壊れかけた心臓に哀悼の意を。
メスを入れるとき、先端から皮膚の上に赤い血が出る。
当たり前の事、そういつも思っている。
傷をつければ出血する。
それ以前に、救命に搬送される患者の多くは、外傷を伴う患者が多い。
もうすでに出血している状態である。自ずとその赤い血を目にすることは、必然のこととなる。
俺がまだ医学生の頃、遺体による解剖講習を受けた時。不思議とその体内を見るときには、それほど恐怖感と言うのか、違和感はなかった。
もうすでに死亡している遺体。それはそこに横たわる人体という、固形物のようにしか感じていなかったためかもしれない。
しかし、まだ生ている人体から溢れ出る血液を目にする時、恐怖感と言う圧迫感を腹のそこから感じる。
なぜかは、わからなかった。
遺体と同じ構造を持つ、人体の修復。
そう思えばその恐怖感は、拭えるものだと思っていたが、実際は違う。
流れ出す。その赤い血は温かいのだ。
その温かさが、この人はまだ生きている。そう訴えかけている様に感じる。
そう、人は温かさを持っている。
それは人体の温かさだけじゃない、心の中の温かさをも感じさせるものだ。
人の心の温かさ、魂の温かさ。それを俺は何時しか、この手に感じるようになっていた。
人、いや人間は温かい生き物だ。
体も、そして心も……。
脳死判定は、各項目及び基準に沿って、その判断は下される。
その人の心臓はまだ動いている。規則正しく鼓動を鳴らしている。
だが、全ての機能をコントロールする脳は、反応がなくなっている。
自発呼吸もない。
人工呼吸器により酸素を体内に送り、今だ動いている心臓が、その血液を体内に循環させているに過ぎない。
そして、2回目の脳死判定。
医師より判定結果が下される。
判定判断告知時間を家族に告げ、その場に立ち会う医師。看護師が深々と頭を下げる。
今まで一生懸命に生きて来た、この人の最後に敬意を表するかのように……。
生前の本人の意志により、臓器を提供する。つまりドナーカードに署名がされていた。
これは、本人の意思に元ずく行為である。そして、その後の命に己の命が引き継がれる……。
遺族の同意の元、故人の意思を尊重し、その臓器は次の命を繋ぐ。
すでに移植コーディネーターによる家族への説明、同意は得ている。
提供者の臓器状態及び、提供される臓器を臓器提供を待つ、該当患者を選出する。
臓器移植ネットワークに登録している患者から、公平に臓器提供を待つ患者を選出する。
ここで臓器提供を待つ患者が、その臓器の提供を受けられるかどうかの判断が下される。
たとえ2年、3年待つ患者であっても、その状態や提供される臓器の適合が判断され、感情という概念を抜きにした。まさしく公平極まりない、選択方法で該当患者を選出るする。
秋島まどかは、この幸運を摘み取ったというべきだろう。
幸い、発作は何とか収まり、彼女自身の手術に対する体力も、そして精神力も十分に対応できると判断された。
彼女、秋島まどかにしてみれば、間一髪のところで命が繋がったというべきだろう。
だが、彼女がまた新たな心臓を受け入れるということは。その心臓を身も知らぬ患者へ、己のその
その大きな心の……。魂の想いを受け取り、また新たな人生を歩む。
10時臓器摘出のためオペ室へ入室。
臓器摘出チームがオペ室に入室。
故人に対し黙とうをささげる。
臓器摘出には、数時間の時間が要する。
各臓器担当の摘出チームが、掲示される臓器摘出スケジュール通りに、臓器を摘出する。
摘出された臓器は処理をなされ、速やかに臓器を待つ患者の元へと搬送される。
すべては時間との勝負だ。
「モノポーラ、メッツエン」
それではろっ骨を切り離します「ソウ」
ろっ骨が切り離され、まどかの心臓があらわになった。
その心臓を見て。
よくここまで耐えてきたものだ。
執刀医が一言漏らした。
その心臓を第一助手の後ろから覗き見た。
心房はすでに肥大していた。弱弱しく動くその心臓が俺の目に入る。
まどかちゃん、よくここまで耐えて来たね。頑張ったよ。ほんとうに頑張ったよ君は……。
「それでは摘出に入る。サテンスキー、サンゼロピレン」
彼女の心臓につながる血管を一つ一つ遮断し、結紮する。
人工心肺へつながるチューブが、装着される。
予定通り、ドナーからの心臓がオペ室に到着する。
「ドナー心、到着しました」
「了解。では大動脈を遮断します」
人工心肺へ彼女の赤い血が流れだす。機器は正常に彼女の血液を、また体内に送り出していく。
「うん、問題はなさそうですね。では心摘出します。クーパー、サテンスキー、モノポーラ。もう少し術野を広げてください」
執刀医が第一助手に告げる。
「多少癒着がありますが、この程度であれば問題はないでしょう。メッツエンその部分は慎重に剥離してください」
「はい」第一助手が、慎重に癒着部分を剥離していく。
「よし、それでは摘出します」
秋島まどかの人生を、今までの彼女の
