西満州の趨勢

「栗林閣下! 包囲下にある赤軍第39軍が降伏勧告を受け入れるとのこと!」


 1941年2月中旬。鮮やかな手腕で満州西部の大興安嶺だいこうあんれい地帯から連なる森林地帯を突破し、ミハイル・キルポノス大将が率いる赤軍第39軍を包囲した栗林忠道中将の下に吉報が届けられる。

 夜通しの強行軍の中、夜戦や応戦を行い、疲労困憊のところにやって来た大戦果の報告。思わず頬が緩みかける栗林だったが、すぐに気を取り直して努めて冷静な態度で部下に確認を取った。


「数は?」

「集団で抵抗していた数のみで三万人程度と想定されます! 各地で包囲した小集団を加えると確実に三万人は超えるでしょう!」


 大喜びの部下の報告を聞いて栗林は難しい顔になった。大戦果だが、第三方面軍が抱えるには数が多過ぎるのだ。


(これで恐らく西満州の攻撃部隊の数は逆転した。ソ連軍から鹵獲した弾薬や兵器も多数だ。前線基地の多くに大打撃を与え、補給物資の奪取にも成功した。だが、油断出来るような状況ではない。彼らの面倒を見ながら戦争出来る程の余力はないな……一部の将官のみを置いて、後は本国の収容所に送るしかないか)


「わかった。すぐに小栗閣下に連絡の上、永田閣下にも連絡を。大戦果を挙げたことと俘虜ふりょ(捕虜)が三万名を超える見込みになることを伝えてくれ」

「畏まりました!」


 意気揚々と通信兵のところまで駆けて行く部下を見送って栗林はようやく大きく息をつく。


「切号作戦、成就せり。後は及び腰になった敵を掃討するのみ、だ」


 見込みではザバイカル方面における攻撃部隊の数は逆転した。戦況は日本軍が俄然有利となったのだ。

 

「さて、掃討戦の前に色々とやる事はあるが……流石に少し、休ませてもらうとするかな」


 鮮やかな包囲網を築くに当たって陣頭指揮を執った栗林は戦果に満足しつつ、降伏してきた将官の応対後は小休憩することに決めるのだった。



 一方のソ連軍ザバイカル戦線の司令官であるクリメント・ヴォロシーロフは通信が取れなくなった後の自軍の末路についての報告を受けて顔面を蒼白にさせていた。


「わ、我が軍の精鋭が……」


 開戦後、攻勢を続けていた精鋭たちが日本軍の奇襲によって僅か一週間で四分の一以上の戦力を失った。これにより、ザバイカル戦線は要塞群の攻略どころか自分たちの身を守る事すら危うい状況に置かれてしまったのだ。


(裏切り者どもめ! 武器があって何故戦わない!)


 喚き散らしたい気分を何とか抑えて内心で叫ぶヴォロシーロフ。尤も、その叫びは八つ当たりに他ならないものだが。寸断され、包囲され、補給を断たれた状態でどう戦えというのか。


「元帥閣下、ここは転進も視野に……」


 ザバイカル戦線の右翼を叩き切られたことで戦線の崩壊を恐れた将校の一人が恐る恐る進言する。被害が拡大する前に言わずにはいられなかったようだ。これはこの場にいる面々の多くが同意する意見だった。しかし、言葉選びがよくなかった。そんな弱気な発言を聞き逃せるほどヴォロシーロフの精神状態は良くなかったのだ。


「転進? 敵は目の前に迫っていると言うのにどこに行くつもりなのかね、スミノフ同志」


 ヴォロシーロフにギラリとした目で睨みつけられ、若き将校は自らの失態を悟る。彼は必死に頭を巡らせたが、彼が挽回の言葉を発すよりもヴォロシーロフが近衛兵に指示を出す方が早かった。


「軍紀に乱れが見られるようだ。綱紀粛正のため、彼を連れていけ」

「はっ!」


 最早どうしようとも処罰からは逃れられない。そのことを理解して諦めたスミノフ将校。彼は最後の抵抗としてヴォロシーロフに食って掛かった。


「何が軍紀に乱れが見られるだ!? 錯乱してるのはお前の頭だ! 皆はよく戦った! お前以外はな! ただそこに居ればすべて周りが解決してくれてるとでも思っていたのか!? 皆が死んだのはお前が何も考えずにそこに居ただけだったからだ! 熟慮とは名ばかりの決断の先延ばしの結果だ! 恥を知れ!」


