笑顔にさよならを。
あの時緊急搬送された。赤い血にまみれた……。まゆみの姿を……。
医者はなんのために医者であるのだろうか。
俺が医者になろうと思い、医学部を目指したあの頃の想いと、今外科医としてメスを振るう俺の想いは、同じものとは言えない。
医師になろうとして、この世界に入る切っ掛けは様々だ。
一種のステータスとして医師を目指す者。
親が医者、医療関係の環境からそれを目指す者。
自らが命を救われ、医療と言う道を目指した者。
そして、自分の愛する者の命が、目の前で消え去ったのを
俺は……。
俺は幼いころから母親と二人暮らしだった。父親の存在は知らない。
母は女手一つで、この俺を高校2年まで育ててくれた。
相当な苦労をしていたことは、幼かった俺にも感じていた。
俺も出来ることはやった。
母の負担を少しでも軽くしてあげたい。そんな思いからだ。
苦しい母子家庭の生活。それでも俺と母親はお互い笑顔を絶やさなかった。
どんなに辛い時でも、悲しい顔をすれば悲しみだけが、自分たちを襲う事を知っていたからだ。
幸せだったと思う。
高校時代、学校にバイト、そして家事。それでも俺は幸せだった。
お袋のあの、笑顔を見る事が唯一、俺の幸せだったのだから……。
高校2年に進級してまもなく、お袋は激しい痛みを訴えながら朝倒れた。
救急車で搬送された病院で告げられた言葉、それは……。
「余命あと半年」
一瞬その意味を理解することが出来なかった。
「余命」、「半年」この医者は何を言っているのだろう。頭の中が混乱しすぎて、すべての思考が停止したような状態になる。
頭の中が真っ白になるとは、この事を言うのかもしれない。
「膵臓癌」そう医師から告げられた。
かなり前から進行していたそうだ。症状が出る頃には手遅れになる事がほとんどの癌。
お袋もすでに膵臓から肝臓、リンパ節に転移をしていた。
「もうここまで進行されていると、手術を行なっても体に負担を与えるだけです。まずは痛みを和らげる治療と、進行を少しでも抑えるために、抗がん剤の投与を行なっていくしかありません」
淡々と説明する医師。もう手の施しようがないと言う事を、難しい用語を使い遠回しに唯一の肉親である俺に説明した。
それでも俺は現実を受け入れるしかなかった。
お袋がもうじき……。死ぬということを。
「ご本人にはこのことはどうなされます?」そう聞かれたが、俺は出来れば言わないでもらいたいと、その医師に言った。
しかし、お袋はすでに自分の寿命があと、往く実、長くない事を覚っていたようだ。
病室に行くと、あれだけ苦しがっていたあの姿はもうどこにもない。いつもの笑顔のお袋がベットに寝ていた。
「ごめんね。心配かけちゃって」
相変わらずにこやかに茶目っ気たっぷりに言う。
そんな姿を見ているとさっき言われたことが嘘のように思えた。
「先生、なんて言ってた」
その時一瞬言葉に詰まった。なんて応えようかと……。
「働きすぎだってよ」とっさに出た返事。
お袋は病室の白い天井を遠目で見ながら。
「そっかぁ」と呟いた。
そしてまた……。「ごめんね」と一言いった。
その時、お袋の目に涙が溜まっていたのを、俺は見て見ぬふりをした。
お袋の癌は医者が予想していたよりも、はるかに進行が速かった。既に癌はほとんどの臓器に転移し、抗がん剤の投与も本人が苦痛を訴えたため中止した。
抗がん剤を止めたせいかもしれないが、お袋は少し元気になったように、前ほどではないが微笑むようになった。
「ねぇこうちゃん。一度お家に帰りたい」
もう夏になりかけてた頃、お袋が俺に言う。
外泊の許可を取りたいと担当医に相談すると。
「いいでしょう。ですが多分、これが最後になります」と告げられた。
久しぶりに家に戻り、お袋の表情は病院にいた時よりも柔らかく、そしてあの笑顔がまた戻ってきたように思えた。
癌なんかどこにもないかのように……。
俺もひと時、前の様に優しく微笑む、あのお袋の姿を眺める事が出来た。
ほんのひと時だったが……。
自宅に帰って3日目。
「買い物にちょっと行ってくるけど、何か欲しいものある」とソファーに座り、青空を静かに眺めていたお袋に訊いた。
「ううん。今は何もいらない」
「そっかぁ、それじゃちょっと行ってくる」
「うん、気つけて……それと、ありがとう」
そう言って今までで。
一番の笑顔を見せてくれた。
俺が買い物から帰ると。
お袋はソファーに沈み込む様に、静かに息を引き取っていた。
その下には大量の鎮痛剤と睡眠薬の殻が散らばっていた。
