Broken Heart 壊れた心 EP1

 組織というものは、足並みをそろえなければどうも、統制が取れないものらしい。

 その足並みを崩し、一歩前に出るものは即座に目をつけられ、つぶしの対象となる。


 この大学病院という異質な体制の中では、派閥といういう表現を使えば、おのずとその構図は浮かび上がる。


 裏を返せば、大学病院だけがこのような事が、起きている訳ではない。

 政界、大手企業、もっとへりくだれば小学校の虐めにもにたような、そんなものだと俺は思っている。


 俺自身、こんな派閥の群れの中に己を投じ、常に上司の顔いろを伺いながら、自分の地位を確保しようとは思ってはいない。

 かと言って、その組織の中からとりわけ、目立つような動きをしようとも思わない。


 もし、この大学病院という世界で、高い位置から下界を見渡したいという野望があるのなら、その進む道と行動は違うものになるだろう。


 俺は俺……。俺は現場で、患者と向き合う事を信念に決め、業務に向かっている。





 先に50代の女性が搬送されてきた。

 ストレッチャーから処置台に患者を移動させる。


「一、二、三」掛け声とともに、患者は処置台に乗せられた。

「Aライン取ります」

 モニターの端子が患者の胸部に付けられる。


「バイタル、90―70、心拍80、」

 看護師が救急隊の情報から患者の名前を呼ぶ。


「斎藤さん、斎藤敦子さいとうけいこさん……」

 だが反応はない。



「斎藤さん服切りますね」剪刀で衣服を切り、患者の裸体が露わになる。


 胸部エコーを撮るが、ハッキリとした所見は見受けられない……。

「まずは頭部からCTを取ってみましょう」

 常見教授が指示を出し一旦「斎藤さん」はCT室へと運ばれた。



 続いて小学生くらいの幼い男女二人が、同時に搬送されてきた。


「雪ちゃん大丈夫?」


 ストレッチャーの上で、男の子がきょろきょろしながら、もう一人の女の子を心配している。

 その子の胸には矢が刺さっていた。


「雪ちゃん!」

 女の子は意識がない。

 その男の子が呼びかけても、女の子は反応しなかった。


 男の子は「高橋悠馬たかはしゆうま」君。そして女の子は「前田雪まえだゆき」ちゃん。


「悠馬君、あまり頭動かさないで!」

 看護師が、雪ちゃんを心配する悠馬君に注意する。


 救命の笹西が「悠馬君、君胸にいま矢が刺さっているんだ。痛くないのか?」

 その状況に対して、彼はまったく何も感じていない様だった。


「うん、何も痛くないよ。だから早く抜いてよ」


「痛みが無い……」俺が呟く様に言った。


「バイタルは今安定している。もしかしたら……」

 女の子の処置を行いながら理都子が言う。

「むこうで、アメリカにいた時搬送されてきた患者に、同じような状態の人がいたの。もっともその時は鉄パイプだったけど!!」


「アドレナリンによる興奮状態で、痛みを感じなかったんじゃないのか?」

「始めはそれは考えたわ、まずはCT撮ってみないと……」

「解った、そっちの方はどうだ」

 俺は理都子に女の子の方の状態を訊く。


「こっちは何とか落ち着かせたわ。でもオペは必要ね」

「そうか……」


 斎藤さんのCT画像が送られてきた。

 その画像を常見教授はじっくりと考察する。


「やはり……」と一言つぶやいた。


「脳梗塞です。しかも広範囲で深層も深い、これではオペ適応外です」

 その画像が映し出された端末を、俺の方に常見教授は手渡した。


 それのデータを見る限り、やはりオペ適応外であることは、はっきりと確認できた。


「せめて骨折部の処置だけでも行ないます」

 俺が処置しようとすると尾形部長が一言。


「どうせ、もう意識も、戻らないでしょう。仮固定で十分ですよ」

「しかし……」

「しかしもないでしょう、この患者はもう二度と意識は戻らない。つまりベッドから起き上がる事さえないということですよ。幸い骨折は単純骨折です。固定だけすればそれで充分です」