 一気に言い切ったスミノフ将校に対し、ヴォロシーロフは彼を冷たい目で見据えるだけだ。


「同志……いや、スミノフ。今回の敗戦は我が軍の配置と動きを把握していなければ起こり得ないようなことが起きているという報告があったが、よもやこんなところに原因があろうとはな」

「何が言いたいっ!」


 居直って好き放題言っていたスミノフだが、彼の口撃はそこまでだった。近衛兵によって羽交い絞めにされ、鳩尾を強烈に殴られたのだ。スミノフが呼吸に詰まり、咳込んで一時的に発言が出来なくなったところでヴォロシーロフは静かに告げる。


「こんなところにまでスパイが潜んでいたとはな。この私も見抜けなかった。汗顔の至りだ……この裏切り者が! どれだけの兵が犠牲になったと思っている!」

「な、にをぉ……!」

「貴様の言葉などこれ以上何も聞きたくない! 連れて行け!」


 尚も何か言い募ろうとしているスミノフに対し、ヴォロシーロフは無慈悲な宣告を行う。藻掻き、罵声を上げるスミノフだがヴォロシーロフの命を受けた近衛兵たちはそれを無視して彼を連行して行った。


 残された将校たちは何も言うことは出来ない。不用意な発言をしたスミノフ将校のことを憐れむだけだ。そんな中、ヴォロシーロフは取り繕うように発言を行う。


「さて、裏切り者のせいで我が軍は大変な被害を被った。状況は芳しくない。今後の話をしようじゃないか」


 細心の注意が必要な軍議。ただでさえ重要な決断、しかも多岐に渡る選択肢の中で決断を迫られていると言うのにヴォロシーロフの機嫌を損ねるような献策が許されていない状況。


 それはとても非効率的で空虚な作戦会議となり、日本軍に大攻勢後の再編の時間を与え、磐石の備えを作らせるものになるのだった。




 ザバイカル方面のソ連軍が方針転換を図っている頃。日本軍も今後の方針を定めるべく満州軍総参謀長永田鉄山の下に情報が集められていた。


「西方面で大勝利を収めた、か。流石は小栗殿に栗林くんだ」


 切号作戦の発案自体は大老君、香月壱心が行ったものではあるが、その後の考案と推敲については小栗忠国と栗林忠道で行ったものであると聞いている。

 勿論、永田自身も熟読して実行許可を下したものではあるが、実施難度の高いものだった。それを達成した彼らには十分に報いねばならないところだろう。


「ただ……俘虜ふりょ(捕虜)が五万名に上るか」


 輝かしい戦果の証拠である捕虜。その処遇について永田は頭を悩ませていた。切号作戦成功時に前線から上がってきた報告では三万程度とされていたが、その後も投降を続けるソ連軍によって降伏者は当初の予定を遥かに超える数値になっていた。その処遇は非常に悩ましいところだ。


(日本海の制海権はこちらが握っている。本国に送るのに支障はないが……治安維持の観点からして全てを本国に送るのは避けたい。北京政府にも協力させるか……)


 一般階級のソ連軍の半分程度を北京政府に受け持ってもらうことにした永田は早速本国の承認を得られるように文書を認める。


 その最中、永田の下に通信が入ったとの連絡が通信兵より届けられる。


「相手は?」

「第一方面陸軍中将土方勇一閣下です!」

「土方くん自らか……」


 廊下を歩きながら通信兵の報告を受けて永田は苦笑する。彼の下から何度か通信は来ていたが、とうとう痺れを切らして本人がコンタクトを取ってきたらしい。


 この時点で既に通信内容が透けて見えていた。


(勇猛果敢なのはいいんだがなぁ……全く、言動は優秀な指揮官で実績も上げているからこちらも困る)


 苦笑してから永田は通信室へ向かうのだった。



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