長い一日 EP2

 直ちにオペをしなければこの患者は死ぬ。


 刻々とその状態を変化させる症状。

 今がよくともその後は……。


 医療において絶対と言う言葉は不釣り合いだ。

 絶対に大丈夫と言うのは、その場しのぎの言葉でしかない。いや、その言葉は確実なる確証がなければ使ってはいけない言葉だ。


 だが、時にその言葉は病む心を前向きにさせ、新たなる一歩を踏み出す勇気を与える言葉となる場合もある。


 死の淵をさまようその命の炎を呼び戻す。

 例えその炎が風前の灯とかしても、絶対に最後まであきらめない。


 いや、俺は、我々はその気持ちを絶対に、絶やしてはいけないのだから。





 「肝静脈からの出血の疑いがある」


 直ちにオペをしなければこの患者は死ぬ。

 その状況を見ながらレジデントの岡中亜依子おかなかあいこは涙しながら。


 「ほんのさっきまで、普通に話していたんですよ……本当に」

 そっとナースの仁科が岡中の肩にに手をやる。


 「これが現場と言うものなの……それにまだ事故現場よりはいいわよ。事故現場は想像を絶する光景を目にしないといけないから……」

 仁科も以前、北部で現場に赴くデリバリースタッフの一員だったことがある。

 彼女もその現場と言う修羅場を何度も経験していた。


 あの少年のCT画像が送られてきた。

 石見下はその画像を食い入るように考査する。


 「やはり……」彼女が一言漏らす。

 「脳の中央部。右脳と、左脳の間にある脳腫が破裂しているわ。そこにも血腫が確認される。今すぐオペをしなければこの少年も助からないわ」


 「オペ室の状況は」


 石見下が看護師に問いかける。

 問い合わせをした看護師が少し顔を曇らせながら。


 「現在すべてのオペ室は使用中だそうです」と返した。

 「万事休すか……」

 ため息をつく様に俺が言うと「諦めない……」石見下の体が動いた。


 「ハイブリッドオペ室あとどれくらいで使用できるか確認してください。それと出来るだけの冷却材を準備して」


 石見下が看護師に次々と指示を出す。


 思わず俺は「理都子りつこ」何をする気だと、彼女の名を呼んでいた。


 「私はあきらめない。まだ可能性が残っているのなら……、ほんの数パーセントでも可能性が残っているのなら、私はそれに全力を尽くしたい」


 俺の押し込まれた記憶がよみがえる。

 あの時、まゆみが搬送されてきたとき……、俺が言った言葉。

 それを彼女は今俺の前で言った。

 

 死の淵にいたまゆみを、もう一度俺の前に戻すために。

 

 俺は俺の持てるすべてをつぎ込んだ。


 もう一度あの笑顔を俺の前に戻すために……。


 「理都子、そっちは頼む。俺は……」

 俺は今絶えようとしているこの命をまたこの世に取り戻す。


 そのために俺は俺のすべてを向かわせる。そう、それが俺自身であるから……。


 「ここで開腹する」

「えっ、ここでって。ストレッチャーの上ですよそれに廊下ですよ」

「ああ、そんなことわかっている。めそめそしている暇があるなら、しっかりと手伝え岡中!」

 岡中にカツを投じるように言い放つと。

 彼女の顔はようやく、戦闘モードの表情に戻った。


「――――メス」


 本日高速道での事故で搬送された重傷者数。7名。

 中度負傷者数。12名

 内、死亡確認……2名。


 2名の命を救いだすことが出来なかった。



 長い一日が終わった。


 もうすでに陽は落ち、外の空気は少し冷たさを感じさせた。

 今日は帰ろう。帰る家がないわけでもないのだから。


 ただ俺を待つ人は誰もいない。ただの空間と言う部屋に過ぎないのだが……。

 医師専用の駐車場へ向かおうと足を向けると、その先に彼女、理都子の姿を目にした。


 そのまま彼女を見過ごし車に向かおうとしたが、なぜか勝手に声が出ていた。


 「理都子」


 その声に彼女が足を止めふっと後ろを振り向く。

 その瞬間、彼女の顔とまゆみのあの面影が双幅する。


 思わず胸が締め付けられるような感情が、沸きだすのを感じた。

 「田辺君?」

 勤務中とは違うやわらかな表情が、尚も俺の感覚をまたあの頃に引きずり込ませる。

 そう、まゆみがまだ俺に、あの微笑む笑顔を見せていたころの時間に……。


 なんの悪戯だ。


 何故、理都子は俺の前に姿を現したんだ。「ただの偶然」と彼女はそう言った。それが本当ならば、まゆみが俺たちを引き合わせたとでもいうのか。


 もう二度と俺の前にその姿を、もう二度と触れる事の出来ないその体を、また俺の前に戻す為に、まゆみは彼女をこの俺の前に連れ出したとでも言うのか?

