秋島まどか EP2 約束とは?
秋島まどか。彼女との出会いは、あの時の俺にとって不運だったのか、それとも運命だったのか。
「ちょっと、どうしたの田辺君?」
後ろから理都子が、俺の肩をポンとたたきながら言う。
「いや何でもない。前にいた病院のことを思い出していたんだ」
「前にいた病院?」
「ああ、ここ城環越に来る前、少しの間お世話になった病院があってね。その時に出会った患者のことを思い出していたんだ」
「ふぅん、よっぽど想いのある患者さんだったのね」
「まぁな」
「それじゃその事、あとでじっくりと聞かせてもらわないと」
「ん?」
理都子は何となく、意味ありげな表情で言う。そして。
「常見教授が言っていたわよ。田辺先生の手技、姉さんに似てきたって」
「そうか………」
理都子のその表情を、その時俺は見なかった。
彼女の声が涙でかすれていたからだ……。
この日、俺は常見教授に呼ばれていたことを思い出し、教授室に足を運んだ。
「失礼します、田辺です」
「どうぞ」
常見教授は、にこやかに俺を出迎えてくれた。
「今日のオペ、素晴らしかったですよ」
開口一番、出た言葉だった。
「ありがとうございます。でも私などは、まだまだです」
教授はソファに腰を落とし、俺にも座るように促した。
「いや、オペ室でも少し石見下先生にも話したんだが、君の手技を見ていると、まゆみ君を思い出してしまってね。あの頃の迷いのない手の裁きと、前に向かうその精神力は、まるでまゆみ君が乗り移ったかのような気がしたものでね」
「そんな、僕は彼女にはまだ、足元にも及びません。本当に石見下まゆみと言う医師、外科医を超えた時、それは僕が外科医という仕事を、生涯まっとうできた時だと思っています」
本当に俺は、いつもそう思っている。
俺は生涯石見下まゆみという、外科医を超えることは出来ない。いや、もしまゆみを超えることが出来るとしたならば、この人生を捧げ、終焉したときにふと感じる瞬間、ほんの一瞬の時の間であるのだと思う。そして、俺はようやくまゆみの元に、また、まゆみと共に永遠の時を過ごしていけると思う。
それまでは俺は、まゆみが残してくれたノートと共に、歩まなくてはいけないのだと思っている。
そんな俺を見つめながら、常見教授が一つ咳ばらいをした後
「ところで田辺先生、秋島まどかさんという方を、まだ覚えていますか?」
秋島まどか………。覚えていますかと尋ねられること自体、否定してしまうほど俺の脳裏には深く刻み込まれている。
「教授、まどかちゃん……いや、秋島まどかさんに何かあったんですか?」
唐突に出た懐かしい名前に、俺は思わず彼女の身に何か重大な異変が起こったのではないかと心配になった。
「田辺先生、そんなに心配なさらなくても、秋島まどかさんは大丈夫ですよ。あなたも彼女のオペには立ち会って、その経過も見てきたはずです。それを思えば、彼女はもう大丈夫だということを、あなたが一番よく理解されているんじゃないですか」
常見教授は、ゆっくりと何かを諭すように話しかける。
あの時俺が北部にいた時、目の前にいる常見教授から、まゆみのノートを渡された時の様に、ゆっくりと、しかもしっかりとした重みのある言葉で俺に返す。
「それはそうですけど、彼女のことですからね。何かまた無茶なことをしたのではと、ちょっと心配になりまして……」
「まぁ無理もないかもしれませんね。私も松村君から、よく聞かされていましたからね。いい我々の酒の種でしたよ」
くったくのない笑い声を、常見教授はあげた。今日は何かいいことでもあったのかと、いう感じなくらいに。
「まぁ今日、田辺先生をお呼びしたのには、ちょっとした報告がありましてね」
いつになく勿体ぶる。
「一体何だったんでしょうか? 秋島まどかさんに関わることで、あることは推測が付きますけど」
