香月邸の日常
1942年夏。欧州ではドイツ軍がソ連の油田地帯攻略作戦であるブラウ作戦を史実以上に成功させながらもソ連軍の徹底した焦土作戦によって燃料補給が出来ない状況に追い込まれていた頃。
日本国内では日ソ戦争で門戸が開かれた沿海州、特に約80年ぶりに海参崴という
名に戻ったウラジオストクに始まる沿海州でも都市部に対する投資が過熱していた。
(軽いバブル状態だな……)
傾斜をつけた状態の電動ベッドの上で地価や株価などの推移を見ながら壱心は内心で呟く。海参崴(ウラジオストク)におけるあらゆる価格の高騰の要因としては経済大国となった日本とのソ連、中国との新たな経済の交流地点を開発するという熱量によるものが大きい。
しかし、その開発熱以上にあらゆる価格が上昇している理由として日ソ戦終了後、ドイツがソ連の首都であるモスクワ攻略に一度失敗した昨年末より始まったアメリカからソ連へのレンドリースがあった。現在、レンドリースの半分以上が太平洋ルートで輸送されているのだ。具体的なレンドリースの輸送ルートとしてはアメリカ西海岸よりシベリア鉄道のあるソ連極東部、つまり海参崴(ウラジオストク)に海運で物資を運び、その後鉄道にて独ソ戦が繰り広げられている前線へと物資が運ばれるという流れになっている。
その流通には当然、新しく海参崴(ウラジオストク)を併合した日中が絡むことになっており、それらへ事業参入をすることで現地は大変な盛り上がりを見せていた。
(これだけ儲かると色々と言ってくるだろうな……)
手数料やなんやかんやで一部を買い叩いたりして巨額の利益を得ている状況。取り敢えず現時点では沿海州における戦後の混乱や復興の名の下に見逃されている感じはするがあまりやり過ぎても問題だ。香月組としても投資はするがあくどいことをするつもりはない。混乱が収まれば真っ当な商売をやらせてもらうつもりだ。
壱心がそんな所感を抱きながら鉄心が書いた香月組の内部文書を見ていると美咲が新たな書類を運んできた。壱心は手元の書類を置くと新たな書類を拾い上げる。
(うん? 国としての沿海州に対する動きか……取り敢えず、国内の入植希望者には優遇措置を実施するとして、北京政府と韓国からの入植希望者はどうするか。ついでに日ソ戦で数十万人に膨れ上がった
タイトルだけ読んで自分の考えを一気に浮上させる壱心。新たに運ばれてきた書類の内容も壱心の考えに沿うものだった。
「くく……」
「あら、面白いことでもありましたか?」
壱心が書類の内容に満足して思わず笑みを漏らしているとベッドの横に座っていたリリアンが笑みの理由を尋ねて来た。壱心は彼女の問いに応じる。
「あぁ、俺が思っていたことがそのまま書いてあってな……正しく引き継ぎが出来ているようで嬉しくなった」
「それはよかったですね」
「ふむ、気分もいいことだ。少し歩きたい」
「では、お供致します」
医療用電動ベッドをケーブル付きのリモコンで動かして起き上がりやすい体勢まで動かした壱心は美咲に軽く支えられて立ち上がった後、リリアンから杖を受け取る。
「少し家の中を見て回ろう。あぁ、伝達はしなくていい。皆の邪魔になるだろうし、何より自然体を見たい」
「それじゃあ普通に仕事をしている子たちが驚きますよ」
「自分の家の中なんだ。別にいいだろう? 好きに歩かせろ」
「はいはい……」
老夫婦となった二人のやり取りを見て美咲は内線を使わずに二人について行くことにする。杖を使って
「……ふむ。あまり見ない者たちが増えたな」
「いつも顔を出すところにはいつもの顔ぶれが居ますよ」
リリアンの言葉に壱心は少しだけ悩む。いつもの面子に元気な姿を見せるか、それともたまにはいつもと違うことをするか。その悩みはリリアンの一言で片付いた。