 

 そんな事は無いだろう。


 理都子はまゆみの妹だ。


 そう妹なのだから……。



 「田辺君、田辺君」

 彼女が呼ぶ声に我に返った。


 「どうしたのよ。かなり疲れてる?」

 「いや、なんでもない。今帰りか」


 「ええ、田辺君こそ、今日は自分の家に帰るみたいね」

 「まぁな。たまには帰らんとな。待つ人は誰もいないが……」


 「……そっか。もう誰かいい人でもいるのかと思ってた」

 「そんな奇特な人がいる訳ないだろう。こんな自己中馬鹿につく女なんて」


 「ふふふ、確かに言えてるかも。でもそれを言ったら私も同じよ」

 「まったくだ」


 今日の彼女の事を思えば、並大抵の男ではこの女を操る事は難しいだろう。

 「送るよ」

 その言葉に彼女は少し躊躇した。


 俺は、彼女は実家から通っているものだと思っていったのだが。

 彼女の実家はここから少し離れた土地にある。電車を使っても有に1時間はかかる場所だ。


 だが理都子は言う「実家には戻っていない」と。今はまだホテルに宿泊していると言った。

 「そうか、近いのかホテルまでは」

 「ええ、そんなに遠くはないわ」

 ならば、無理に誘う事は無いだろう。駐車場に足を向けようとした時。


 「田辺君。……もし、良かったら食事、一緒に出来ないかな」


 少し俯き斜めを向きながら言うその姿。

 変わっていない。あの頃と何ら変わっていなかった。


 理都子が俺に何かを頼む時必ず彼女は俯き顔をそらしながら言う。


 俺はその姿にふっと懐かしを感じながら

 「居酒屋でもいいか?」

 「ええ、十分よ」と少し照れながら彼女は返した。


 石見下理都子いわみしたりつこ、彼女とこうして二人だけで飲みに来るのは初めてのことかもしれない。


 以前まゆみがいた頃は、3人で良く飲みに行ったものだった。

 3人とも忙しさの合間を縫って、3人そろって歩んでいたころだ。


 いつも遅刻するのはまゆみだった。


 そしてそれに文句を言うのが理都子の役目で、その理都子とまゆみの間で俺が仲裁に入る。そんないつもの他愛もない、それが俺たちの日常だった。


 でも……まゆみがいなくなり、その他愛もない日常が、今は遠い過去としてこの俺の記憶の奥深くに眠っている。


 3年ぶりの日本、理都子にとってアメリカにいる間、日本での時間が止まっていたかのようだ。

 居酒屋のこの雰囲気を、本当に懐かしむような表情が、理都子からにじみ出ていた。


 お決まりのような流れでビールを二つ注文し、ジョッキを持ち「再開を祝して」と、ガラでもないことを口にした自分に、少し照れながらジョッキを鳴らした。


 すぐさま理都子はごくごくとのどを鳴らすがごとく、ビールを流し込んでいく。あっと言いう間にからになるジョッキ。


「あうぅぅぅ!! この刺激。ああ、ようやく日本に帰ってきたんだっていう感じがする」

 上唇の少し上の方に、うっすらとビールの泡をつけながら、ニコッと笑いながらそんなことを言う。


 時の流れと言うのは人の容姿ならず、その中身も変えていたようだ。

「理都子」

「なぁニ、田辺くぅん?」


「――――お前、しばらく見ないうちにおやじ化したなぁ」

「な、なんてこと言うの!! 全く失礼しちゃう。これも私まだうら若き……」

「うら若き?」じっと彼女の顔を見つめると。


 理都子は恥ずかしそうに。

「な、何でもないわよ!」とむっとした顔して俺をにらんだ。


 なんか本当に懐かしい。


「なんか私を見て楽しんでいるでしょ」

「うん、楽しんでいるよ。悪いか?」


「馬鹿!」

 うっすらと顔を桜色に染めながら、俯き一言俺に向けて言うその言葉。

 その時醸し出す彼女の根の部分は、何も変わっていないようだ。


 そして、なんとなく愚痴るような口調で。


 「日本の医療って、やっぱり方向性がアメリカとは違うのね。つくづく今日の事で感じたわ」


 「んー、そうなのか? 俺からしてみれば、比較する対象が狭いからなぁ。それに大学病院と言う、まぁいわば異世界的なところもある世界にいるから、あんまり実感はないな。それにやれ、論文だの、レポートだの、症例がどうだの、そんな事だけが重要視されるところは認めるけどな」


 「そうね、田辺君って昔っからレポートとかだすのめんどくがっていたしね」

 「ははは、そうだっけか」


 「そうよ、姉さんにいつも頼んでいたじゃない」

 「……」

 少し返事に困った。


 「ご、ごめんなさい。また思い出させちゃって」

 「いや、いい……」


 煙草を一本取り出し火を点けた。


 そんな俺をほろ酔い気分の理都子の眼差しが、遠くを眺めるように感じさせ。理都子が「私にも一本くれる?」と言い、テーブルに置いていたシガレットケースから一本取り出し火を点ける。


 前は煙草は吸わなかったんだが。それも俺とまゆみが吸い始めると臭いだのと文句ばかり言っていたはずだったが……。


 反喫煙派のあの理都子が……。


 「いつから吸い出したんだ」

 「さぁ、解らない。気が付いたら吸っていたわ」

 そう言いながら静かに白い煙をゆっくりと吐き出す。まるでまゆみの吸い方と同じように。


 「ねぇ、場所変えない」

 「ああ、いいが落ち着かなかったか?」


 「ううん、ここじゃ仕事の話できないでしょ。出来れば城環越の事教えてほしいの」 


 「ふう、構わないが、外だとあまり話が出来ないな。大学の事となると」

 「それならあなたのマンションでいいわ。別に仕事の話をするだけなら何もないでしょ」


 何も表情を変えずに理都子は言った。


 まるで裏も表も何もないと言っているかのように。

 

 だが理都子すでに、少しづつ俺の心にメスを入れ始めていた。



 そして俺は無意識のうちに……。


 それを感じ取っていた。

 

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