Broken Heart 壊れた心 EP0

人は恐怖と言うものを体験すると、恐れと言う気持ちが先行してしまい、その向こうにある事実から目を背けようとする。


体験した恐怖は心を支配し、体さえも自由に動かせなくさせてしまう。

そして人は心を閉ざす。


傷ついた心の傷は、どんな腕の起つ外科医であっても、その傷に糸を通すことは出来ない。



心についた傷は……。

その傷を治すのに必要な事は……。




「そっかぁ―」

理都子はため息の様に呟いた。


「姉さんは私には何も残してくれなかった。でもやっぱり、田辺君には姉さん。自分のすべてを残そうとしていたんだ。ほんと、姉さんはすごい人だったんだね」


「ああ……。今思えば俺はまだ、ただのガキだったよ。人を愛すると言う事を、軽く考えていた。そして人の命の尊さというものも……」


「命の尊さ……」理都子が呟く


「どうかしたか?」

「ううん……」

理都子は俺から目をそらす様にビールを一口、口に含んだ。


その少し紅葉したかのような、理都子の顔にまゆみの面影を重ねていた。

やっぱり姉妹なんだなぁ。その表情はまゆみそのものだった。


でも……今の俺は理都子に対し、まゆみの面影を追う事は許されない。

それはまゆみが俺のために、まゆみのすべてを俺のために捧げてくれた、その想いを踏みにじるものだから。


時計の針はすでに、午前1時を指そうとしていた。


「ああ、もうこんな時間。どうしよう、ホテル帰るのもめんどくさくなっちゃった。ねぇ、今晩泊めてくれない?」


「え、まぁ……俺は、いいが、ただ……」

「別にいいじゃない。あなたと二人で夜を過ごすの、初めてじゃないんだから」

「まぁ、確かにそうなんだが」

でもその時はいつも、まゆみの部屋だった。


二人でまゆみの帰りを待っていて、二人ともまゆみからすっぽかされたと言うのは、言いすぎかもしれないが。

「ごめん今晩やっぱり帰れないわ」

と、一本の電話であっけなく俺たちは、彼女の部屋で待ちぼうけを食らう。


そのまま二人で、朝までまゆみの部屋にいる事もよくあった。

でも、不思議と理都子とは何も。……二人の間には感情も欲も現れなかった。

俺に取って理都子の存在はまゆみの妹、ただそれだけしかなかったのだから……。


ただ、理都子本人の気持はどうだったのかまではわからない。


理都子にベッドで休むように勧めたが。

「だって、私の我儘わがままで泊めてもらうのに、ベッド占領しちゃったら悪いでしょ。たまに帰って来た家主が、ソファで休むのも変じゃないの?」


まぁ、遠慮……しての言葉だと思う。


それでも無理やり、理都子を俺のベッドに向かわせた。

「ん、もう……。頑固なところは直ってなかったのね」

呆れるようにしながらも、その微笑む顔を久しぶりに垣間見たような気がした。


理都子はベッドで、そして俺はソファに体を沈めた。


そして俺は思い出した様に理都子に訊く。


「そういえば城環越の事訊きたいって言っていたな」

理都子は少し間をおいて。

「ううん、今日はもういいわ。また今度にする」


「そうか、それにしても院内の事なら、お前の方がよく知っているんじゃないのか? なにせ、お前のいたアメリカの大学とは姉妹校なはずだからな。院内の事なら筒抜けだったろうに?」


