死の淵
壱心が眠る病室にとんぼ返りした壱心家一行。彼女たちは香月組暗部によって取材の嵐を防いだ後に病院に入り、壱心が眠る病室に真っすぐ向かった。念のため入り口で恵美による身体検査を受けて全員が入室した後、綾名が口を開いた。
「では、投与します。投与方法ですが……」
「量が量ですので、舌下投与ということで恐らく問題ないかと」
仙人の霊薬が入っているのは桜が幼女の姿だった頃の小指ほどしかない試験管だ。しかもその内容物は既に50年以上も昔に咲が半分飲んでいるため、意識して飲むという行為を取らなければ口の中を湿らせる程度にしか残っていない。
だが、その微々たる量で人体を簡単に変異させるということはこの場に居る綾名と恵美を除く全員が知っていた。
「舌下投与、ですか」
「はい。壱心様の口の中、舌の下に流してくれれば」
「わかりました」
震える手で綾名が霊薬が入った試験管の蓋を外す。これまで嗅いだことのないような非常に甘く芳しい香りが綾名の鼻腔を擽った。
「これが、霊薬……」
「早く流し込んだ方がいいです。匂いがしますよね? 揮発する物質です」
「わ、わかりました……」
リリアンの言葉に促されて綾名は迅速かつ丁寧に壱心の口を開いて舌の下に試験管を突っ込み、内容物を流し込んだ。
空になった試験管が壱心の口内から引き抜かれる。
「これで……」
「お願いします……!」
祈る一同。
効果は、劇的だった。
突如として壱心の身体が大きな脈動をしたかと思うと痩せ衰えていた肉体に変化が訪れる。
「おぉ……」
「こ、これが仙人様の霊薬……」
室内にどよめきが広がる。壱心の身体の至る所が常識では考えられない速度で修復され始めていた。それは反乱軍によって与えられた傷だけではなく、彼らの襲撃後に唐突に訪れた老化現象に伴う変化も分け隔てなく時計の針を逆転したかのように変化していく。その際に増えた体積はどこから来たのか不明。まさに非現実的な光景が目の前で展開されている。
そして。
壱心は勢いよく目を覚ました。
「ッ! ここは!?」
「おじい様!」
「綾名、傷に障るやもしれません。落ち着きなさい」
縋りつこうとした綾名を亜美がすぐに止める。その声を聞いて壱心はすぐにそちらに顔を向けた。
「亜美、状況は」
「まずは落ち着いてください。賊は鎮圧されました。ここは病院です」
「……そうか」
ふっと気を抜く壱心。そして周囲に目を向けると福岡にいたはずのリリアンたちの姿が目に入った。
「リリィ? それに宇美もいるじゃないか。どういう……」
「ご無事で、なによりです……」
「ホント、もう心配しましたよぉ……」
滂沱の涙を流しながらやっとの思いでそう告げる二人。会話が出来るような状態ではないと判断した壱心は再び亜美に目を向ける。
「……詳しい情報を。取り敢えず、撃たれたところまでの記憶はある。咲夜は……」
「咲夜は……あの子は、立派な最期でした。あの子のお蔭で壱心様は一命を取り留めたと言っていいでしょう」
「そう、か……残念だ」
四半世紀を共にした仲間が奪われた。しかも、壱心の記憶ではこれから第二の人生を歩むとして楽しそうにしていた矢先の出来事だ。自分が見送りに出なければ何事もなかったかもしれないと考えると深い悔恨の念が残る。無言になる壱心だが、亜美は続けた。
「落ち込んでいるところ申し訳ありませんが、報告を続けます」
「……分かった」
「壱心様を襲った賊ですが、単独犯による突発的なものではなく、武力によって政権転覆を目論む反乱部隊でした。賊は既に鎮圧しており、反乱の首謀者は自決もしくは裁判にかけられているのですが、壱心様が重傷の外に高橋是清さんの暗殺成功などにより今後の治安維持に懸念が残ることになりそうです」
「反乱だと? 暗部の網にかからなかったのか」
壱心の目が室内の入口で待機していた恵美に向く。彼女はびくりと身体を震わせると声も震わせて言った。
「申し訳ございません。暗部にも造反者が出ておりました」
言い終わると即座に深々と頭を下げる恵美。壱心は険しい顔をした。
「何だと? 入部に際して徹底的に裏を洗い、常時相互監視を行うことに加え、定期的に裏取りするようにしていたはずだが……」
「それが……」
恵美は造反者から聞いた内容を要約して壱心に経緯を説明する。入隊時より香月組を通して国民のために働くという意思を持っていた若い青年たちだが、社会民主主義の監視などを熱心に行っていたあまり逆に思想に染まってしまったこと。その思想が部隊全域に広がったことで相互監視が意味を持たなかったこと。香月組の上層部でも一部が離反していたことにより入隊後の定期検査も掻い潜られていたこと。
すべてを聞いた壱心は痛切に顔を歪めた。
「専門性が高いという理由で各部隊を分断し、固定の仕事を与え続けていたのが災いしたか……」
「誠に申し訳ございません! 今後同様の事例がないように徹底致します!」
「あぁ、そうしてくれ」
壱心はそう言うと再びベッドに体重を預けた。
