには人の熱がある。今日が木曜じゃなくて金曜だったら、賑わいがもう一回り大きかった。

(あいつ、もう他のところに逃げただろうか。神社に帰ったんならいいけど)

 そうじゃないと主張するように、どよめきが聞こえた。こっちに近づいてくる。

「リョクー!」

 叫び声。そして人の波を割りながら走ってくる者たちがいた。

 編み笠を付けた猫。その後ろには犬が一頭。大型犬じゃなくて、どこにでもいそうな柴犬。ただ、目を激しい怒りで満たして牙をむき出しにしている。

(盛る時期云々って雰囲気じゃない。化けたタヌキを見て、魔を祓う動物の血が目覚めたのか?)

 昔の俺は、実家の裏にある小さな山でよく遊んでいた。そこにタヌキとかイタチとかいろいろいたせいか動物はみんな好きだけど、犬派か猫派かと訊かれたら「どっちかって言うと猫派」と答える。でもあの犬を見た今は「間違いなく猫派」と答えてしまいそう。

「リョク、助けてよぉリョク!」

 ポンコはずっと叫び続けている。「人の言葉を話す猫」なんて騒ぎにならないのは、ここが混雑しているお陰。通行人たちは猫と犬が突っ走っていることに驚いているだけで、聞こえてくる甲高い声は他の誰かのものだと思っているみたいだ。

「あの子、こわ……!」

 ポンコは俺のそばで立ち止まろうとしたけど、後ろを見ると犬が走ってくるばかりなので駆け抜けていった。犬も俺を通り過ぎていく。

「お、おい?」

 振り返ると、ポンコも犬も走り続けていた。ここが歩行者天国なので車の心配をしなくていいのがせめてもの救い。

 俺はUターンして後を追った。ポンコたちの姿はすぐに見えなくなったけど、道行く人の視線を追えば足取りを追うことができた。

 しばらく進むと、さっきの犬が歩きながらきょろきょろと辺りを見ていた。ポンコを見失ったんだろう。

 普段はご主人様の下で大人しく暮らしているのかもしれない。でも今はやっぱりハンターそのものの血走った目。首輪とリードが付いているところを見ると、ご主人様と散歩している最中に獲物を見つけてしまったのか。

(犬もタヌキも同じ犬科なんだから、もっと仲よくできないんだろうか)

 できるくらいなら化けダヌキの変化を犬が見破る昔話なんか残っていないと俺は考えて――小さな声に気づいた。

「リョ……ク……」

(この辺にいるのか?)

 俺は周囲を見て、どこから声がしているのか気づいた。犬の目が離れたのを見定めてから、路地にこっそり滑り込む。

 そこは牛丼チェーン店とカラオケ店の境目で、かなりうるさかった。積み上げられた段ボール箱の陰では、茶色いものが小さくなっている。

「ええと、さっきうちに来たやつか?」

 俺が足を進めながら問いかけると、猫が震えながら顔を出した。俺の姿を見て、涙をボロボロとこぼす。

「リョクぅ!」

 煙があふれて、元に戻ったポンコが俺に飛びつく。

「あの子、ボグが怪じい者じゃないっで言っでも、わがってぐれないじぃ」

 涙その他で汚れた顔を俺にこすりつける。元から神の使いとしての威厳なんかなかったけど、今は余計にひどい。犬が苦手な女の子と同じだ。

「わかったわかった。ケガしてないか?」

「じでないよああああ!」

 ポンコが悲鳴を上げて、俺は振り返った。

 路地の入り口にさっきの犬がいて、じりじりとこっちへ近づいてくる。飼い主が見たら泣きそうなくらいにうなっていて、俺はとっさにポンコを自分の後ろへやった。

「俺の後をつけていたときみたいに消えて隠れろ!」

「今、無理」

 ポンコは壊れたおもちゃのように首を振る。

「犬が、ボクを意識的につかんでる。自然から離れた人間にはできないけど、動物なら……」

「見つかった後で隠れても駄目」と言っているんだろう。

(やばいな)

 俺は小学生のときのことを思い出した。

 山でネズミを見つけて、触ろうとしたら咬まれた。小さなネズミが咬む力でさえかなり痛かったんだから、犬が本気で咬んできたら相当な傷になるはず。

 ペットの犬がそんなことをしないのは、単に人間へ懐いているからだ。人間を自分より大きな生き物と見てケンカを売らないようにしている部分もあるかもしれない。

 でも、目前にいる犬はハンターになりきっているせいで箍が外れてしまっている。ヤクザ映画を見て気が大きくなっている人みたいなものか。

 俺は熊と会った人のように犬をにらみつけて、立ち止まらせた。そうしつつ、リュックを肩から下ろす――そのつもりだったけど、下ろせなかった。ポンコがしがみついているせいだ。

「怖いのはわかったから、一度放せ」

 できるだけ優しく語りかけながら、リュックを引く。その拍子に犬から目を離してしまった。犬はそれを隙と見たのか、飛びかかってきた。

「危ない……!」

 俺はポンコを抱えて身を伏せた。犬は俺たちを跳び越えて、反対側へ着地。すぐに振り返る。

「リョク、逃げて」

 ポンコがか細い声を発した。

「狙われてるのはボク、だから。リョクは、ボクから離れてたら、大丈夫」

 こんな状況なのに俺の心配をしているみたいだった。確かにポンコは神使で俺は人間だから、より強い方が自力でどうにかするべきとも言える。

 でも今のポンコは、震えながら俺にこわばった笑顔を見せようとしているだけ。一生懸命強がっている少女でしかない。

 犬は俺たちの考えなんかに構わず、また向かってきた。ポンコは俺に覆いかぶさる。かばうつもりか。犬はポンコの首筋に狙いを定めている。

「俺だけ逃げられるわけないだろ!」

 いくら占えなくなっても、怖がっている者を見捨てられるほど堕ちていない。俺はポンコを抱きかかえるように左腕を動かした。ポンコの首の代わりに俺の腕を咬ませる。

「く……!」

 予想どおりの強烈な痛さだった。厚い上着を身に付けていたら少しは防げたかも、なんて思ったけど大して変わらなかったに違いない。歯を食いしばって、出そうになった悲鳴を堪える。

