日ソ開戦

 1940年12月。ただでさえ寒い満州の地だがこの年は輪をかけて寒かった。そんな満州において、事件が起こる。

 国境に配備されたソ連軍に対し、東清鉄道管理局の理事会におけるソ連側の理事長の一人がソ連軍を警戒して国境に配備された中華民国北京政府軍の機密情報を横流ししたとして、中国の憲兵により逮捕されたのだ。その際、北京政府は東清鉄道管理局から多数の機密資料を押収し、事件の関係者として多数のソ連人を逮捕した。

 これに対し、ソ連側は真っ向から対立。東清鉄道を我が物としようとする中国側の陰謀であるとして逮捕者の解放と即時復職を求める最後通牒を北京政府に通告。


 中ソ紛争の時分より殆ど変わらないような事件を端に、中ソは国交を断絶し国境の軍備を増幅させて更に緊張を高めることになる。

 だが、ソ連の軍備に対し北京政府のみでは太刀打ち出来ないことは先の中ソ紛争で十分に分かっていたこと。まして、今回はイギリスや日本などを経由して北京政府に中ソ紛争を上回る数のソ連軍が極東に展開されつつあるということが伝わっていた。そのため、北京政府はまず南京政府との第二次合作を模索する。

 張作霖の息子である張学良が派遣されて蒋介石に伝えた第二次合作の内容は紛争の即時停止とソ連軍と戦っている間は争うことなく手を取り合うこと。その北京政府の申し出を南京政府は受け入れた。反対すれば南京政府が国民の信頼を損ねることは火を見るよりも明らかだからだ。

 ただ、北京政府からの申し出が全て受け入れられたわけではなく、基本的な内容としては不可侵条約の締結に留まった。北京政府に対する南京政府からの支援や援護は行われないことになったのだ。北京政府としては色々と言いたいことはあったが仮道かどう伐虢ばっかくの計を警戒して大きな非難をすることはなかった。


 そして南京政府から攻撃を受けることはないとしても単独でソ連を相手取るという窮地に陥った北京政府が南京政府からの支援の代わりに頼ったのが日米だ。


 北京政府は日本から兵力と兵站の援助を受けることを決めると同時にアメリカからレンドリースを受けることを決定した。

 このレンドリースについては日本側も一枚噛んでいる。アメリカから物資を借りることでアメリカ経済を活性化させて復調させ、日本が中国利権を独占していないことをアピールして関係改善を図ると共に北京政府に対しコンコルド効果がはたらくことを狙って投資を促した上で北京政府の後ろ盾に立たせてソ連や南京政府を含む周辺国を牽制するという一石三鳥を狙った一投だった。この一投の行方は現時点では不明確だが、アメリカはレンドリースを行うことを決定。狙った鳥の内、ソ連に対する後ろ盾になってもらうという一羽を落とすことに成功した。


 これらの出来事が中ソの間で紛争と称すには大規模な兵力が動いていたが、戦争と呼ぶには小規模な被害しか出ていない小競り合いが連日のように続き、神経戦の様相を呈して来た頃の出来事だ。


 ここから事態が動くのは中ソにおける国交断絶より1月が経過した時のこと。ソ連が中国側の砲撃によって満州南東の牡丹江方面に展開していたソ連軍の将兵に被害が出たとして北京政府を非難する声明を出したと同時に極東ソビエト軍総司令官であるセミョーン・チモシェンコ元帥に進軍命令を下した。

 西部、北東部、南東部の三方より大挙するソ連軍。南東方面において北京政府軍が守る国境はすぐに破られた。渡河に成功したソ連軍はそのままの勢いで後詰に入っていた関東軍と衝突する。


 ここに日ソ戦が開幕。


 急進するソ連軍第一極東戦線に対し、関東軍以外の戦力がまだ整っていなかった大本営は遅滞戦術を使用することを決定。北京政府軍が撤退する時間を稼ぎつつソ連軍の勢いを殺し、後詰に入っていた関東軍が東寧要塞、綏芬河すいふんが要塞、半截河はんさいが要塞、虎頭要塞などが形成する要塞線に転進する時間を稼いだ。ここで徹底抗戦の構えだ。


 関東軍が日本本土からの援軍を迎え入れる前にこれらの要塞線を落としたいソ連軍は攻勢を強めた。フィンランドとの冬戦争でマンネルハイム要塞線を突破してその名を馳せ、その功により上級大将に任ぜられたキリル・メレツコフ第一極東戦線司令官は陸軍の猛攻に加えて航空軍を使用して空爆を計画。

 それに対し、壱心らが改憲して設立した大日本帝国空軍の山下奉文ともゆき中将は反撃に転じた。


 空の戦いの始まりである。


 第一極東戦線指揮下にある第八航空軍が爆撃機、戦闘機を含んだ約1000機というその総力に近しい大規模な兵力を投入したのに対し、山下中将も同様にこの時点で関東軍に配備されていた戦闘機の大半である1500機を投入。史実でのマレーの虎はこの戦いでソ連航空軍に地獄を見せた。

 熟練の日本空軍。相対するは大粛清によって弱体化した上、フィンランドとの戦争で優秀なパイロットを多数喪失しているソ連航空軍。

 結果は、ソ連上層部の人間以外が考えた予想通りだった。ソ連空軍は善戦したが、作戦目標をまともに達成することも出来ずに撤退しようとし―――速度でも加速度でも劣る彼らは背後から機銃掃射を受けて墜落して行った。


 この航空戦において、ソ連軍第一極東戦線航空軍は壊滅的な被害を受ける。ソ連軍はこの戦いに投入した戦闘機や爆撃機を合わせて500機近く喪失。対する日本空軍の被害は50機程度。満州南東部における空の戦いは日本軍優位に進んだ。


 満州南東部における制空権を確保した日本軍は続いて聯合艦隊を出撃。ソ連海軍の太平洋艦隊との対決を目指してウラジオストクに出撃した。

 正面衝突してしまえば勝機はないと見た太平洋艦隊司令官イワン・ユマシェフ中将はウラジオストクに籠って機雷を布設するなどの防衛策を取ってイェフゲニー諸島にある軍備で聯合艦隊を相手取ることに努めた。

 ユマシェフ司令官が取ったこの作戦は航空機が発達する以前の戦いであれば極めて有効な策だっただろう。聯合艦隊は攻めあぐねて時間を浪費し、被害を被ったことに違いない。


 だが、航空機が発達し、爆薬もそれに準じて発達してしまっているこの時代。ユマシェフ司令官の策は決して一度決めたからと言って後は座して待つなどという楽観視出来るようなものではなかった。


 初撃は第一航空戦隊、通称一航戦より発艦された合同航空部隊約100機によるものだった。天城、赤城、加賀より発艦された航空部隊は当初課せられた役割である威力偵察を実施した後、反撃が薄いのを確認。そのまま高角砲と敵機の弾幕の間を縫って軍港に機銃掃射と爆撃を実施した。

 また、町の方角には伝単(ビラのようなもの)をバラ撒いてソ連市民に逃げるように通達。バラ撒かれたのが伝単ではなく爆弾であれば自分たちの命は簡単に失われていたことを強く思い知らせた。

 そこから日本軍による追撃が入る。第二航空戦隊、二航戦と第五航空戦隊、五航戦による襲撃だ。初撃において太平洋艦隊に対空反撃能力が薄いと見た空母機動部隊は約300機の合同航空部隊を発艦し、イェフゲニー諸島にある軍用施設と金角湾にある太平洋艦隊の基地を散々に破壊した。


 これらのウラジオストクに対する攻撃が成功した時点で太平洋艦隊の作戦実行能力は半減した。しかし、まだその攻撃能力を残していることに疑いの余地はない。

 ただ、全面的な攻勢に出るには難しいところがあるだろうというのが大本営の認識となる。これに伴い、日本海における制海権も殆どが日本軍のものとなるのだった。



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