俺はその心臓を目にしながら思う。
彼女はあの自分の心臓と、いつもどんな思いで付き合っていたのだろうかと。
ようやくその苦しみから解放された瞬間……。いやもしかしたら……。
秋島まどかは……。己のこの心臓、「壊れかけた心臓」を愛していたのかもしれない。
そして新たな心臓が、秋島まどかのなかで生きる。
それはまた、新たに生まれ変わる事と同じことだと、彼女は感じているだろう。
この瞬間、今までいた……秋島まどかは……。別な我々が知らない、特別な世界に行ったに違いない。
もう、戻ることのない世界に……。
あのとき、病室を出る時、彼女のベッドの横に、白衣を着たまゆみの姿を俺は一瞬。彼女までも、まゆみとお袋がいる世界に連れて行ってしまうのかと、胸の奥から苦しみが湧き出していた。
しかし、それは違っていたんだ。
まゆみは、苦しみ耐え抜いたまどかちゃんのその苦しみだけを、持ち去ったのかもしれない。
まゆみは、まどかちゃんに会うたびにいつも言っていたそうだ。
「諦めたら、そこですべてが終わってしまう。だから絶対に諦めてはだめ」と。
そうだった。まゆみは俺にもいつも言っていた。
「どんなに苦しい場面に立ち会っても、絶対に諦めてはだめ。あきらめる前にやれることはどんなことでもやる。それでも、だめでも諦める心を持った時」
『それは……自分に負けた時』
「自分に負けた時、その先の光はもうささない。だから新たな光を得るためにも、絶対にあきらめてはいけないの」
俺はまゆみを失ってから、その現実に背を向けようとしていた。
そうすることで、悲しみから逃れらると思っていた。
でもその行為は……。俺は諦めていたんだと思う。
もうどうにもならないことだから、諦めるしかないと……。諦めて自分から逃げて、逃げて……。自分で厚い壁を造り、そこからわざと、逃げ出せないようにしていた。
逃げ出せないように、していたんじゃない。俺は、閉じこもって、しまっていたんだ。
まゆみが残してくれたノート。
「あなたには、まゆみ先生が残してくれたこのノートの、本当の意味を知るにはまだ早いわ」
秋島まどかは、俺にそう言った。
今、何となく彼女が言ったことの意味が、少し解りかけてきたような気がする。
今の俺ではまだ早すぎる。
まゆみが俺に託した、本当の真実とまゆみの想いを、受け取るには……。
「田辺君。君も少し手を貸してくれないかな」
執刀医が顔を上げ、俺の目をまっすぐに見つめている。
「そんな、私にできることなんて何もありませんよ」
「いや、大切な仕事が残っているんだよ」
そう言いながら、執刀医は自分の立ち位置から少し逸れ、俺にその位置に立たせた。
秋島まどかの体内には、ドナーから提供された心臓がしっかりと繋がれていた。
「彼女のこの新しい心臓を、君自身の手で確かめてほしんだ。彼女がまたこちらに戻ってこれるように」
相当の疲労を表に一つも出さず、その目は物凄く優しい目をしていた。
まるで、俺が最後、彼女、秋島まどかを蘇らせるかのように……。
そっと、彼女の新しい心臓に手を触れる。まだ血は通っていない。少し白身を帯び始めたこの心臓に触れる。
「戻っておいで……。まどかちゃん」
一言その心臓に呟き。
「ありがとうございます。よろしくお願いいたします」執刀医に一例をした。
執刀医は軽くなずき。
人工心肺フローダウン。
徐々に新しい心臓に赤みが帯びてくる。
「うん、大丈夫そうだね。カウンターショックいくよ」
心臓にパドルをあて。
「それでは行きます。離れて……」
「ドクン………」
心電図のモニターに、鋭い波形が描かれる。
そしてまた平坦な、一本のラインが流れる……。
数十秒間……。
長い間隔。……ほんの数十秒間。
静まり返るオペ室……。誰もが、その心臓に神経を集中させている。
「ピッ、」
一瞬のその音を耳にして、彼女の新しい心臓を見つめる。
「ピッ、ピッ、ピッ……」
規則正しい音と共に、波形が描かれ始める。
秋島まどかの新しい心臓は……。自ら鼓動をし始めた。
「おお……」
オペ室に歓声が沸いた。
今にでも切れそうな緊張感が、温かい感情に変わっていく。
「大丈夫そうだね」
秋島まどかの心臓は、元気に力強く動いていた。
閉胸し、ステープラでカチカチと縫合する。最後の一つを止め、「終了」と執刀医が安堵の声で言う。
「お疲れさまでした」一斉にスタッフ全員が声をそろえた。
「田辺先生、彼女がここまで頑張れたのは、君たちのおかげだよ」
執刀医が言う。
「君たち……」
「そう、君と亡くなった石見下まゆみ先生のおかげだよ」
「彼女は諦めなかった。だから今がある……」
その言葉に俺は深々と、このオペと闘った執刀医に頭を下げた。
この時一つの道が開けたような。
……壁の隙間から、新たな光が差し込んだような気がした。
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