「リュックを!」

 俺はいろいろやっているうちに落としていたそれへ視線を動かした。

「そのまま放すなよ……!」

 犬につぶやきながら、右手をリュックに入れて中を探る。口をチャックで固く閉じるタイプじゃなくてボタンで軽く留めるだけのタイプなので、両手で開けるという動作は必要ない。

 俺は取り出したものを犬の鼻先に突きつけた。人さし指に力を込めて、ノズルを押す。

 フローラルの香り。俺が取り出したものには〈トイレのお花畑〉と書いてある。メールに犬が相手と書いてあったので、ちょっとした秘密兵器としてこのスプレーを持ってきた。

(犬の嗅覚は人間よりもずっとすごいんだから、消臭剤を直接浴びせられたら嫌なはず!)

 うまくいく確信はない。俺はどうにかなってくれと願った。

 噴射してから反応が起きるまでは、ごく短い時間だったはず。でも俺には長い緊張の時間と思え――犬は飛び跳ねるように俺たちから離れた。いかにも普通の飼い犬っぽくキャインキャインと鳴き声を放って、路地から駆け出していく。所詮は生兵法のハンターなのでメッキが簡単にはがれる、といったところかもしれない。

 俺は力が抜けて、消臭剤を落とした。ポンコはまだ震えている。

「しっかりしろ。もう大丈……!」

 腕が痛い。俺は緊張のあまり忘れていたそれに気づいて言葉を止めた。

 目をやると、俺の左腕は今まで見たことがなかったくらいの血をあふれさせていた。袖が赤く染まって、傷口は熱くて脈打っている。血が伝うところは生暖かい。

「リョク、大変……!」

 ポンコは俺のケガに気づいて青ざめた。

「ボクが狙われたから、こんなケガをして!」

 俺は痛みに苦しんでいる一方で、ポンコを助けられてよかったと喜んでいた。とりあえず「大したことないって」とか言って少しでも強がってみせようと思ったけど、言葉を呑み込んでしまった。

 ポンコは俺の袖をまくって、舌をはわせる。

「何を……!」

 傷口に舌で触れられるのは痛くてくすぐったい。俺は傷口の熱が一気に顔へ移ったと感じた。「タヌキだから傷をなめる」というのはちょっと考えればわかる。とは言えポンコは少女の姿。傷をなめる姿は扇情的だと思えた。

 そんなふうに考えた俺だけど、他の感覚もあると気づいた。

 腕が温かい。ときどきポンコから感じる、あの温かさだ。いやらしいことを考えてしまった自分が恥ずかしくなる。

 だんだん痛みが治まってきた。どぎまぎした感情が痛覚を麻痺させているんじゃないかと思ったけど、そうじゃないとすぐに理解した。

 腕の傷が消えていく。ポンコが持っている神使としての力なんだろう。バカっぽい名前でものんきでも、やっぱり神の眷属。

 やがて痛みと傷が完全に消えて、舌が離れた。俺が名残惜しく思ってしまっているなか、ポンコは顔を上げた。

「これで大丈夫だよ」

「あ、ああ。ありがとうな」

 俺がいろいろな感情をどうにか抑えたとき、ポンコは申し訳なさそうな顔をしていた。

「ごめんね。ボクが神使としてもっとしっかりしてたらよかったのに」

 ポンコの謙虚すぎる言葉に、俺は苦笑いしていた。

「謝るなら俺の方だろ。占いで猫なんて言わなかったらよかったんだ。猫に化けてもいいことなんてなかっただろ」

「ボクの方なら、いいことあったよ」

 ポンコはまだ目尻に涙があるけど、にっこりと笑った。

「リョクが守ってくれた! リョクのいいところを見られたよ!」

「それは……」

 俺は授業中に亀山と目が合って考えたことを思い出した。

 占いをしない俺にいいところなんて何もない。俺はそう思っていたのに、ポンコはいいところがあったと言っている。

「そんなの、どうでもいいことだろ!」

 俺は顔がまた熱くなったと感じながら目をそらして、気づいた。

 俺たちがいる路地を何人もの通行人がのぞき込んでいる。中には酔っぱらって携帯電話をこっちへ向けている者もいる。そういえばポンコが俺へしなだれかかっているような姿勢なので、傍目にはいちゃついていると思えるかもしれない。

「とっとと行くぞ!」

 俺は慌てて立ち上がって、ポンコの手を引いて路地から駆け出した。ポンコはどうしてそうされるのかわからないみたいで、不思議そうな顔をしている。

 ポンコの指は一本一本が細くて、肌は滑らかで、全体的に小さい。俺は「今離したら絶対にはぐれる」なんてことを言い訳にしながら雑踏の中へ紛れ込んだ。

 しばらく進んでから振り返ると、ポンコは手を握られても嫌そうな顔なんかじゃなかった。むしろにこにこした顔になっている。これもポンコにとって「いいことあった」の一つなんだろうかとも俺は考えてしまったけど、暗いものはどこかからにじんできた。

(俺が猫に化けろと教えたせいで犬から追いかけられたのは事実だ。だから外れは外れだ)

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