心の創傷
理都子とは同期だったが、まゆみは俺らより5歳上。少し年の離れた恋人だった。
だが、彼女からは、そんな年の差を感じさせる雰囲気は、何も感じさせなかった。
優しくそして明るく、誰とでも分け隔てなく、話をする気さくな性格。
おまけに学内上位クラスの美人才女だった。
もちろん学内での人気は高く、教授からも一目置かれていた存在であるのは、言うまでもない。
そしてその姉を追うかのように、理都子もまた学内においては成績上位の才女だった。
だが彼女は姉とは違い、あまり人とは関わらないタイプの女性だった。
そう理都子は常に姉の後を追い、いつか姉のまゆみを超す事が目標であり。……はっきりとは感じていたわけではないが、何かしら、姉のまゆみに対し、敵意? とでもいうのだろうか。そんな感情を垣間見ることもったのは事実だ。
「意外といい所に住んでいたのね」
「意外は余計じゃないのか。ただ広いだけで、なにもない部屋だ」
「それでも男所帯にしては片付いているわよ。変だなぁ。やっぱり女囲んでいるんでしょう!」
「だといいんだけどな」
苦笑いをしながら。
「ただ帰っていないだけだ。散らかりようがないだろう」
そんな事を言いながらふと理都子の顔を見ると、学生時代の頃を思い出してしまった。
思わず。
「そう言えば、学生の頃よく俺のアパートにも来ていたよな」
「そうそう、あのおんぼろアパート。エアコンも無くて、窓開けると蚊が入ってきて大変だった。良くあんなところに住んでいられたわよね」
理都子は懐かしそうに言う。
「何もそこまで言わなくてもいいだろ。あの頃は寝泊りが出来れば、それでよかったんだからな。……ビールでいいだろ」
「ええ、ありがとう」
彼女にビールを渡し、プルタブを開け、ごくりとビールをのどに流し込む。
やはりその様は、おやじ化している。
さて、この後の会話が頭に浮かんで来ない。
理都子は城環越の事を知りたいといい、この俺の部屋に来た。
このまま、今の会話を流していれば、必ずまゆみの事に触れなければいけなくなる。
出来れば俺はまゆみの話題から逃れたい。
このまま昔の話はしたくはない……。だがそれは避けられない事なのかもしれない。
無理にでも話題を変えたかった。
「あの硬膜下血腫の子、助かって良かったな」
理都子はふと顔を上げ。
「まだ予断は許さないわよ。意識が戻らなければ、それは植物状態を意味しているわ。例え意識が戻ったにせよ、あの子にはこれから重度の障害が一生のしかかる」
彼女は曇った表情で言う。
「もう野球をする事は……出来ないわ」
「……そうか」
しばらくの間二人は黙り込んだ。ガランとした空間を包み込む空気。
理都子をここに連れて来たのは、失敗だったのか……。
そんな重い空気を破ったのは、理都子からだった。
「どうしてあなたは城環越に移籍したの?」
理都子がその空気を切り裂く様に言う。
俺が北部医科大学病院から、城環越医科大学病院に移籍した理由。
それは……。
やはり、彼女からまゆみを離す事は出来ない様だ。
俺が城環越に移籍した理由。
それは、まゆみを失ったからだ。
理由はただそれだけだ。
俺にとってまゆみの存在は、俺の鏡のような存在。そして俺にないものを求られた存在だった。
総合外科医の道を歩むと決めたその時、まゆみが俺に向かって一言言った。
「貴方は外科医には向かない。まして救命なんて尚の他。優しすぎる貴方の心では絶対に、この孤独感とプレッシャーには勝てない」と。
外科医は常に、その結果が患者の人生を変貌させてしまう。
たとえ助かる命であっても、そのタイミングや状況下において大きく変わってしまう。
俺は今までその生きるチャンスを逃した人々を、この眼の前で見送ってきた。
俺のこの手の中で、その命の炎が燃え尽きるのを見て、この手で感じ、体験してきた。
そのたびに思う。
何故、救えなかったのかと……。
フェロー時代は、どんなオペにも率先して加わった。一つでも多くの症例を実体験し、この俺の手に沁み込めせ、経験をつぎ込んだ。
