救命医
秋島まどかはオペ室からICUへ移動された。
彼女の心電図モニターは、規則正しい波形を描き、その心臓が動いていることを証している。
まだ、彼女は麻酔から覚めていない。
そっとその顔を見つめる。
あの時、発作を起こした時の、あの彼女の顔とは印象が違うように見えた。
なんだろう、今まで彼女の周りを包み込んでいた。重い影のようなものの感じが、消え去っているように思える。
椅子に座り、まどかちゃんの手に触れる。
温かい彼女の手のぬくもりが、俺の手に伝わってくる。そして、その上にもう一つの温かく感じる、見えない手のぬくもりを感じた。
そのぬくもりは、とても懐かしくそして……。愛しいぬくもり。
「まどかちゃんは、諦めなかった。だから自分の未来をまた、歩むことが出来るようになったのよ。光一、貴方はどうするの? 立ち止まるにはもう十分じゃないの? いつまで引きずってるの……。あなたも、もう……。見えかけた光に向かいなさい。
それが私の願い……。愛してた光一。ううん、今も愛してる。ずっと、ずっとあなたの事を……愛している」
ふと見えかけた。まゆみのその姿が、俺の前から消えていく……。
でも、今までの様に寂しさは。感じなかった。
むしろ何もかもが、俺のすべてが……。そして、心がとても温かく感じる。
Broken Heart《壊れたハート》。俺の壊れたハートは。少しづつ、形を取り戻そうとしていた。
それから数日後の外来。糖尿病で膝に炎症を起こし、入院していた佐々木さんが来院してきた。
診察が終わると佐々木さんは。
「あの特別室の子、どうなっちゃったの? まさか亡くなっちゃったとか……」ちょっと遠慮気味に訊く。
「大丈夫ですよ。彼女は今、大学病院に転院して、順調に回復していますよ。最も前より手に負えないくらい元気ですよ」
「そう、それならいいんだけど……。それとね、ちょっと聞いたんだけど。田辺先生、また大学病院に戻るて聞いたんだけど」
「ええ、せっかく皆さんとも、親しくなれたところなんですけどね。残念ですけど……」
「そっかぁ、やっぱり本当だったんだ。戻っちゃうんだ。そうよね、田辺先生はこんな古ぼけた病院にいるより、大学病院にいる方がずっといいわよ。寂しくなるけど」
佐々木さんが言った、古ぼけたという言葉に反応したんだろう。隣の診察ブースにいる三浦医師が、咳ばらいをしたのが聞こえた。
「ここは、この病院は物凄くいい病院ですよ。大学病院にはない素晴らしいものを患者さんに提供できる病院です。大学病院は、大学病院としての役割がありあります。でも、この病院の様に、患者さんと一緒にその病気に向かうことはありません。この病院は患者さんと医師、そして看護師と、みんなが一つになって患者さんに、最もよい治療とケアを考え。そして治療に向けています。佐々木さんがここまで回復できたのも、佐々木さんが病気に向き合う姿勢を、ちゃんと向けてくれたし、それをサポートする、この病院のスタッフのおかげだと僕は思っています」
「そぉお、まぁ、私もこの病院、嫌いなわけじゃないしね」
「ありがとうございます。次の診察からは三浦先生に引き継いでいただきますので、これからも頑張ってくださいね」
「そうなの。それで田辺先生は、大学病院に戻って何をするの?」
「僕は……救命医です」
◇◇◆◆
エマージェンシーコールが鳴る。
「こちら北部レスキュー、交通事故による、負傷者2名の受け入れを要請いたします。35歳男性、JCS300、左側頭部より出血あり。バイタル血圧110、76.心拍68。もう一名は28歳女性、JCS100、腹部より痛みを訴えています。バイタル……」
「了解しました。受け入れます」
「おい、次の搬送者が来るぞ。田辺そっちの方はどうだ」
「後もう少しで、止血部位を結紮出来ます」
「わかった。それが終わったらすぐにオペ室に移動だ」
「了解!」
「どうですか? 田辺先生は」
「常見准教授……。いや常見教授」
俺はまた北部医科大学救命センターに戻った。
「田辺、何か吹っ切れた感じですね。でもあんなことがあったのに、あいつはここまでよく戻ってこれたと思いますよ」
「そうですか。あちらに派遣したのは、無駄では無かった。と、いうことでしたんでしょうね」
「いや無駄というより、彼は成長しましたよ。医師として、そして人間としても。こんなことを、言ってはいけないのかもしれませんが……」
「なんだね?」
「いや、あいつ、今の田辺を見ていると。石見下まゆみ先生の姿をよく思い出してしまうんですよ」
「そうですか。まゆみ君をね……」
常見教授は、懐かしむように患者に向かう、俺の姿を眺めていたそうだ。
「ところで常見教授、城環越へのご栄転おめでとうございます」
「ああ、ありがとう」
「あちらでは外科の総括執務教授職、もう院長と同等じゃないですか」
「いや、雑務だけが増える職務だよ。僕は今でもメスを握っていたいんだがね」
「ははは、それはご勘弁を。常見教授がメスを握られると、他の外科医がいらなくなりますよ」
「君も、おべっかが上手だね」
「ところでやっぱり田辺も、お連れになられるんですか?」