「まぁそんなに焦らなくてもいいでしょう。君もここ城環越に移籍してもう4年を過ぎましたね。その間彼女も、ほんとうに頑張っていた様で。もうすでに、医大も4回生を迎えていますよ。それもこれも、田辺先生が彼女に、力を授けてくれたおかげですよ。松村ともども、ほんとうに感謝しています」
「そうですか。まどかちゃんも、もう4回生になるんですか。早いものですね」
「ええ、それでなんですが、これから彼女も実習講習の講義で、この病院にも来ることになりましてね。まぁ先生たちとは、直接かかわりはないにしても彼女も、ものすごく楽しみにしているんですよ。田辺先生にお会いになれることをね」
「え、この城環越にですか?」
「ええ、そうです。彼女もかなり優秀でして、まゆみ君や理都子君の様に、バイタリティーあふれる医師になりますよ」
「そうでしたか。そのことで今日私を、お呼びになられたんですか?」
「まぁそれもあるんですが、もう一つ報告と言いうか。これはからは私の独り言なんですけどね。まぁ年老いた、頭でっかちの人間が、愚痴をこぼしているんだ位に訊いていてください」
「はぁ……」
本題はこれからか……。
常見教授は立ち上がり窓の傍に行き、少し窓を開け、白衣のポケットから煙草を取り出し口にくわえ火を点けた。
あの時と同じように……。
「石見下理都子、石見下まゆみの妹であり、系列のアメリカの大学病院で、脳外科を専攻してきた。その彼女を、私はあえてこの城環越に呼び戻した。これにはちょっとした理由がありましてね」
煙草を吸い終わり窓を閉め、俺の方を向き常見教授は自分の席へ座り。
「実は、私はまゆみ君と、ある約束をしていましてね」
まゆみと約束?
俺は常見教授に?
「約束とは? どんなことなんでしょうか」
常見教授は、少しその顔を崩しながら。
「今はまだ言えません。ですが、もうじき彼女との約束を果たさなければならない時期になると、私は今日田辺先生のオペを見て感じたんですよ。もう君は私が君と同年代の頃の、技術を超えていると思いましたからね。そんなことはないだろうと、思っていると思いますが。実際あなたはまゆみ君が残してくれた、あのノートをすでに自分のものに定着させている。それは私が行ってきた経験を、すべて網羅しているということに等しい。君はもう一人前の外科医として、前に進んでいる。ただ、一つ君には大きな弱点がある」
大きな弱点……。
それはなんだ? 最近少し、傲慢になりすぎているのかもしれないのか?
……それはあるかもしれない。
だが、この仕事をする上で、その傲慢さは杖になる。強すぎる傲慢さは害になるが、己を導くための傲慢さは、必要な世界だと最近感じ始めている。
それを言うなら常見教授の傲慢さには、到底比べ物にならないものなんだが……。
常見教授は言う。
「そう君の弱点。まゆみ君が一番心配していて、そしての君の弱点を一番に愛した。
そして、田辺先生に、またあの笑顔を戻してあげたい……。それがまゆみ君の願いだった。自分が、病に侵された身体であることを知った時に、彼女は君のことを思い、あのノートを作り上げそして、まゆみ君自身が君の前に。……君とともに、時を刻むことができなくなった時のことを、思ってのことだったんだろう」
「ちょっと待ってください、教授。私には、何が何だかよくわからなくなってきました。一体教授は何をなさりたいんですか?」
「秋島まどかさんが、この病院に実習に来るのもいい機会ですからね。一度、石見下理都子先生と一緒に、秋島まどかさんにお会いしてもらいたいんですよ」
「ええ、でもなぜ、石見下理都子先生と一緒なんでしょうか?」
「それは秋島まどかさんからの、依頼でもあるんですよ」
「はぁ、まどかちゃんからの依頼?」
俺はますます、常見教授が何をしたいのかが、わからなくなってきた。
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