「まぁね……でも、聞こえてくるのはあくまでも噂にしかならないし。本当の、今の教授陣の動きとか知っておきたかったの」

「なんだ、教授選にでも出る気なのか?」

「ま、さかぁ」

軽く笑い声をた立てながら俺に返した。


「最も俺はそんな教授選なんか、全く興味はないからなぁ」

「あら、田辺先生は向こうでも結構話題に上がるわよ」

「なんだか途轍もなく嫌味な噂なんだろうな。俺にとって……」


「さぁ、どうでしょうね」


ことりと、ベッドのサイドテーブルに何かを置く音がした。


「この写真……。姉さんが亡くなるちょっと前だったわよね……」

サイドテーブルに置かれているフォトフレーム。

そこには俺とまゆみ、そして理都子の3人が映っている写真が入っている。


「ああ、そうだな」


あの時、まゆみがいきなり「3人で写真を撮ろう」と言いだして無理やり撮った写真だった。


その数日後、まゆみは緊急搬送されてきた。

まるでもう時期自分の命が絶えることを、予感していたかのように、その姿を3人で残しておきたかったかのように、その写真は残された。


理都子はその写真を眺めていたのだろう。しばらくして呟く様に。


「楽しかったなぁ、あの頃」

そして、かすれたような声で……。



「でも……私は、辛かった……」




と聞こえた様に思える……。

すでに俺は睡魔の餌食となっていた。


カーテン越しに差し込んだ朝日を目にした時、理都子の姿はこの部屋から消えていた。

テーブルに一つのメモを残して……




「Again, my feelings.And promises…(再び、想いを。そして約束を…)」




その時、理都子の残したこのメモの本当の意味を。




俺はまだ……知らなかった。






◇Broken Heart 壊れた心




「おはよう、田辺先生。間に合ったみたいね」


時間ギリギリにカンファ室に入ると、俺のとなりで理都子が小声で言った。


その素振りは何も変わらない。いやスタッフたちの前にしては、かなり和らいだものだろう。

それとなく「ああ」とだけ返事をした。


「それではまだ眠そうなお顔の、田辺先生もいらっしゃいましたので、カンファレンスを行ないます」


少し嫌味の様に? いやまさしく嫌味だろう。今日は珍しく、ER執務部長の尾形部長が取りまとめていた。

「おや、私が先頭きると何か変ですか? 田辺先生」

「いえ、なんでもありません」

部長が俺をなじるのはいつもの事だ。


気にしたらこっちの身が持たん!


もっとも部長も、ただのお遊びで俺をおちょくっているにすぎないのを知っているからこそ、何も言わないだけだ。



「三日前に搬送された「白井由紀子」さん、今朝意識を回復されました」


「白井由紀子?」誰だったか?


理都子がそっと言う

「屋上の自殺少女」


「白井さん奇跡的に脳への障害は無いようです。瞳孔反射及び、痛み刺激反応もあります。まだ、話す事は出来ないようですが、言語障害等検査も安定しましたら開始してください。それと白井さんの主治医は石見下先生に担当してもらいます」


部長は理都子の方に目線を投げかけるように言う。

「はい、解りました」理都子はそつなく返事をする。


「それと今日は常見教授の巡廻日です。くれぐれも落ち度のないように!!」

付け加えるように、そしてその事を強調するがの様に言うところが尾形部長らしい。


その後一通りのカンファレンスが終わり、各自担当の患者へと散会し始めた時、尾形部長が俺を呼び止めた。



「あ、田辺先生、常見教授が時間とれましたら来るようにと、言付かっていますけど、何かやらかしましたか?」

「いや、思い当たることはないんですけど……何でしょうか? 手が空きましたらお伺いいたしますとお伝えください」


「ええ、解りました。でも、一体何でしょうねぇ」

相変わらず軽いノリで俺に返す。


尾形部長と常見外科総括教授とは、あまりそりがいい方とは言えない。

むしろ尾形部長は、自分の論文の成果を盾に、常見教授のポストを狙っている。


最も今この城環越の外科医局が持っているのは、常見教授の力加減によるものだ。

これが尾形部長であるなら、即座に崩壊するまではいかないが、今の統制は崩れることは間違いないだろう。


そんな時、エマージェンシーコールが鳴り響いた。


「こちら北部レスキュー。50代女性駅構内で、階段を踏み外し転落。右側頭部外傷、左上腕及び鎖骨骨折の恐れあり。JCS300申請、心拍90サチュレーション低下、自発呼吸無し、先程挿管いたしました。城環越救命救急センターへの受け入れを要請いたします」


「こちら城環越救命センター。了解いたしました、受け入れます。後何分くらいでこちらに到着しますか?」

「朝の道路状況にもよりますが、10分ほどでそちらに搬入できると思います」

「了解しました」


フェローの植田がボードに状況を書きつたえる。


「よーし、受け入れ準備だ。まずエコーと輸液の準備急いで」

救命医の笹西が戦闘モードに切り替わる。それと同時に側近のナースが慌ただしく動き始めた。


そしてまたコールが鳴り響いた。


「北部レスキューです。先程の搬送車の他、2名受け入れお願いいたします。共に小学生低学年と思われる男女各1名。男子腹部に何か矢のようなものが刺さっている状態。前頭部に打撃痕あり、JCS100、心拍110、自発呼吸あり」


「女子、JCS300申請、自発呼吸無し、今挿管準備に入っています。バイタル90……。50代女性が転倒した階段で、一部将棋倒しの様な状態になった模様」


フェロー植田が辺りを見渡し確認を取る。

「受け入れましょう」その横にいた尾形部長が発した。


それを聞き取り、植田はレスキューに。

「こちらで受け入れます」

「了解いたしました。まもなく搬送移動いたします」


「今日は朝から3名か。こりゃ常見教授の巡廻どころじゃないな」

「ああ、仕方ないさ。巡廻は一般外科の連中に任せておこう」

「そうだな」

受け入れ準備をしながら、俺と笹西が呟いていると。



「私の巡廻など、気にする必要はいりませんよ」

処置室に声と共に、常見教授が入って来た。


「私も入ります。先生方は受け入れを」

「はい!」

常見教授は白衣を脱ぎ捨て、そのがっちりとした体にガウンを羽織った。


まもなく、救急車のサイレンが、けたたましく鳴り響いてくるのが聴こえて来た。

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