Broken Heart 壊れた心 EP2 痛み

「メス」


 看護師が俺の手にメスを渡す。


「ほう、メルセデスですか?」

 常見教授がメスの動きを見て言う。


「ええ、矢の刺さっている箇所と、肝臓の処置を考慮してですが」

「そうですか、いいでしょう」

 常見教授は独り言のように言う。


「吸引お願いします」

「はい」理都子が溜まっている血液を吸引する。


「生食(生理食塩水)ください」

「はい」

 患部を洗浄する。理都子は術野を広げながら吸引を続行させる。


 CT画像に映し出されている矢が刺さっている箇所は、頭にたたき込んでいる。

 さらに術野を広げ肝臓と矢の位置を確認する。


 幸い矢が貫いているのは左葉だ。右葉よりは血管がしめる割合は少ない。しかし、安易に刺さっている矢を抜けば大量出血は免れない。



 矢の刺さっている部分を、慎重に開き側近の血管を結索する。

「モノポーラ」

 かすかな白煙が上がる。

「メッツェン」

「サテンスキー」ラチェットをかける。


 肝内部の状態を確かめる、そして横行結腸に目を向けた。

「しかしうまい具合に、胆のうと胃をかわしていますね」

 確かに、通常この位置から矢が刺されば、肝臓、胃、は確実に損傷する。しかし今回はなぜか、矢は胃部を押し込むようにして、その先端が横行結腸へと届いていた。


「どういう体制で刺さったんでしょうね。それより、大動脈へ行かなかったことが不幸中の幸いです」


「そうですね。しかも肝臓も左葉ですし、この子は強運の持ち主かもしれません。先天性無痛汗症でありながら、普通の生活を今までしていたんですから」

「奇跡的ですね」

 理都子がそれとなく言う。


 横行結腸は損傷部を切除。

「メッツェン」

「モノポーラ」

「それでは抜きます」


「ガーゼ」

 他の部分が傷つかない様に保護する。

 ゆっくりと慎重に矢を抜く。


 少しづつ矢が動く。ゆっくりと慎重に矢は、体内から離れていく。

 肝臓部を抜けた後、その部分から血液があふれ出て来た。


「血圧70に低下」


 動揺はしない。これも俺には予想していた事だ。


 理都子が素早く、あふれ出る血液を吸引する。


 常見教授はその様子を目にするだけで、自ら手を出そうとはしなかった。


「サテンスキー、ブレード」


 出血部の血流を止めるため、一次的に血管を結紮けっさつする。


 肝損傷部を修復。

「モノポーラ、モスキート、サンゼロ・ポリプロピレン。クーパー」

 器具出しにつく看護師は、オーダーする器具を迅速にかつ、正確に選出し執刀医に渡す。


 主要な血管を一本一本縫合し、繋ぎ合わせる。

 損傷した肝臓左葉部を修復。

 結紮していた血流を解き放つ。


 どす黒く変化していた肝臓の色が、次第に元の色を取り戻す。

 吻合した血管からの漏れも確認されなかった。


「血圧戻りました」

「それでは横行結腸修復に移ります」


 腸をある程度体内から引き出し、損傷部を切除し、それを繋ぎ合わせ再建する

 基本外科手術は切り、そして縫い合わせる。その連続だ。


 だがその方法は術式において様々な方法がある。その患部、その状態に合わせた適切な手技を行う必要がある。


 それを見極め、確実にそして迅速かつ正確に行うためには、やはり経験を積むしかない。

 外科医はその経験と手技を磨かなければならない。


 修復した箇所を再度確認をする。問題はなさそうだ。


「確認させてもらえますか」

 常見教授が術野を覗き込む。


「うん、状態も安定している問題はなさそうですね。田辺先生」

 常見教授の、その厳しい目をそらすことなく。

「ありがとうございます」と答えた。


「それでは閉じます。V-Loc・PBT」

 助手に立つ理都子が術野を確保しながら、連続縫合で患部を閉じる。


 最後、糸を切りオペは終了した。

「バイタル、血圧100の70、心拍90安定しています」


「お疲れ様、田辺先生」

 微笑むように、……と言っても、マスク越しだからはっきりとは分からないが、理都子の声を訊いた時、ようやく俺の緊張は解き放たれた。


「ありがとう」そう一言返して俺はオペ室を出た。


 グローブを外し、サージカルガウンを脱ぎ、悠馬君の両親の元へと向かった。


 オペが終われば、患者の親族にその経過を報告しなければいけない。いわゆるムンテラというものだ。そして今後の治療に対する説明をする。


 悠馬君の場合、現状は特別疾患は見受けられなかった。


 しかし、先天性無痛汗症という症状は特質な事項だ。これからの経過いわば症状の変化などは実際予測がつかない。


 なぜなら、痛みや苦痛を感じないからだ。


 手術室の前の廊下の椅子に、ぐったりとしながら、悠馬君の両親は座っていた。

 扉が開き俺の姿を見ると「ハット」しながら立ち上がり、駆け寄ってきた。


 無理もないだろう。我が子が大怪我をして、長い時間手術を受けている。その間、不安でいっぱいだったんだろう。


「先生、悠馬は……」


 母親が、今にでも泣き出しそうな声で言う。

「うん、悠馬君頑張りましたよ。損傷した部分も修復できました。問題はないと思います」


 それを聞いた母親は、今まで溜めていた涙を一気に湧き上がらせた。


 俺は父親の方に目線を移し。


「ただ問題なのが、悠馬君が持つ先天性無痛汗症です。これに関しましては、これから経過を見てみない事にはわかりません。どのような形で悠馬君に現れるか、まだ解りえない事ですので」