「はぁ……色々と考えるべきことが多い上、まだ聞いてないことが多々ありそうだがそれにしても空腹だ。何か食べる物はないか?」
「すぐ手配いたします。ですが、その前に念のため身体を検めさせてもらってよろしいでしょうか?」
「そう言えばそうだな……俺の状態はどうだったんだ? 気を失ってからどれくらいが経過したんだ?」
桜の言葉に従って患者衣を脱がされながら壱心は自身の状態について尋ねる。それに答えたのも桜だった。
「壱心様は意識不明の重体で10日間眠っていました。そして、このままでは生命維持が危ういということで誠に勝手ながら雷雲仙人の妙薬を使用いたしました」
「……通りで体の調子がいいわけだ」
皮肉気に壱心はそう言うと少し黙った。未来のために残しておきたかった物を勝手に使われて思うところがあるのだが、自分のために色々と考えた末の結果だと考えると無下にするのも憚られる。そんな葛藤の最中に壱心は身体を検められた。
「……全ての傷が埋まっていますね。念のため、X線撮影で体内も見たいと思いますが、一先ずは完治と見ていいでしょう」
「おじい様っ!」
「まだダメです」
「大お母様!」
感動の抱擁を再三妨げられて綾名は不服そうだ。そんな彼女を見て壱心も薬の使用に思うところはあるが一先ずは治ったことを喜ぶことにするのだった。
壱心が奇跡的な回復を遂げ、状況把握に努めていた日の夜。
香月組が有事の際に備えて至る所に作った地下道のとある場所に電灯が点いた。
「……来たか」
そこにいるのは手を釘で打ち抜かれた老人。つい先日まで日本の経済界の表舞台で栄華を誇っていた香月組の最高経営者、香月利光とその直系男子三人だった。
彼らは衰弱し、憔悴した顔で地上から降りて来た仮面をつけた男たちのことを見たが、彼らが自分たちを害する道具以外に何も持っていないことを確認するとその顔を俯かせる。
そんな彼らを一瞥して天狗のお面をつけた男はしゃがれた声で告げた。
「壱心様は目を覚まされたようだ。一命をとりとめ、無事に回復された」
「……そう、か」
利光はそう言って瞑目した。彼の計画は当初の目的も果たせずに完全に失敗したのだ。彼の息子たちは壱心に会って釈明の機会を求めているがそれは無理だろう。
(光彦、明彦、浩二……巻き込んですまない……)
上手く行けば世界に名だたる大組織、香月組を手中に収めこの世の栄華を極めた様な生活を送れただろう。だが、結果は敗者として惨めな状態で死を目前としている。息子や孫たちの生にしがみつこうとする声に利光は申し訳なさでいっぱいだった。
「利光、お前は静かだな?」
狐の面を被った老人が利光に声を掛けて来る。利光はそれに毅然と答えた。
「……これでも香月の名の下、人の上に立つ者として育ったのでね。もう無様な真似はしないさ」
「ふん、よく言う……」
「それで? 俺たちをこれからどうするんだ? 伯父上は殺せとでも命令したか?」
利光が狐の面の男にそう尋ねると彼は利光の言葉を完全に否定した。
「いや、我々が貴様らを監禁していることは壱心様に報告はしていない。お前たちは叛乱軍を憎む一般市民の手によってとらえられていることにしている」
「……何故、そんな回りくどい真似を」
「無論、貴様が万が一にでも許されることがないように、だ。貴様らは反乱軍の首謀者の中でも直接壱心様を弑逆しようとした大罪人ということで国民の憎悪を向けられているから幾らでも言い訳は立つ」
狐の面の奥底に見える目がぎらついた。そんな彼の言葉に光彦が噛みついた。
「待ってくれ! 何度も言ってるが俺たちは何も知らない! 親父が勝手に!」
「その件については我々も一考の余地がある。叛乱軍扇動者の家族とはいえ、直接的に罪を犯したわけではないからな……」
「だったら助けてくれ!」
「……我々の案を呑むのであれば」
狐の面の男はそう言って条件を告げる。香月家の名を使うことの禁止や華族からの除名、現在ついている役職からの解任に免官などを中心とした香月組との決別と香月家の秘密事項について外部に一切漏らさないことや光彦から数えて親子三代は
当然、簡単には受け入れがたいものだったが、本土では利光が壱心のことを過激派に売ったということは知られているということが決め手になったのだろう。不承不承ながら彼らは男たちの言葉を飲むことにした。
そして光彦たちからも見捨てられた利光については狗のお面をつけた男が告げた。
「そして利光。お前は我々の手によって殺す」
「簡単にくたばってくれるなよ? 自決は許さん。我々が刺した短刀の数だけお前の家族が助かると思え」
「……好きにしろ」
その後。
全身を刺され死亡した利光と全てを捨てて日本の最北端へと向かった利光の家族についての報告が壱心に上げられることになる。
それと同時にかつて暗部だった老人たち数名が割腹自殺を行ったということも彼の耳に入るのだった。
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