「ああ、そのつもりだが、何かあるのかね」
「こちらとしては、田辺が抜けるのは痛手ですよ。何せ即戦力ですし、腕や判断力も今は一番いい状態です」
「そうか、でも彼はここに居るべきじゃない。彼はここからもう一つ上の世界に、飛び込んでもらわないといけないからね。それにフェロー達も、ここは十分に戦力になっている。だから彼の穴をこれから成長をさせねばならない、医師に頑張ってもらわないといけないと思うんだが」
「手厳しいなぁ。流石、鬼の外科医、常見教授のお言葉ですね」
「それでは」と言い残し、次に搬送されてきた患者に彼は向かっていった。
まゆみ君……見ているかね。
彼の姿を、そしてこの、救命センターのスタッフの姿を。
かつて君が、ここで活躍していた場所を……。
私は今この風景をしっかりと、この目に焼き付けているよ。
君のいないこの救命センターの姿を。
僕は君を利用した。
いや、今思えば、僕は君に利用されていたのかもしれないね。
まゆみ君。君が僕の前に現れ、僕は君を利用した。そして君は僕の、医師としての知識と技術を利用した。
罪として思えば、僕が君に行った事の方が罪は重い。
そして君は僕に難題を残し、この世を去り。僕の前から消え失せた。
僕はね、本当は君に礼を言いたかったんだよ。いや君の医師として、君の人生に対して礼……、いや謝罪をしなければ、いけないと思っていたんだ。
でも君は、一枚僕より上手だったね。
あんな約束を、僕に課せるとは……。
僕はこの大学病院という組織の中で、上を目指すよ。最後まで……。昇り詰めることのできるところまで、僕は上るつもりだよ。
そして君との約束を果たすために、田辺君をこの北部から連れ出す。
でも、僕はいつも思うんだよ。君は本当にそれでいいのかってね。
でも今となっては、それが君と彼、田辺先生にとっては、最良の選択かもしれない。
そう思うことが、そう信じる事が君への謝罪となるのなら……。
「ふぅ、今日も一日終わったよ。まゆみ」
俺はまゆみがいた。まゆみが最後……、搬送されたこの北部救命センターで、患者と向き合う日々を送ることになった。
北部に戻る前、俺はある恐怖感を持った。またまゆみのあの最後の光景に、とらわれるのではないかと……。
血まみれになり、搬送され、俺の手の中で息を引き取ったまゆみ。
その光景が、俺を支配してしまうのではないかという恐怖感。
しかし、その恐怖感は沸いてこなかった。沸く? いや、恐怖感というものは、己の中にあるもの。重症の患者を目の前にしたとき、患者の命をこの世界にとどめなければならないという、使命感が俺を奮い立たせた。
ラウンジで熱いコーヒーを一杯飲んだ後。秋島まどかの病室を訪ねた。
静かにドアを開け、カーテンで仕切られた彼女のベッドの傍に近づき。
「まどかちゃん」と声をかけた。
彼女はベッドのライトを点灯させ、本を読んでいた。
「田辺先生」
俺の姿を見る彼女の笑みは、優しく柔らかい。
「今終わったの?」
「ああ」
「そう、お疲れ様」
「ありがとう。調子はどうだい」
「順調よ」
「うん、その笑顔見るとよくわかるよ」
「………ば、馬鹿」
彼女の頬は少し赤みを帯び始めた。
そして、「そうそう、最近ね、パパとママが一緒によく来るのよ。どうしたもんでしょうね。なんだか二人を見ているこっちが、何だか恥ずかしくなってきちゃうんだけど」
「ははは、そりゃよかったじゃないか」
「まぁ、また二人がもとに戻ることはないと思うんだけど……、でも……、何となく嬉しい」
「うん、そうだね」
「ねぇ、た、田辺先生は……その、まゆみ先生一筋なの?」
「ふぅ、さぁどうかな? まゆみが俺を放してくれそうにもないからな」
「あら、田辺先生がまゆみ先生を放すんじゃなくて、まゆみ先生が放してくれないの?」
「そうなんだよ。困ったことにな」
そう言って笑って見せた。
「そっかぁ、うん、それはわかるわ。だってまゆみ先生、彼氏の事本当に愛してるって言っていたもの。それが田辺先生だったなんてね。私にしたらちょっと残念」
「どうしてさ」
「だってまゆみ先生くらいの、美人のお医者さんだよ。もっとかっこいい人かと思っていたんだもの」
「それは残念でした。でも正真正銘、俺はまゆみの彼氏で、まゆみは俺の彼女。これは絶対に覆せない事実だよ」
「はいはい、わかりました。全くもう、パパもママもそして田辺先生も、私に当てつけしに来てるんじゃないの? 私だって、そのうちかっこいい立派な彼氏見つけて、見せつけてやるんだから。その時になって、ヤキモチ妬いたって遅いんだからね」
「やきもちって……」
「もう、鈍感! 鈍感田辺!! 消灯時間過ぎてるわよ! 私、寝るからもう帰って」
「わかったよ。それだけ話せるんだったら十分だ! それじゃ、お休み」
「お休み……」
毛布をかぶったまま、ぼっそりとまどかちゃんは言った。
そしてそっと、彼女の部屋を後にした。
それから2週間後。
秋島まどかは、北部医科大学病院を退院した。
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