未来へ繋ぐ

 1937年。史実では盧溝橋事件を端に泥沼の日中戦争が始まることで中ソ不可侵条約が結ばれ、ソ連による共産主義の国際影響力の拡大に対抗する形で日独の防共協定にイタリアが加盟した年のこと。

 死の淵より蘇った壱心は自身が襲撃されるという三三一事件によって失われた時間を取り返す以上に忙しい日々を送っていた。


「ふぅ、一息入れるか」

「そうですね」


 鉄心に香月組を任せてから減少気味だった仕事量に慣れ切っていた桜が僅かな疲労を滲ませながら壱心の声に応じ、美咲に視線を移す。視線を受け取った美咲が使用人を呼び出してお茶の準備をさせることで休憩時間となった。


「全く……引退した身だというのにこんなに意見を出し続けていたらそこかで不満が噴出しそうなものだが」

「皆、嬉々として従ってますね。心配になります」


 壱心は報告書や稟議書のファイルを机におき、桜は報告用資料の作成を中断して席を立った。報告書や稟議書の内容はクーデターによってもたらされた軍部、政界などの混乱の事後処理に対する物に関連するもので、親香月組の新しい政権が取る行動についての是非を問うものだ。

 それらの処理を一度中断し、壱心と桜はこの部屋に入ることが許された親しい者が待つために用意された来客用のテーブルに着く。そこにお茶会の準備がされるまでの時間、彼らは仕事量が以前にも増していることをぼやいていた。ただ、一方で意見を仰ぐ者たちの気持ちも分からなくはなかった。

 最近は国内情勢の変化のみならず世界でも様々な動きが活性化しており、このままでは現政権のみならず日本という国が時代の流れに取り残されるかもしれないという焦りが出ても仕方のない状態だったのだ。

 直近の世界の動きの例を挙げてみると1935年にはほぼ完全雇用を実現し、世界恐慌から復活したドイツがファシズム政権の下に再軍備を宣言。それと同時期にイタリアも同じくファシズム政権の下、エチオピアに進軍。これらの動きに対し、国際秩序を守るはずの国際連盟が名ばかりで大した力を持たないことが顕在化していた。

 続く1936年には日本においても武力による政権転覆を狙った三三一事件が発生。日本がその処理に追われている合間に欧州ではドイツ軍が非武装地帯と定められていたラインラントに進駐し、新たな火種を生んでいた。

 上記のようにファシズムに走った国家が経済を立て直して軍拡を続ける中、同様に共産主義国家もその力を強化していた。共産主義の最大輸出国であるソ連は1928年に制定した第一次五ヵ年計画と1932年に制定した第二次五ヵ年計画により1928年から1937年までの国内総生産が年率4.6%も成長した。

 また、ソ連軍も1934年には60万人だった兵力を94万人に増やしており、1935年には更に36万人を追加している。更に1937年には赤色海軍を設置することで周辺国に対し圧力を与えていた。

 これらのファシズムと共産主義の台頭の影響は1937年に発生したスペイン内戦でも見ることが出来るだろう。自由主義が停滞する中で生まれた新しい流れに日本も遅れてはいけないのではないか。そういう空気が漂っていたのである。

 そんな空気に対し、香月壱心という存在は大きかった。動乱の幕末期よりこの国の舵取りをして来た怪物で、これから先の展望についても持ち合わせている傑物だ。

 取り敢えずお伺いを立てておけば何とかなる。そんな考えの下、壱心は国のために酷使され、鉄心に香月組の仕事の大半を任せておきながらも時間に追われる生活を送り始めていた。ただ、この間に鉄心に仕事を任せていた少しの間に変化していることが色々と見えて来ていた。


「行政の縦割り、予算の奪い合いといがみ合い、出来る限り潰してきたつもりだったが、俺が睨んでいる前ではいい子にしていた奴らが隠していただけか」


 壱心が眠っている間に発足することになった新香月組の政権と三三一事件について立て直しを図ったことで新たに台頭して来た勢力との間で揉めている案件を思い出しながら壱心は軽く目を抑える。それに桜はさも当然と言わんばかりに応じた。


「まぁ、そうだと思いますよ。制限がある以上、争いの種が消えることはないと思います」

「この状況下で足の引っ張り合いをしていては今後が憂えるところだが」

「今の時点で表面化したことで壱心様が存命の間に対処出来るという点ではまだマシですね。特に軍部の暴走はそれを止められる壱心様がいることで大事に至りませんでしたし」


 壱心は今後を憂いているが、桜の言う通り悪い点が後になって発覚するよりマシであるとも言えた。特に、軍部の暴走が一度発生したことで治安維持の関係については大きく転換することになる。

 諸般の事情を鑑みた上で、という前置きはついているが外国と国境を接していない帝国本土においては定められた施設以外に銃火器を持ち出すことについて今まで以上に厳しい許可制とすべきではないかという議論が巻き起こっているのだ。

 これは三三一事件によって軍に対する見方が変わったことで巻き起こり、議会でも取り上げられるようになった。当然、天皇大権である統帥権に対し議会が口出しするなという軍部による強い反撃に遭うことになるのだが、未だに強く軍部に対して影響力を及ぼす元老、香月壱心を帝国軍の人間が攻撃したという事実を突かれてしまえば軍部の強硬な勢いは萎んだ。

 代わりに、軍部は日露戦争で従軍した国民などに武器が流れている現状に対し警察だけで治安維持できるのかという問いかけを投げてきた。これによって国民の銃規制についても議論が巻き起こることになる。

 そして議論の結果、1937年より帝国本土では銃砲刀剣類取締法が強化されると共に国による期限付きの銃の買い上げが実施されることで国民の銃保有率を下げることと治安良化の実現が期待されることになった。


 これらの事件の原因となる三三一事件に遭遇し、国民の意識を変えた壱心は微妙な気分で成り行きを見守っていた。


(まぁ、襲われてよかったとは全く思えないが……俺が知る時代の日本の美点である治安の良さを持続できそうっていうのはいいな。尤も、この後の大戦がどう転ぶかは分からない以上、こんな話なんざ吹き飛ぶ可能性も高いんだが)


 複雑な思いながら、取り敢えずは転んでもただでは起きないという精神を発揮する壱心。現時点で話を通しておけば将来の種になる。そんな思いで国内の整備を行っていた。


「軍部の暴走は止められた、か……まぁ、一応は止まった形になるのか」

「えぇ、そうですね。どうします? これからのことを考えると一部の急進派が言う通り、久し振りに帝国憲法第73条に則って一部改憲してもいいかもしれませんが」

「……いや、それは必要ない。国体明徴声明で天皇機関説を保持出来た以上、少なくとも第二次世界大戦が終わるまではこのままの方がいい」


 少し性急な桜の発言を止める壱心。いつも対話の中でこれからやるべきことを導く問答法で話を進める桜だが、今回は珍しくかなり外れた話をすると壱心は感じた。


(……まぁ、変えるなら俺がいる時、しかも国民が現状からの転換を求めている今がいい機会だとは思わなくもないが……これから大きな世界的転換が起きるという状況で無用な混乱は生みたくない)


 日本からすれば大きな事件が起きた翌年という印象が強いこの年だが、世界では更なる動きに対する前段階という見方が強い。世界が大きく動く中で壱心は将来に残すべき薬を使われた身として、未来をより良いものにするための責務を背負い直して職務に邁進するのだった。



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