 それでも俺はやれることは、やれるだけのことは、この患者に施してやりたかった。


 だが部長の言う事も、あながち間違いではない。この患者はもう二度と目を覚ます事は無いのだから……。


 斎藤さんは人口呼吸器を付け、しばらくICUで経過を見る事となる。

 実際、あとは親族の判断に、その後の事は委ねられる事となる。


 CT室から連絡が入った。

 高橋悠馬君の意識が急に無くなった。


 搬送された時点では、悠馬君は痛みを何も感じていない様だった。

 バイタルも安定していた。

 悠馬君はすぐさまオペ室に移動された。同時に血液検査も行われる。

 そして、麻酔科により全身麻酔の準備が進められる。



 悠馬くんの緊急オペの準備は、速やかに行われた。


 平行して悠馬くんのCT画像が送られてきた。

 常見教授がその画像を見つめる。


「なぜ、この子はこれだけの傷を負いながら、まったく痛みを感じていなかったんだ」

「前に私も担当した患者にこのような症例がありました」

 理都子が常見教授に言う。


「その症例とは? 石見下君」

「先天性無痛汗症」

 理都子が一言その症例を言う。


「ええ、極めてまれなケースです。ふつう無痛汗症の場合。幼児期での死亡率が高い。ですが中には、その難を逃れ成長する人もいるのが事実です」


 先天性無痛汗症。痛みを感じない。

 一見羨ましい様に思われるが、痛みは人が生きて行く上では、重要な感覚だ。


 痛みを感じるからこそ、その異常や変化を察知し対応が出来る。また痛みを感じないがために自らの体を傷つけても、その重要度や痛みを感じる事による、精神的抑制がかからないという状態になる。


 つまり、何か病気や怪我をしても、自ら感知できないという事だ。


 悠馬くんに刺さった矢は、左側胸部から肝臓左葉を貫き、横行結腸を巻き込んでいた。

 肝臓には多くの血管がめぐらされている。そして肝静脈の一部を損傷し、出血していた。


「かなり難しいオペになりそうですね」

「ふぅ、そうだな。君に任せられるかな田辺君」


 常見教授から言われ一瞬躊躇したが、今、瀕死の淵にいるこの少年の命を消すわけにはいかない。

「解りました。私が執刀します」

 覚悟を決め、その戦いを受けた。


「私が第一助手として入ります」理都子が率先し、名乗りを上げてくれた。

「解りました。後、不測の事態を考慮して私も立ち会いましょう」

「教授が……!」思わず声に出して言ってしまった。


 その常見教授の言葉を聞いて尾形部長が言う。

「何も常見教授ともあろうお方が、オペ室に入らなくとも。経過でしたらモニターでもご覧いただけるのに。何なら私が入りますが」

 と、怪訝そうに言う。


「尾形部長、いくら教授職と言えども、私も外科医ですからね」

 尾形部長の肩に、軽く手を添えながら言う。


 こんな時でもこの大学病院というのは、駆け引きが横行している。


 手洗いをしている時、常見教授がこう言った。

「石見下君、物凄く懐かしい感じがするよ。君のお姉さんとはよく一緒にオペをしたものだ。それが今は妹の君と、一緒にオペをするようになるとはね。それに田辺君も心強いだろう」


「そんな事ありません常見教授。私はまだまだ駆け出しです。姉には及びません。それに田辺先生には、いつも姉が見守ってくれていますので……」


「見守っている……。そうか」教授はそう呟く


 俺はその会話を黙って聞いていた。


 基本形に折りたためられた、サージカルガウンに手を通す。側近の看護師がガウンの後ろ紐をしっかりと結ぶ。

 マスクを付け、ゴーグルそしてルーペを装着する。


 その後グローブが入った外袋を開け滅菌コートを解き放ち、グローブを手に装着する。この時、グローブの端は、ガウンの袖口に被せるようにしっかりと装着する。


 何度も、いや日常行っているオペ前の準備。

 この準備の時、俺はすでに己との戦いが始まっている。

 オペは患者との戦いではない。そこに待つ病理へ挑む自分との戦いだ。


 弱い自分はこの時、自分の心のメスで切り捨てる。今ある、その戦いに向かう事だけに集中する。


 救命でのオペは、ほとんどが緊急オペとなる。患者の親族にすれば気持ちの余裕などない。


 悠馬君の両親にIC(インフォームドコンセント)を行った時も、両親の動揺は隠しきれない。

 母親の顔色は蒼白そうはくし、表情が瞬く間に消えうせた。意識さえも、別の世界に取り込まれた状態になる。


 そのような状況であってもICは行わなければならない。

 その時親族から受ける、医師のプレッシャーは計り知れないほどのしかかる。


 オペ室に入ると、悠馬君は何事もなかったかのように、術台の上で横たわっている。

 執刀医である俺は定位置に付く。


 麻酔科の医師が「バイタル安定、100-78でサイナス。患者の状態が特質ですが、麻酔は確実に効いています」

「解りました。それでは始めます」


「メス……」



 デジタルタイマーの、カウントが進んでいく……。

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