「そ、それでも悠馬は今、大丈夫なんですよね」

 父親が聞き返す。


「ええ、まもなくICUに移動されます。意識も、もうじき戻るでしょう。その時お二人とも傍にいてやってください」

「ありがとうございます」

 父親は深々と頭を下げ礼を言った。


 オペ室から悠馬君を乗せたベッドが出て来た。二人ともそのベッドにしがみつく様にしながら共にICUへと向かった。


 その両親の姿を目にしながら、ふと頭の中で……。最後にお袋が見せた、あの笑顔が浮かんできた。


 やはり俺には、お袋のあの笑顔だけは消す事が出来ないみたいだ。

 そのおかげというべきだろうか。

 まゆみと出逢えたのも、あのお袋の笑顔があったからだった。


 でも、二人は俺に同じような笑顔を残して、いなくなってしまった。


 そして、もう一つの笑顔を、俺はあえて自分の中に封じ込んだ。そうしなければ、今のこの俺は、ここには存在しなっただろう。


 一度、この世界から逃げ出そうとしたのは、事実だから……。


 あの時、医者として、そして人として、すべてを失いかけたこの俺を救いあげてくれたのは、常見教授あの人だった。

 当時北部医科大学准教授であった、常見孝三郎。


 彼は辞表を提出した俺に、系列の市病院の非常勤務医(バイト)として数か月間移籍させた。

 あの時、彼の所に呼ばれそして出された、あのまゆみが残してくれたノートと共に。


 あの数か月間があったからこそ、俺はまた医師として、いや外科医として存在出来ている。

 人は、痛みを知る事で、その痛みの理由を理解する。

 そしてその痛みがあるからこそ、成長も出来るものだと思う。


 怪我をすれば、その部分から痛みを感じる。実際には脳がその痛みの指示を出すわけだが、痛みを感じる事により、その部分を保護しなければいけないという行動に移る事が出来る。


 だが、この痛みを感じなければどうだろう。


 どんなに致命的な怪我をしても、それに対し、何の自己対処も出来ない。

 己を己自信で、守ろうとする事さえ出来なくなってしまうかもしれない。


 それは体だけではなく、心の傷についても言えるのかもしれない。



 痛みを知ると言う事は、己を知ると言う事と同じだと。



 俺は思う。



 ◆非常勤勤務医 EP0



「田辺、カルテの整理できたか?」

「すいません、まだできていないです」

「なんだよ何時いつまでかかってんだ!」


「す、済みません」


 非常勤で、この病院に移籍して数日が過ぎていた。


 この病院は大学病院の様に、設備はあまり整っていない。最先端の医療機器? そんなものは、この病院内をいくら探してもどこにもない。


 医療設備? 確かにCTはある。しかしそれも、かなり年代物の旧式のものだ。正直まだこんな代物使っているのかと、口から出てしまいそうなものだ。


 血液検査にしても、院内で出来る項目はごく僅か、基本的な項目しか出来ない。その他の項目に対しては、すべて外部への委託になっている。


 病床数は60症。診療科目は基本内科と外科。と言っても、外来で来る患者はそれ以外の病気でもおかまいなし。つまりオールマイティ診療と言ったところだ。

 それに対し、設備内容は乏しく医師と看護師の人数も少ない。


 まして建物自体、かなり年季の入っている……いや、ここはあえて頑張っていると、言うべきだろう。よく持ちこたえていると思う。

 初めてこの病院に来た時、この中に一歩足を踏み入れるのを、とどめてしまったくらいだ。


「初めまして田辺先生。この病院の院長を務めさせてもらっている、「松村」です。よろしく」


 この病院の病院長『松村正まつむらただし』表情は柔らかく、そして物腰もとても穏やかな感じを受ける人柄。


「そんなに緊張しなくてもいいですよ」と、その外見通りの気遣いを、俺にかけてくれた。


「君が常見先生から推薦のあった医師ですか。外科で、ほぉう、救命にいらっしゃったんですね。すごいですね。よっぽど優秀な先生なんですね。あの常見先生がうちの病院に、推薦なさるくらいですからね」


「あ、いやそんな優秀かどうかは……」

「いやいや、私と常見先生は医大時代の同期でしてね。彼とは今もよく酒をかわす仲なんですよ」


「そ、そうなんですね」


「彼は大学病院の准教授、そして私は、しがない市病院の院長。天と地ほどの差がありますけどハハハ」

 松村病院長は、にこやかに笑い声をあげる。


 しかし、この人は本当に温厚な感じの医者だ。しかも規模は大きくはないが、病院長と言うポストについていながらも、気さくに話しかける。


「あ―、それはそうと。この病院に来た時、一瞬迷いませんでしたか? と、言うより」

 彼はニヤリと笑い。

「失敗したと、思ったんじゃないですか?」と言った。


 返す言葉がなかった。正直、院長の言葉があたっていたからだ。


「田辺先生、ここはねぇ、あなたがいた大学病院とは違って設備も乏しい。そして医師の人数も少ない。だからこの病院は医師と看護師、それぞれのマンパワーでもっている病院なんですよ」


「マンパワー?」

「そう、マンパワーです。でも頭数の事ではなく、技量の事ですよ! お間違いなく」

 またもや意味ありげに、ニヤリとしながら、松村院長は言う。




 俺はその時、どえらい所に来てしまったのではないかと……思った。

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