その後、俺はお袋の両親に引き取られる。
俺に残されたのは。
あの、お袋の最後の。……笑顔だけだった。
「命を粗末にする人って許せないんでしょ……未だに」
理都子が言ったあの言葉、それはお袋に向けた言葉ではない。
あと残り少ない命を自ら絶ったお袋。
最後まで、自分の最後までその命を使い切る事をせずにこの世を去った。
多分それはお袋が、俺のためにした行動だったのかもしれない。
あの笑顔を俺に見せられるうちに、最後に『最高の笑顔』を俺に見せるために。
そして、その笑顔を……俺に残せるように……と。
そうあの言葉は俺に向けた言葉。
限りある命を粗末に使う事を、俺は許してはいけないんだと。
そして俺は、医療の道を歩みだした。
赤い血にまみれた、まゆみの姿。その姿を目にした俺は、搬送されたその患者の名を告げられても、まゆみであることを否定した。
「そんな、こんなことになる訳がない」
しかし、そこに横たわる顔は、まゆみ以外考えられなかった。
あの微笑む笑顔のまゆみの顔が、その血だらけの顔に映し出される。
似ていたんだ……お袋のあの笑顔に。
似ていた。まるであの笑顔で微笑む、お袋が目の前に現れたかの様だった。
初めてまゆみと出会った時、俺の心臓は一瞬止まりかけたのを覚えている。
ライン取れました。血圧低下、モニターの波形が不規則になる。
ピロロロッ、ピロロロッ。いつも聞きなれた音が、今日はやけに耳につんざく。
まゆみの体にブローブをあてがい走らせる。
「開胸する」上位の指導医がメスを握る。
まゆみのその皮膚を裂き、メスが入り込む。
大量の鮮血があふれ出した。血は術台に広がり床へと流れ落ちる。
ブラディー……。
除細動の準備を……! パドルがまゆみの心臓に装着される。
チャージ完了。
離れて! ……ピピピピと、心電モニターが鳴り響く。
パドルをまゆみの胸部にしっかりと押し当てる。
『ドカンっ!』と一瞬まゆみの体が跳ね上がる。
だが、波形は戻らない。
出血個所をクランプする。一か所二か所、三か所。それでも出血は止まらなかった。
時間だけが悪戯の様に過ぎ去っていく。
1秒、2秒、3秒……1分がまるで秒単位よりも短く感じる。
俺は必死にまゆみの心臓に触れ、手を動かし心マを続ける。
術野を広げるため再度まゆみの体にメスが入る。
「まゆみ、まゆみ……」何度も何度もまゆみと呼びかけた。
諦めない、諦めたらだめだ。諦めたら……もう、二度とあのまゆみの微笑む顔を見る事が出来なくなる。
そんなのは……もう嫌だ。
俺の前からもう二度とあの微笑みを、消したくない。
「ねぇねぇ、光一覚えてる?」
「なにを?」
「あなたが私に初めて、声をかけた時の事。光一私になんて言ったか覚えてる?」
「さぁー覚えてないなぁ」
「あーあ、しらばくれちゃって。私ちゃんと覚えているんだから……。『お袋』って言ったのよ」
輸血追加……。いくつものクランプが、まゆみの体の中に突き刺さったように、そそり立つ。
出血が止まらない。
「光一、あなたは外科医には向いていない」
「どうして?」
「光一は優しすぎるんだもの」
「俺はマザコンの甘ちゃんとでもいうのか……?」
「ううん、そうじゃない。あなたは本当は物凄く強い人。私なんか太刀打ちできないほど強い人。だからあなたは人に優しく出来る。人の痛みを分かりあえる。お母さんが最後にあなたに残した笑顔。あなたはその笑顔をいつも求めている。それはあなたの消せない想い、そしてそれはあなたの願い。だから……あなたは、光一は人の死を受け入れることが出来ない人。医者は、外科医は常に人の死の瀬戸際に接する。失くしていい命なんて一つもない。でも……医者は、外科医は人の命の先を見分けなければいけない。それは人の死と言う事を、受け入れなければならない事だから……」
「先生……」
その声と共に指導医の手は止まった。
「まゆみ、まゆみ、まゆみ――――まゆみぃ!!」
「田辺、田辺……もう、いい。残念だが」
「いや、まだ望みはある。まだまゆみは助かる。まだこんなに温かいじゃないですか」
手がひきつる。それでも手を止めることは出来ない……止めたくなかった。
「田辺、もうやめろ」指導医が怒鳴り声をあげる。そして俺の手を掴み
「石見下君を楽にさせてあげなさい」
そっとつぶやく様に言った。
その声と共に俺の手は。
まゆみの心臓から離れた。
それは、まゆみの死を認めた事だった。
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