虎口作戦

 1941年3月初旬の満州東部。未だ厳冬の装いが必要な満州東部に配備された日本軍の第一方面軍25万はソ連軍第一極東戦線30万を相手に睨み合いをしていた。


「……要塞内にいてこの寒さ。外の様子は如何なものか」


 虎頭要塞にて指揮を執る阿南惟幾あなみこれちか陸軍中将は燃料の節約のために厚着を着こむことで寒さを耐えながら呟いた。その呟きを彼の弟子が拾い上げる。


「寒さもさることながら連日の空襲や奇襲、夜襲でソ連軍も疲弊している様子です。もうすぐ、機は熟すかと」

「……機が熟すまで彼は待ってくれるかねぇ?」


 師匠の言葉に青年将校は顔を曇らせた。敵ではなく、彼。そのという言葉が指すのは誰であるか。師が言わずとも青年には理解出来た。


「さ、流石に命令に背くことはないかと」

「うん。それはないだろう」


 ただ、と阿南は続ける。


「彼、永田さんに新指令を出すように何度も掛け合ってるみたいなんだよ」


 そう告げる阿南の顔には連日の戦闘をものともしない彼には似つかわしくない苦労が滲み出ていた。師の意を酌み取って青年は難しい顔になる。


「上官の命令に逆らっているのですか? 軍紀を乱す行為は許せませんね!」

「いや、まぁ……うん。上官が明らかに間違ってるならまだしも、今はこちらが優勢と来たもんだ。おまけに大元帥閣下も性急な判断を下さないように仰っている」

「……大元帥閣下からも言われているのに、ですか」


 驚く青年。ただ、ここで言う大元帥とは史実やこの世界線の大正時代までの時代に用いられた意味ではない。


 つまり、天皇陛下を指すものではないということだ。


 この世界でも大元帥とは統帥権を持つ天皇陛下のことを指していたが、この世界線では空軍の創設に当たって憲法改正をした際に天皇は総元帥という更に上位の役職に就くことにし、元帥の中でも特に功労があった者を大元帥と繰り上げることにした。

 ただ、大元帥と呼ばれるのは大日本帝国陸軍の歴史上でも片手で数えられる程度の人数で、只の一人を除いて死後の追贈だ。

 その唯一の例外、今も尚その声を聞くことが出来る存在がの元締めに当たる香月壱心大元帥、幕末より燦然と光り輝く殿上人だ。


 今もまだ軍部にて健在で、独軍の西方電撃作戦にも似た作戦の草案を提言してソ連赤軍の戦線の一つを崩壊させた怪物の注意を振り払う。そんなことは青年には考える事も出来なかった。


「あの人は……土方閣下はどうしたいんですか……?」

「そりゃあもう、圧倒的な勝利を求めてるんだろう」

「その通りです」


 青年が悲鳴を上げなかったのは日頃の鍛錬の賜物だろう。青年将校は素早く阿南を庇う体勢に入り、警戒態勢に移る。そんな若き将校の姿を見てはふっと笑った。


「失礼、少し本官の名が聞こえたのでね。そう警戒しないでくれ」

「気配を消して近付かれるのはお止め頂きたい。上官を守るのも本職の役目なれば、誤射の可能性が生まれてしまいます」

「まぁまぁ、その辺りで。土方君、首尾はどうだったかね?」


 一触即発の空気になりそうなのを止めて阿南は通信室を長々と占領し、上官相手に滔々と正論をぶつけたであろう土方中将に笑顔で問いかける。そんな阿南の人好きのしそうな朗らかな笑みに対し、帰って来たのは獲物を仕留める寸前の狼のような笑みだった。


「上々です。本国より承認が下り、正式に虎口作戦を拝命致しました」


 得意気にそう返した土方に対し、阿南は苦笑した。虎口作戦とは畑俊六陸軍大将が率いる満州南東部の第一方面軍が主体となって行う陸海空軍の合同作戦だ。具体的には現在のソ連軍の交通・補給の要であるウラジオストクに海軍、そしてボロシーロフウスリースクに空軍が攻勢をかけ、敵軍の目を引いた上でその元栓に当たるハバロフスクに陸軍が大規模攻勢をかけるというもの。

 現在の要塞線とその付近で敵を磨り潰し、局地戦で勝利を重ねていく守りの勝利とは異なり、攻めて勝つことを目的とした作戦だ。

 当然、リスクが大きい上に甚大な苦労が各戦線を襲うだろう。それは阿南や土方も例外ではない。だが、土方はとても嬉しそうな顔をしていた。第三方面軍の大活躍を聞いて溜まっていた鬱憤が綺麗に流れたような状態だ。その土方を前に阿南は何とも言えない気分にさせられるも愛想笑いで続けた。


「それはそれは……忙しくなりそうだねぇ」

「えぇ、ですが日本のため。身を粉にして働く所存です」


 あなたもそうしてくれますよね? そう言わんばかりの土方の眼光に阿南は苦笑いで頷いた。


「ははは。言われなくともわかっているよ。我々も頑張らねばなるまい。小松中佐、皆が二十分以内に作戦室に集まるように指示をしてくれ。虎口作戦の実行が決定した以上、周辺の布陣を変える必要がある」

「了解しました!」


 上官の命を受けて青年将校は急ぎその場を立ち去る。それを見送ってから中将二人は連れ立って歩き始めた。そしてすぐに手近な部屋に入ると室内に誰もいないことを確認してから至近距離で声を落として話し始める。


「それで、規模は?」

「本作戦で直接戦闘を予定しているのが本官が率いる第八師団を中心とした五万人。

 その他、陽動や補給等で作戦に従事するのは陸海空を含めて20万程度です。閣下の要塞線の兵については本作戦で多大な影響を受けるとは思いますが、あくまで作戦に参加している人工にんくということで除いております」

「ふむ……ソビエト軍にとっては王を守るために飛車を動かさなければならない形になるが……彼らはどう出ると思う?」

「メレツコフ上級大将も愚かではありません。冬戦争で名を馳せた彼であればきちんと王を守りに出ると思いますよ」


 ソ連軍第一極東戦線が現攻勢地点としている満州南東部へのほぼ唯一と言っていいハバロフスクからの補給線を王とし、ソ連軍の虎の子である機械化師団を飛車と見立てて話をする二人。無論、飛車が攻撃戦線に居ることで要塞線に対する圧が強まっているのは間違いないが王が危機に晒されているというのに動かない訳にも行かない。その動きがどうなるか。そして、動かした後がどうなるか。大勢の会議の中で話して得られる知見も多いだろうが、この作戦の中心となる二人で先に認識のすり合わせをしておきたいと思っていたのは片方だけではないようだ。

 会議が始まるまでの短い時間で確認事項と懸念点が交わされる。話が尽きることはないが時間は有限だ。そろそろ二十分になろうとしていた頃、土方が神妙な面持ちで告げる。


「阿南殿、野暮を承知で申し上げますが、私が王を落とすのに失敗した場合、救援は不要です。せめて飛車なき陣だけでも確実に崩すようにお願い致します」

「何、始まる前から弱気になるとは君らしくないな。こちらのことは任せ給え。君は君の職務を果たすことだけ考えればいい」

「……ありがとうございます。では、参りましょうか」


 席を立つ二人。彼らが今、向かう先は会議室だがそこで見据えるのは遥か北方とその戦いが齎す結果。


 ユーラシア大陸北東部、極東の大地にて大日本帝国軍とソビエト連邦赤軍の戦いが再び始まる。




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