機先を制す

 1941年2月。日本本土からの派兵が行われれ、満州各方面において日本軍の戦力が整えられた。その間、ソ連軍はどの要塞を落とす事も叶わず、航空優勢を失ったまま爆撃に晒され続けていた。ソ連が誇る月産750機の航空機たちも送られて来ては破壊されるだけの虚しい結果に終わっている。いや、飛べた飛行機はまだマシで、飛ぶ前に破壊されることすら珍しくなかった。

 しかし、この増産で送られた航空機は時間稼ぎに過ぎない。ソ連軍は破壊した日本軍の戦闘機を解析し、新たな航空部隊を作ろうとしていた。日本の首脳部はそれらの行動を見越して戦っているが、陣頭に立つ者たちにとっては焦りが出て来る問題だ。

 そんな問題が浮上している中、先の見えない防衛に徹しているというのに日本軍の士気は下がらなかった。それは詳しい内容は知らされていないが、耐え忍んだ後には自分たちの攻撃の時間が来ると信じていたからだ。


 その反撃の時間。一番最初に来たのはザバイカル方面に位置していた小栗陸軍大将率いる第三方面軍だった。


「……そろそろ頃合いかな。栗林中将は?」

「いつでも準備は出来ているとのことです」

「よし……なら、反撃の時だ。海拉爾ハイラル要塞群は敵の目を惹きつけるべく猛攻撃の指示を」

「畏まりました!」


 興奮した面持ちで各地へ無線を飛ばす通信兵。これまで守勢に回らされていた鬱憤が溜まっていたのだろう。各地が攻撃に転ずるという言葉に色めき立っていた。


 天井を見上げる小栗大将。今頃、海拉爾ハイラルの空には満州内部より航空機が飛んできているはずだ。


(山下中将、栗林中将、頼みましたよ)


 これから自分がやる事は情報収集と各方面への指示。切号作戦の運命を決める前線とは異なる戦場に小栗は身を投じるのだった。



 ハイラル方面に異常あり。


 ザバイカル戦線を率いているクリメント・ヴォローシロフ元帥がいる後方の司令部に一報が届けられたのは彼が目覚めた時とあまり変わらない時分だった。


「日本軍が前進してきている?」

「はい。いかがいたしましょうか」

「今まで守勢一方だった腰抜けが今更どうしたんだ? まぁいい。殻にこもってないと赤軍の相手にはならないことを徹底的に教育してやるよう各隊に通達しておけ」

「畏まりました。そのように」


 伝令が去った後、ヴォロシーロフ元帥は身支度を整える。


(しかし、部下を不安にさせないよう言い切ったが何故今になって日本軍が前に?)


 着替えの最中、不安が鎌首をもたげる。冬戦争の失態から国防相を降ろされておりその失策をスターリンに痛罵された彼は思わず公衆の面前でスターリンに激しく反駁してしまい、心証を悪くしている。ここで悪手を取ればどうなるか。ヴォロシーロフの頭を過るのはかつての同僚や部下たち。自らが間接的に殺めた人々の怨嗟の顔だ。自分もあの中に入るのではないか。そう考えると背筋に冷たいものが流れる。


(いや、目の前のことに集中しろ。余計なことを考えるな。今、問題なのは迫り来る日本軍。日露戦争の話を聞くに奴らは一度決めた目標に固執する傾向がある。あいつらの目標が何かは分からないが、今来ている部隊に勝てばいい。勝てばいいんだ。前を向け)


 不安を払拭するようにヴォロシーロフは頭を振って部屋から出て会議室に向かう。

 そこには急報が知らされた他の大将たちが緊張した顔をして並んでいた。そんな彼らに対し、ヴォロシーロフは言い切った。


「殻の中で蒸し焼きになって死ぬのを恐れた貝が最後の抵抗に蓋を開けて水を吐いたらしいな。食べごろだ。多少濡れようとも構わない。火力を強くして食事にしよう」


 大したジョークではないが、粛清に怯え、緊張し切っていたソ連将校を和ませるのには十分だ。過度な緊張をほぐした後、ヴォロシーロフは攻勢に移った日本軍を撃退しつつ手薄になったと思われる敵の防衛陣を占領するための計画を立て始める。