「あまり若い人の仕事を邪魔しない方がいいですよ。あなたに畏まっていつもの仕事が出来ないようでは可哀想です」
「それもそうだな……」
リリアンの言葉に納得して壱心は気まぐれな散歩をいつもの面々がいる場所を回るだけに留めることに決めた。
「ここから近いのは……亜美か。部屋にいるか?」
「在宅の予定ですが……どこにいるかまでは分かりかねます」
「確か宇美さんが遊びに行ってるはずですので部屋に居るかと」
壱心の問いに美咲が答えた後、リリアンが補足する。壱心の向かう先が決まった。二人を伴って亜美の部屋に移動すると美咲が先んじて亜美から入室許可を得て壱心を先導する。中では来客用の椅子に座っていた宇美が執務用の椅子に座って作業をしている亜美にあしらわれていた。
「あ、壱心様、聞いてください。亜美さんが素っ気ないんですよ」
「壱心様、宇美の戯言は無視していいです。【
「そうか……宇美、重大機密事項だ。諦めろ」
「うぅ……水に映るっていう綺麗な青白い光、壱心様と見たかったなぁ」
(【
無知とは恐ろしいが、この時代の科学者でもない人物がよく知らない難しい計画の内容を聞かされてもそんな反応だろう。壱心にとっては一緒に見に行こうと言われても断りたくなるような話だった。そんな会話の内容はさておき、昔と変わらぬ光景に口元が緩む。
孫に怒られる祖母のような図だが、実際は孫の姿をした方が年上だ。流石に二十代後半に差し掛かろうとする成人女性の姿になった亜美だが、壱心やリリアンとは相当な年齢差があるように見えてしまう。
そんなことを考えながら黙って亜美が宇美をあしらっているのを見ていると亜美は宇美を言いくるめて壱心の方に向き直った。
「それで壱心様、何か御用ですか?」
「ん、あぁ……気分がいいから散歩と様子見にな」
「そうですか……うーん、それでしたら私も少し休憩を入れましょうか。宇美も来るでしょう?」
亜美の言葉に宇美は頷いて告げる。
「勿論です。こうなったら桜ちゃんも呼びましょう?」
「あいつは忙しいだろう」
「でも呼ばれなかったら悲しいですよ? 少なくとも私だったら拗ねます」
「……一応、声を掛けるだけ掛けておくか」
壱心の目配せで美咲が動き、亜美の部屋で待機していた使用人の一人が退室する。それからほどなくして桜がやって来た。
「くすくす……何やら皆さんお揃いで。どうされたんですか?」
「今から軽いティータイムをするんですが、いかがですか?」
「お茶ですか……」
少し悩む素振りを見せる桜。彼女も暇ではない。壱心の代理で昼までにやっておきたいことがあった。
「わかりました。四半刻ほどしかご一緒出来ませんが、準備致します」
しかし、彼女は壱心たちとの時間を優先した。以前までの、彼女が発生した当時のこの国を守るためだけの存在という自認をしたままであればそんな選択はしなかっただろう。だが、良くも悪くも人と一緒に過ごす内に彼女も変わった。
「おぉ、誘っておいてよかったな。なら、美咲。準備を頼む」
「はい」
顔を綻ばせる壱心。楽しそうな彼を見て桜もまた頬が緩む。しかし、桜の脳裏には壱心と彼を支えて来た妻たちの健康状態が過ってしまう。
(後何回こうして穏やかにお話が出来るんでしょうね……?)
歩行に杖を使い出した壱心は勿論のこと、リリアンや宇美。そして外見上まだ若く見える亜美さえも既に健康状態は急勾配の下り坂だ。桜は咲がいなくなった時のことを思い出してしまう。
(……いずれ、私だけになってしまうんでしょうね)
思いは引き継がれるとしてもやはり寂しいものは寂しい。桜は近い将来のことを覚悟しながら今は楽しいひと時に身を委ねるのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます