日ソ戦力差

 1940年8月。ソ連赤軍、東アジア方面にて南進の気配あり。それは直接ソ連に対峙する日本や中華民国、そしてソ連の衛星国のモンゴルのみならず世界に広く知れ渡ることになる。


 極東方面における戦力分析を行うと日本とソ連はほぼ互角と言ってよかった。まず軍を支える人口において、日露戦争時には数の上において二倍差をつけられていた人口だが、この1940年時点では朝鮮の2300万人と台湾の700万人を含めばソ連全土を合わせたとしても約2000万人程度の差にまで至っていた。

 いわんや同盟国で共にソ連と戦おうとしている中華民国北京政府が抱える膨大な人口を加えればソ連の人口など容易に上回っていた。そして経済面においても日本は堂々の世界第二位の経済大国となっており、ソ連に対してGDP比で1.5倍差をつけることに成功していた。これらの点においては日中がソ連を上回っていた。


 また、動員兵力について。日露戦争の時も総力戦の様相を見せたが、かつてのその戦いよりも規模が大きくなった今回の戦争。動員兵力は前回の戦いより増加していたが、各陣営で見た場合の兵数の差は日露戦争時より縮まっていた。


 まず前提として、ドイツと不可侵条約を結んでいるソ連は首都モスクワがある欧州では敵となり得る連合国の主要な国をドイツが単独で相手取っているため、ある程度東側に割く兵力に余裕があった。それが今回の戦争を呼ぶ原因なのだから当然だ。

 それでもイギリス等は健在で、その同盟国でありレンドリース等でイギリスを支援しているアメリカが動く可能性を考えるとソ連は西側に備えておく必要があった。

 また、既に終盤ではあるがバルト三国を併合している最中であることやポーランドの占領やフィンランドとの戦争が終わったばかりで占領地域の情勢が安定していないこと。それらの状況を踏まえるとソ連軍が動員可能な兵力全てを極東に割り振ることは出来なかった。そのため、ソ連軍が極東に送り出した兵力は約225万だった。

 その結果、動員される兵力はソ連側が約227万人。内訳はソ連赤軍が約225万人、ソ連の衛星国で直接国境を接しているモンゴル軍が約2万人となった。

 これに対し日中連合軍が出した兵力は約220万人。内訳が日本軍が210万人で北京政府が10万程度だ。

 日本や北京政府は背伸びすればまだ人数を絞り出すことは可能だったが、兵力差がこれだけしかないというのにソ連が攻めて来たことを考えると不測の事態に即応するためには予備兵を残しておくことが賢明だと判断してこの兵数となった。


 そして陸海空軍の装備面において。


 まず、今次大戦において日本軍が重視した制空権を巡る空の戦いへの備えに対してソ連軍が極東に配備した航空兵力は約5000機に上った。史実における太平洋戦争開始時に日本軍が保有していた航空兵力がおおよそ4200機だったのを考えると相当な攻勢を仕掛けてきていることが分かる。

 では、この世界線の日本空軍はどうなっているのか。

 残念ながら、世界大戦が始まる頃のソ連軍のように月産750機などという航空兵力拡充は行っておらず、関東軍に配備出来た航空機の数はソ連軍が極東に配備した5000機を少し上回る程度だった。しかし、その質はソ連軍を遥かに上回っている。それは急造のソ連空軍に対し、熟練度を高めた人材という面で見てもそうだが、航空機そのものの質についても同様に差があった。

 ただでさえソ連赤軍の航空戦力に対し、それを上回る性能を持つレシプロ機を大量保有している日本軍だが、実はレシプロ機については開発を終了し、量産のみに傾注していた。一応、レシプロ機に関する量産体制は整っており三直フル生産をするのであれば戦時経済の名の下に総動員せずとも月産600機は生産可能だった。

 ただ、レシプロ機の大量生産は仮に実行されてもそう何年も続かない予定だ。日本軍にはまだ隠し玉が用意されているのだ。それは銃火器や爆薬であったり、防弾設備であったり、レーダーであったり、無線機であったり、そもそもの素材自体であったり様々な分野に渡ったが、その中でも一線を画しているものが噴式エンジンと誘導弾だった。これらの発明は仮にソ連によってレシプロ機が鹵獲され、新型レシプロ機が開発されたとしても数年単位で日本軍が優位に立ち回ることが出来ると軍部に認識させるには十分な成果を出しており、軍は最新型のレシプロ機を惜しみなく出すことが出来たのだ。


 次に海軍だが、極東方面に配備された艦隊は言うまでもなく日本軍が量、質ともに圧倒的だった。いかに1937年より海軍艦艇大建艦プログラムを実施してソ連が海軍を急拡大させたとはいえ、碌に訓練もしていない急造の海軍では大日本帝国海軍を相手取ることは出来ない。

 ましてやフィンランドとの冬戦争を経て国際連盟より除名されたソ連はヨーロッパ方面において北海、ジブラルタル、スエズ運河という海の玄関三点セットをイギリスに封鎖されている。一応、ソ連には北極海航路という手もありはするが、まだ運用には不安が残るレベルだった。

 ただ、ソ連軍は基本的にランドパワーで成立している国であるため、海軍における不利は織り込み済みだった。日本軍の補給を切ることは出来ないが、陸軍で勝利して現地を占領すれば問題ないというレベルの認識だ。そのため、現地を占領する戦力である陸軍における戦力差がソ連軍にとってはこの戦いにおける最重要項目になる。


 その陸軍における戦力は以下の通りだった。


 陸軍動員兵力はソ連モンゴル連合陸軍約215万に対し日中連合陸軍約193万。ソ連軍の戦車・自走砲が約5000輛に対し、日中連合軍は約1200輛。迫撃砲を含む火砲がソ連・モンゴル軍が合計で約27000門に対し、日本軍は約15000門。いずれも劣勢。

 ただし、日中連合軍はソ連との国境に14の要塞群を設置しており、いずれも堅牢な要塞でそう簡単にソ連軍の突破を許さない構えだ。

 また、満州は南側を除く三方が山岳と森林に囲まれて天然の要害を形成していた。特に満州北部をソ連と隔てるようにしてある興安嶺こうあんれい山脈は東部方面においては比較的なだらかな丘陵地であるが、西部方面においては大興安嶺山脈と呼ばれ、標高1000メートルに達す山々が連なっており、深い森林に覆われている。その上、僅かな峠道も湿地帯となっており、機械化兵力の通行に適していなかった。そのため、予想侵攻ルートが限られており、守るに易く、攻めるに難き状態が予想された。


 つまり、装備や数の上では日中連合軍が劣勢におかれているが地形・設備上は優勢であると言える状況だ。


 この状況に対し、ソ連側の基本方針としては中ソ紛争時の侵攻とあまり変わらないものだった。即ち、ソ連が半包囲している満州に対して西側は衛星国であるモンゴル領のノモンハン方面から侵攻。

 また、北はほぼ満州の正面である北東に位置するブラゴベシチェンスクから攻撃。そして最後に南東部に位置する綏芬河すいふんがの三方から攻撃を行い関東軍を殲滅することを目標とした。

 この目標に対し、ソ連・モンゴル両軍は火力主義の下に結集した砲兵部隊を西部のノモンハンと北部のブラゴベシチェンスク方面に集中運用して関東軍を満州国境に張り付け、同時に新鋭の機械化兵団を守りが堅い満州東部戦線に大量投入し、牡丹江方面より満州方面に位置する関東軍の後方を切り崩して包囲殲滅せしめんとする。


 要するに、冬戦争での成功体験と失敗体験を基にした戦略だった。


 これに対し、日本軍は―――

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