 日本軍の攻勢地点や目標などを読み、赤軍がどう動くべきかの議論が白熱する中でその一報は届けられた。


「つ、通信が入りました! ハイラル方面にて大規模な爆撃の後、日本軍が大攻勢を仕掛けてきた模様! 大至急前線に増援を要求するとのこと!」

「そうか。なら機動部隊を送るぞ。日本軍の後方を叩き、先に要塞を落とす。装備数も兵力差もこちらが上。あの忌々しい要塞さえなければこちらのものだ。今日が戦の分かれ道になると……」


 周囲を安心させるようにヴォロシーロフがそう言った次の瞬間、転がり込むようにして別の将官が入って来た。彼は酷く興奮した様子で脇目もふらずにヴォロシーロフの方にまっすぐ歩いて来て耳打ちする。


「だ、大興安嶺だいこうあんれい方面に布陣していた第39軍が爆撃後、突如現れた日本軍によって前線を突破された模様」

「……は?」

「ミハイル大将は最後に撤退を求めておりましたが、日本軍の攻撃により現在は連絡が取れない状況になったのか、通信施設自体が破壊されたのか不明ですが音信不通となっております」

「ッ! 索敵部隊は何をしていたんだ!」


 堪忍袋の緒が切れたのか周囲の目も憚らずにヴォロシーロフはヒステリックな声を上げた。それに伴い周囲に動揺が広がる。しかし、ヴォロシーロフは周囲の動揺などを気にしている余裕はなかった。


(第39軍がやられるとザバイカル戦線における我が軍の攻撃可能部隊の4分の1が崩壊することを意味する。不味い。攻撃地点を見誤った。救援を送らなければならないがどこから救援を送るべきか……)


 失敗すれば今度こそ殺される。ヴォロシーロフに退くことは許されなかった。だがこの状況から攻めに転ずる手段をヴォロシーロフは考えつかなかった。つまり、撤退も前進も出来ない。


(……日本軍は全面攻勢に出た。だが、戦力を考えればそのどちらの地点でも攻撃が続くとは考えられない。ハイラル方面では要塞から離れられないため、攻勢限界地点がある。また、大興安嶺方面においても林道を越えて補給が続くとは思えん。奴らが足を止めた時にこそ赤軍の攻撃を始めるべきか)


 失敗が許されないのだから状況を見て柔軟な反応を下すべき。優柔不断とも言えるその判断がソ連赤軍、ザバイカル戦線軍の運命を大きく左右することになる。




 栗林忠道中将は想定通りの進軍速度でソ連軍大将ミハイル・キルポノス率いる赤軍第39軍の防衛ラインを突破していることに満足していた。ただ、今の成果に満足したからと言って足を止めることはない。


(第三方面軍の戦の趨勢は我らにかかっている。小栗閣下の期待に応えるべく、脚を止めることは許されない)


 栗忠コンビとして陸軍でも頭角を現す優秀な二人。彼らは強い信頼関係で結ばれていた。そのため、一見無茶な進軍計画を命じられたとしても異論を挟む余地もなく、栗林は淡々と計画を実行するにはどうすべきかを考え、実行に移す。


(……流石に皆の疲れも出てきている頃だが、もうひと踏ん張りだ。全てが終わった後に幾らでも寝てくれ。だから今だけは頼む……!)


 悪路の走破、戦闘による緊張、少し先の未来に対する不安。それらを抱えながらも自身について来てくれている部下たち。彼らは母国のために戦っている。そんな彼らの思いや願いを叶えるために栗林は陣頭指揮を執っていた。疲労もあるが、それ以上に自らの使命に燃えていた。


「閣下! 敵軍の前線が更に後退しております! 突撃指示を!」


 ぎらついた目で部下が叫ぶ。連戦連勝の熱に浮かされた彼らだが、それでも理性を保って指示を待つ。そんな彼に栗林は殊更冷静さを保って告げた。


「勿論だ。機動部隊は敵部隊の突破後、後方を破壊。その後の敵部隊殲滅は後続部隊に任せるように」

「了解です!」


 幾度目の会話だろうか。これまでの会話でどれだけの敵を屠れたのだろうか。気になることは多々あるが、それでも彼らは足を止めない。彼らが足を止めるのはザバイカル方面における戦の趨勢が決まったその時だ。それまで、彼らの戦いは続く。



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