諦めた心。

「おはよう。白井由紀子しらいゆきこさん」

「………」

 意識は戻った。しかし心はこの世には戻っていなかった。


「屋上の自殺少女」


 彼女の名は白井由紀子しらいゆきこ。17歳

 5階建てのビルの屋上からそのを投げた。


 なぜ彼女は、自ら命を絶とうとしたのだろう。

 その真意は、いまだわからない。


 担当となった石見下理都子いわみしたりつこが、白井由紀子に呼びかける。されど返事は返ってこない。


 彼女が意識をとりもどして一週間にもなる。

 幸運にも脳へのダメージ、後遺症等は見当たらなかった。


 つまり、呼びかける理都子の声や、看護師たちの声は彼女は、しっかりと聞こえているはずだ。


 確かに身体へのダメージは大きい。内臓破裂こそはしていないが、衝撃による炎症及び損傷はある。

 予定では、明日その損傷部の、再オペが予定されている。


 母親はただ彼女のベッドの横に座り、その手を握ることしかできない。

 そして我々は、その彼女に今できることを、してやることしかできない。


 翌日彼女の再オペが行われた。麻酔から覚めた時、白井由紀子は始めて声を出した。


「どうして……生きてるの?」


 彼女が、自らの命を絶とうとしてから、始めて返した言葉だった。

「あなた、何言ってるのよ……」

 母親は驚いたような、しかりつけるような……。なんと表現をしたらいいのか、わからないが、ただ一つ言えるのは、彼女の命が繋がったことへの想いが込められているのは確かだと思う。


 そう、確かなこと……。それは彼女はこの世に、まさに存在しているという事。生きているということだ。

 理都子は彼女に、なぜこんなことをしたのかを、一切問うことはない。

 同じように看護師たちも、そのことについては触れない。

 ただ、今の現状から彼女が、一刻も早く回復することを目的に看護、そして治療にあたる。


 彼女、白井由紀子は諦めた人間なのだろうか?

 だから……。そのを投げたのか。


 しかし彼女は今も、生きることについては、心の底から否定をしているようには感じなかった。

「たぶんね。白井さん疲れちゃったのかもしれない。だから……」

 理都子は言う。


「彼女を見ていると、姉さんを亡くした時の、あなたを見ているような気がするの」

「俺……」

「そう、貴方」


「あの時のあなたは、何もかも諦めてしまっていた。ううん、諦めようとしていたのよ。そしてそんな自分を責めた。自分の弱さを知り姉さんの想いを、あなたが少しでもふれることが出来たから」


「まゆみの想いかぁ……。今ならお前に言われていること、素直な気持ちで受け止めることが出来るよ」

「そうね、今のあなたなら、そう答えてくれると思っていたわ。貴方は……こ、光一は、あの頃より立派になったんだもの……。医師として、そして田辺光一として……」


「そうかぁ、なんか照れ臭いな。目の前にいるのは理都子なのになぜだろう……。俺には、まゆみがお前に乗り移ったかのように思えてくるよ。俺は……。石見下まゆみを、この俺の命が消えうせるまで愛する。心の中でその実態はなくとも、俺はまゆみを生涯愛し続ける」