そしていつも俺の前には、まゆみのその姿があった。
「消さなければいけない命なんてどこにもない」
まゆみの口癖。
彼女はいつも俺に向かって言う。
「どんな状況下にあっても、その命を消すわけにはいかない。例え絶望の淵にあっても、私はその命の炎をまた燃え上がらせたい」
『いいえそれが私の想い』
彼女のメスさばき、術技は華麗としか言いようがなかった。
何度となくまゆみとオペを行った。少しでも近づきたい。それがその時の俺の本音だった。
むろん理都子も同じ思いでいたはずだ。彼女もまた姉のまゆみの術技を見て、実践してその手に体に叩き込んでいた。
例え専攻する診療科目が違っていたにせよ、いく先は同じ外科医であるのだから……。
だがそのまゆみ自身の心と体が、実は崩壊しつつあるのを。……この俺は気が付いてやる事させ出来なかったのだ。
俺は正直に俺が城環越に移籍した想いを言った。
「俺は、北部にいた頃、まゆみのあの姿にあこがれていた。医師として外科医としてのあのまゆみの姿に。でも、俺は恋人でもある、まゆみの本当の姿を見ることが出来ていなかった。愛する人の本当の姿を俺は見えていなかったんだ」
それに気が付いたのは、……まゆみの葬式が済んで。もうまゆみはこの俺にほほ笑んでくれることは’ない’ということを、自覚しながらも、受け入れるのを拒絶していたころだ。
理都子は下を俯きながら俺の話しを訊いていた、両手をしっかりと抑えながら……。
俺はまゆみの葬式が済んでから、俺の中の何かが崩れていた。
今まで目標としていたまゆみの姿は、もうこの病院にいはない。
いや、もうこの世には存在しない。ただの思い出と言う心の中の残像だけが、いつも俺の心中をさまよっていた。
「そうね、あの時のあなたは、もうすべてを失ったかのように、ただその存在だけが浮遊しているような状態だったもの」
理都子が静かに言う。
「そんな時だった。救急搬送されてきた女性、交通事故だった。大動脈破裂、開胸したとたん、体内から血があふれ出て来た」
それまでの俺は、まゆみを失う前の俺には自信があった。
どんな症例もこなしてやれる。
いや、やれると言う自信に満ちていた。
まゆみに「あなたは外科医には向いていない」と言われたあの言葉を。頭の中からそぎ取るように。
そのぎらついた野心だけが、俺を支えていたのかもしれない。あの時は。
搬送された女性の側胸部を開き、出血した血液を吸引し、出血部を特定したのち側近の血管をクランプ。
だが出血は止まらなかった。
俺のほか指導医も、その時立ち会っていた。
急激に血圧は低下し、心拍は微弱になっていった。
俺はすぐさま心臓に手を添え、心臓マッサージをした。
その間、指導医は出血部を探そうとしたが。
……手を止めた。
――――そして。
「田辺、もういい」と一言だけ言って、術台から離れて行った。
「どうしてですか? まだ可能性があるじゃないですか。戻ってきてください」
心マを続けながら俺は、指導医に怒鳴り込んだ。だが、その指導医から帰って来た言葉は、たった一言の言葉は。
「もう無駄だ、無駄な事はしなくてもいい」
それっきり術衣を脱ぎ処置室を出た。
もう、俺の手も止まっていた。
まだ温かい血液にまみれた心臓から、俺は手を離した。
その時、もし、まゆみがいたら、まゆみだったら助けられたかもしれない。いや、まゆみは諦めなかっただろう。
まゆみだったら……。
そんな言葉だけが、その時俺の頭の中を駆け巡っていた。
そして、その時初めて、もうここには。……まゆみはいないんだと知った。
目の前に寝ている、その女性を目にしたとき。救えなかった自分に憤りを覚えながら、まゆみが搬送されてきた時の情景がよみがえってきた。
あの時緊急搬送された。
赤い血にまみれた……。まゆみの姿を……。
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