奉天条約

 日ソ戦の講和条約締結交渉は難航を極めた。防衛戦争ではなく侵略戦争をした事実を国民に知らせたくないソ連が日本への謝罪と賠償を渋り、英米からの立て替えるという申し出も断り続けたのだ。


 だが、それも日本軍とドイツ軍の躍進の前には続かなかった。


 満州方面での全戦線後退から始まり、ブラゴベシチェンスクが陥落。ハバロフスクは包囲。そしてウラジオストクも降伏。また、西部戦線においてもレニングラードの包囲に始まり、スモレンスクの陥落。制空権の喪失。キーウ、ハリコフの占領。


 ソ連は兎にも角にも主敵であるドイツに対し、何とか挽回を図ろうと次々と兵力を投入した。だがしかし日本を相手にしている以上、戦力の分断は避けられない。その結果、ドイツ軍の進撃の前に次々と破れて行った。

 しかも日本と継戦状態にある状態で、ドイツ軍の動きが史実よりも早かった結果が齎すのはモスクワの前で秋雨や例年より早い冬将軍が到来することもなく、日英同盟が効力を発揮している状態では連合国からの支援も行えないという状況だ。


 南進を成功させ、意気衝天で首都目前に迫るドイツ軍。士気が低迷したソ連赤軍。兵力だけでなく、兵器の類も消耗しきっている。


 ソビエト連邦国は、とうとう折れた。


 1941年9月2日。奇しくも史実で日本がミズーリにて降伏文書に調印したその日。


 ソビエト連邦国は中華人民共和国と大日本帝国との講和を発表。奉天にて講和条約が結ばれた。


 内容は、大きく以下の通り。


 1、ソ連は日本に賠償金47億1111万ルーブル(約8億8888万米ドル)を支払うこと

 2、ソ連は1860年に清国より割譲した沿海州の領土を中華民国に返還すること

 3、沿海州における大日本帝国の指導・監督権の承認

 4、沿海州における権益の一切を中華民国、日本に譲渡すること

 5、日ソ中、各国の軍隊は、鉄道警備隊を除いて別途定める地まで撤退すること


 その他に付帯事項として1の条項には英米が日本からソ連の債券を買う形で米ドルで7億ドル。英ポンドで約4722万ポンドの支払いが実施されること。(尚、イギリスとアメリカからの支払いは日露戦争と今回の日ソ戦争時に日本が戦費調達のために出していた国債とレンドリースの支払いと相殺する形で落ち着き、日本へ目に見える形で支払われる賠償金は殆どなくなることになる)

 また、4の条項でシベリア鉄道周りの権利について様々な取り決めがつけられることになるが、基本的には日本の大勝利という形で日ソ戦は終了した。


「さて……ここから、第二次世界大戦が終わるまでが最後の山場だな……」


 立ち上がる事すら億劫になった身体を押して、壱心は情勢を窺う。今日も会談だ。今日はソ連との交渉という大任を果たした鈴木と和平条約を結ぶために影でそれらを支えて来た若槻と岡田という江戸時代生まれの生き残り四人で会食の予定だった。

 去年まではこの中に西園寺も加わっていたのだが、昨年、多くの人に偲ばれながら他界している。


(この身体も、相当無茶ばかりして来たというのによくついて来てくれている……)


 得体の知れない仙人の霊薬を使ったとはいえ、よくもまあここまで持ったものだと自分のことながら感心する。そろそろ白寿を迎えようとするこの身体。流石に色々と無茶をした結果、様々な生活制限を受けるようになった。それでも自分の力で立って歩き、活動出来ている。


(あと少し、もう少し、付き合ってもらわないとな)


 自らの体をいたわるように腕をさする壱心。今夜の会食は祝勝会と行きたいところだったが、議題がある。沿海州における利権への列強の干渉と国内世論への対応だ。


(ドイツが大暴れして枢軸国が台頭している中、ソ連を反枢軸に引き入れて戦わせるために英米が日ソ戦に干渉して来てまとまった今回の話だが……かつての満州、朝鮮の時のように嫌な干渉を再現されて台無しにされては困る)