「うん、それは姉さんも同じだと思う。姉さんの姿は今はもうないけど、その想いはちゃんと生き続けている。貴方の中に、そして私の中でも……」


 いつものガラス張りの、フロアのドアを開けながら理都子は立ち止まり。


「明日ね、まどかちゃんとの約束」

「ああ、すまんな」


「ううん、……そ、それとね。あなたを想っていたのは……。いるのは……姉さんだけじゃないから……」


 呟くように言い、そのドアを閉めた。



 ◇Heart restored 修復されるこころ EP0


 久しぶりに会う秋島まどか。


 あの頃の、闘病生活時の面影は全くない。

 むしろ今生きている自分に感謝をし、その存在が輝く光を放している様にも見えた。


 街中、人の行きかう中で、俺たち二人の姿を見つけると、笑顔で大きく手を振り出迎えてくれた。

「久しぶりだね。まどかちゃん」

「ほんとうに、ご無沙汰しています。た・な・べ先生。りっちゃんも」


「りっちゃん?」

「元気そうね。まどかちゃん」


 理都子は微笑みながら、まどかちゃんの肩にそっと手をあてる。

 俺には二人の接点はわからない。でも今の彼女たちの表情を見る限り、お互い親しい中であることはよくわかる。多分この二人の中にも、まゆみの存在があるのだろうと……。


 でも、相変わらず、まどかちゃんの機嫌がいい時の、俺の呼び方は変わらない。こう呼ばれるのは、まゆみだけにしてほしいものなんだが……。

 少しはにかむ俺を横で理都子が「可愛いわよ。た・な・べ君」と、からかうように言う。


「あのなぁ……」

「なぁ―んだ、二人とも仲、物凄くいいのね」

「仲いいって、俺らそんな仲じゃないよ!」


「ま、ちょうどいいかっかぁ。それより時間がもったいないから行きましょ」

 と、駅の方へ俺らを導いた。

 まどかちゃんは、行き先も言わず。なぜか、電車に乗ってから、話をすることはなかった。


 ……この路線。


 本当に久しぶりに、見る流れる車外の風景。

 何年、この風景を俺は見ることがなかったのか……。

 この電車から、思いつく過去の思いで。

 それは……。


 あの最高の笑顔を、俺に最後に残して、この世を去ったお袋の姿。

 今でも目に焼き付いている。高校生の夏、あの日の最後の、ありったけの笑顔のお袋の姿が。


 降り立つ駅、その駅も今となっては、物凄く懐かしい。

 そう、この路線、そしてこの駅は、俺がまだ学生の頃よく通った場所。


 今は車でしか来ない場所。電車に乗ることなんか、本当になくなってしまった。


 目的地はおのずと、俺の頭の中に描かれる。

 でもなぜ?

 まどかちゃんはなぜ、この場所へ俺らを連れ出したのだろう。


 しかも、彼女がどうしてこの場所を知っているのか?

 この駅に降り立ってから、理都子の様子も、少しこわばった表情になっていく。


 秋島まどか。君は俺に、いや俺たち二人に何をさせようというのだ。

 改札を抜け、駅舎から出ると、心地よい風と木々の葉が、かすかにこすれあう音を感じる。


 その上には、あの時の様に青い空に、白い雲がはっきりとその輪郭を現していた。


 そうここは、俺のお袋が眠る。墓地があるところ。


 お袋の命日はあと数日先。実際おふくろの命日に、墓参りが出来た年は医師になってからなかった。

 でも、必ず俺はおふくろの眠る墓石に、足を運んだ。


 この世に俺という存在を、生み出してくれた母親。


 そして笑顔を忘れるな、心に笑顔を忘れた時、それは自分に負けた時だと、教えてくれた人。

 その笑顔が、俺とまゆみを引き合わせたこと。

 すべては、お袋のあの笑顔から始まっていた。

 そして俺は彼女が旅立つまで、その笑顔とお袋の愛情に包まれ育ってきた。


 秋島まどかの足が、ピタリと止まった場所。そこはまさしく、俺のおふくろが眠る墓石の前だった。


「まどかちゃん」

 彼女の後ろから、そっと名を呼びかける。


 彼女は墓石の前で、静かにしゃがみ込み手を合わせ。


「ごめんなさい。お花もお線香も、何も持たずに来てしまいました。田辺光一先生のお母さん。私、秋島まどかといいます。田辺先生には、本当にお世話になりました。そして、今、私がここにこうして生きてこれたのも、田辺先生と彼女さんのまゆみ先生のおかげなんです。だから私は初めに田辺先生を、この世に産んでくれたお母さんの所に、お礼が言いたくて来ました。一人で来るのは物凄く恥ずかしかったから……。まゆみ先生はもういませんだから、妹の理都子先生と、お母さんが一番会いたがっている。田辺先生本人を、連れてきちゃいました」


 まるでそこに、お袋が存在しているかのように、秋島まどかは語り掛ける。


「田辺先生……、ごめんなさい。黙ってここに連れ出しちゃって。でもね、私、まゆみ先生とも約束してたんだ。もし、………私が、心臓移植を受けられて、生きることが、この先も自分として、生きることが出来るのなら……。まゆみ先生の一番想いのある場所に、一緒に行きたいって……。それがここ。まゆみ先生の彼に、最高の笑顔を教えて与えてくれた人のところ」


「それがここだったのか……」


「そう言う事。でもね、もう一つ理由があるんだ。まゆみ先生はもういない。できれば、まゆみ先生と来たかった。でもそれはもうかなわない。前にも言ったよね、田辺先生。『諦めたらダメだって。諦めたらそこですべてが終わっちゃうんだって』まゆみ先生からよく言われていた。


 だから……、私は諦めなかった。そして、田辺先生という人に出会えた。この人も大切な人を失って、諦めかけてたんだけど、私もちょうど同じだった。私たち二人とも、まゆみ先生で繋がっていた。そして諦めることをやめなかった。だから今がある」


 まどかちゃんはそう言い、理都子の方を向き。

「今度はりっちゃんが頑張らないといけない。諦めちゃいけないことを」


「わ、私が……」

「そうよ、りっちゃんも諦めかけていたんでしょ」


「で、でも……」

「ほら、まゆみ先生の前じゃ言えないでしょ。だから今ここで……。それに、私まゆみ先生と約束してたんだ。あの人ほんとお世話な人なんだから。てか、そうだから私も田辺先生も、今があるんだけどね」



 今度はりっちゃんの番。


 りっちゃんの本当の気持ち。まゆみ先生も、ちゃんとわかっていたんだから……。


 田辺先生に残したノートにも、その答えちゃんとあったわよ!

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