 枢軸国の躍進を何とか止めたい英米が多少の損をしてでも強引に結んだのが今回の講和の内実になる。ソ連は日本に負けたことを認めず、英米の顔を立てるという名目で講和に応じており、賠償金についても英米に立て替えて貰ったため、沿海州の利権以外で何の損もしていない。独ソ戦を終えた後にソ連がまた何か言ってくる可能性は極めて高く、日本の台頭を許したくない英米がそれに乗っかる可能性もまだかなりの確率で残っていた。


(いや、先のことを考えても仕方ない。直近の問題はそれより前。俺がこの国のために直接出来る、最後の奉公は世界が混乱に乗じて己の利権を狙うこの大戦中に日本の世論を抑えることだ……)


 ただ、先のことに目を向ける前に壱心は足元の課題に目を向けた。


 枢軸国の躍進は軍事強国こそが覇権を握る。そう言った面を強く見せつけるものになっていた。それは真実ではあるが、それだけが真実というわけではない。軍事力はあくまで最終手段。軍事に依り過ぎると内政が疎かになり、内政が上手く行かなくなったことを誤魔化すために再び軍事に頼り、いずれは破局を迎える。

 特に、日本においては今が軍事に傾倒しやすい状況だった。日ソ戦の大戦果に目が眩んで国の疲弊度を理解しないまま自国の権利のみを主張し、再び戦争への道を歩みかねない。そんな危うい状況が現状だ。


(今は国中が戦争特需と大戦果で興奮状態にある。これが落ち着くには数年は必要だろう。その頃には独ソ戦も終わって世界中でまた厭戦ムードが高まるはずだが、独ソ戦が終わるまでの数年が問題だ。日本は勝ったが、勝ち過ぎてしまった)


 輝かしい戦歴。大日本帝国これにありと言わんばかりの結果。壱心はそれが後々の戦の種となることを危惧していた。


(戦争して儲けてしまった。自国の権利を脅かす者は戦争で打ち倒せばいい。そんな極端な考えをする者が増える原因を生んでしまった。自国の利権のために誰彼構わず吠え回る狂犬の生誕だ。相手が英米だろうが世界だろうが自分の利権を守るためなら戦争を吹っ掛けるという最悪の事態もあり得る)


 特に、その狂犬に成功のモデルケースがある今が危ない。将来的にはその成功例も挫折してそうならないように学習することも出来るだろうが、今の時点で誰彼構わず噛みつかないように躾けられるのは限られた人物しかいなかった。


(何とか外交で済ませたいところだ。アジアで日本が台頭し、反共で中国と組むのはもう避けられない。国民も反共で団結してる。だから、英米から反枢軸で固まるためにソ連に援助されると厳しいところがある……)


 壱心は苦い顔になる。現在の日本国内における反共感情はかなり強い。反共で団結していた国民にとってこれまで戦っていた相手をせっせと支援する英米を横目で見ることになると、国民は複雑な気分になるだろう。そんな情勢だ。何かのきっかけさえあれば日本で反英米の機運が高まることも十分に考えられる。それによって枢軸側につくことになると史実の二の舞だ。史実に比して大日本帝国はかなり強力な軍事力を保有しているが、それでもソ連の後に英米の二連戦など考えたくもない。


(英米に親近感を与えるにはどうすべきか……太平洋ルートで来るソ連への支援物資の一部を卸してもらうか?)


 壱心の脳裏に現在打診が来ている話が過る。アメリカからソ連に対する支援物資が太平洋からウラジオストクに入り、そこからシベリア鉄道を用いて輸送される見込みとなっている。その内の一部を日本で買い叩こうというのだ。


(まぁ、英米から反感は買うだろうが……人件費や輸送費の一部として英米の製品を格安で入手するか。少しでも英米を身近に感じてもらわないと、ソ連への援助を送るということは難しいとして外交ルートで納得させるしかないだろう)


 壱心は色々と考えながら今日の会食の議題で話す内容をまとめるのだった。



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