夜分の報告

「おじい様、お加減いかがですか?」

「……綾名、来ていたのか」

「はい」


(随分と機嫌が悪そうですね……)


 夜分に福岡の香月本邸を訪れた綾名は壱心との面会で彼が非常に不機嫌であることを一瞬で見抜いた。忙しい合間を縫っての面談で綾名としても用事はあったが、彼女はまず壱心の気分を軟化させることに決める。


「随分と険しい顔をされていますが、何かありましたの?」

「……どうせ明朝には大々的に報じられる情報だ。読むといい」

「ありがとうございます……」


 壱心が机の上に投げ出した簡潔な文書を綾名は一読する。そこには日本が支援している中華民国北京政府とソ連が吉林省琿春こんしゅん市で衝突したという報告が記載されていた。


(……中国とソ連の戦いですか。しかも、朝鮮付近での)


 時は1938年晩夏。春先にはドイツがオーストリアを併合してエルツブルク鉄鉱山とオーストリアの資産を奪い、次は民族自決の名の下にチェコ=スロバキアからズデーテン地方を割譲させ、対ドイツの要塞線と高品質な銃火器を手に入れようとしていた頃。日本が支援する中華民国北京政府とソ連の間で大きな動きがあった。史実では満州国とソ連の間で起きた張鼓峰事件のようなものだった。


「拝読させていただきました」

「どう思う?」

「……素人意見でしかないのですが一先ずは北京政府軍でソ連軍の抑え込みが出来た上、関東軍の損害が少ないのでよいのではないかと」

「そう思うか……」


 綾名の率直な意見に壱心は軍事に疎い国民の目線で見た場合の今回の出来事の見方を理解する。一般的な日本人の感覚ではこれまでも中ソでの紛争は何度も起きているがその度に日本の物やサービスが売れるという程度の認識でいるため、そこまで問題意識は抱いていないようだ。

 だが、これからの歴史の流れを知る壱心は今回、ソ連が大規模に動いているというのに日本が大きく動いていない現状を問題視していた。今回の一件ではソ連が二万人を動員し、北京政府も同様に万を超える軍を派兵した。それに対し、日本軍が動かしたのは二千名程度だ。これには様々な理由があったが、主として先の三三一事件によって軍部を見る目が厳しくなっていることや議会によって統制を図ろうとしていたことが楔となっていた。


(本土での治安維持のために色々とやっていたら軍部が委縮してしまった。きちんと本土と国境付近での話は分けるよう意見したんだがな……)


 苦々しい気分になる壱心。そんな彼の内心を慮るように綾名は尋ねて来る。


「因みにおじい様はどう思っていらっしゃるのですか?」

「……俺の考えは流石に教えられん。軍が動く機密事項になるからな」

「そうですか……では、先程の報告書は何故私に?」

「これからまた忙しくなるから今日の面談はあまり時間がないということを伝えるに当たっての説明資料だ」


 壱心はそう言うと溜息を吐く。その姿には疲労が見えた。そんな壱心の姿に綾名はここのところ壱心や亜美など引退したはずの世代が働き過ぎではないかと思っていた意識を改めて抱く。当然、彼女は二人に休んだ方がいいと言うのだが、壱心も亜美も彼女の言葉を聞き入れてくれない。


「お時間が取れないくらいに忙しいのでしたらどうぞお休みください」

「悪いな。用があって来たのだろうに」

「いえ、放っておけば働き続けるおじい様がちゃんとお休みしているか見に来ただけですのでお気になさらず。因みにこれから仕事に戻るのはダメです。ちゃんと休んでいるのを見届けますのでお休みください」

「いや、今日はストレプトマイシンに続く結核への治療薬としての4-アミノサリチル酸の混合投与について話をするとか何とか言っていた気がするんだが? それにこの後も色々とやることがある「ダメです」……」


 笑顔でそう告げる綾名に対し、顔を顰める壱心。ただでさえ機嫌が悪かったというのに更なるストレスがかかっていた。だが、綾名の言い分も分からなくもない。綾名は壱心の身を純粋に心配してくれているのだ。無下にするのも憚られる。


「……はぁ。寝るにしてもまだ八時前だ。休むのはお前の話が終わってからでもいいだろう?」

「ちゃんと休んでくださいね? 今日はお泊りするのでちゃんと見てますよ?」

「検討する。で、話は?」


 壱心が綾名の忠言を適当に聞き流して話を催促し、綾名が笑顔で少し無言になった丁度その時。扉が少し性急にノックされた。急ぎの用件かと見た壱心と綾名は少し話を中断して来訪者の対応に出ることにする。


「失礼します」


 入って来たのは美咲と桜だった。二人は堅い表情で入室すると手に持っていた書類を机の上に並べる。


「……何だこれは?」

「健康診断の結果です」

「拝見しても?」


 多少は医学を齧っている綾名が内容を確認したいと桜に確認すると桜は首肯した。


「見ても構いません」

「……俺の同意なしで勝手なことを」

「壱心様を止めるためなので致し方なき事かと」


 桜の言い方に壱心は嫌な予感を覚えると共に表情を歪めた。測定時点でかかりつけの医師が険しい顔をしていたことを思い出し、溜息を吐いて桜に告げる。


「……そんなに悪いのか」

「えぇ。投薬時の若返った状態から去年の時点でもかなり悪化していますが、今年は更に急落しております」

「そうか。だがまぁ、既に90を超えたんだ。色々おかしくても仕方ない。動ける内に出来る限りのことをやっておくべきだな」


 この年齢だ。既に死が近いのは理解している。壱心は今の内に出来ることをやっておこうと決める。それに対し、書類を見ながら話を聞いていた綾名は堅い表情のまま告げた。


「……そうですね。取り敢えず、鍛え直しは禁止ですね」

「ん? あぁ……まぁ、そうだな。軽い運動程度に抑えておこう」


 一昨年には賊相手に不覚を取ったため、鍛え直しを始めようと身体作りをしていた壱心だがそれは綾名の言う通り中止することにする。


「それから、お仕事の量も減らしましょう」

「……それはちょっとな」


 鍛え直しの取止めに対し、今度は一転して難色を示す壱心。今、自分が請け負っている仕事を他人に任せるというのは少し厳しいものがあった。しかし、綾名はそうは思わないようだ。


「おじい様。今、日本が大変な立場に置かれているのは分かっております。近くではソ連と中国の問題があり、遠くでは最大の貿易相手であるアメリカが不況でこの国の輸出にも影響が出ているのは重々承知致しております」

「そうだ。その辺りが少し落ち着けば」


 綾名が理解を示した。壱心がその話に乗っかろうとする。その前に彼女は壱心の話を切った。


「ですが、そういう類の話はこれからも出て来ます。その際、いつまでもおじい様が対応するというのは現実的ではありません」

「……いや、まぁ、そうだが」

「少しはお父様たちに任せてみてはいかがでしょうか? いえ、任せるべきです」

「そうですよ、壱心様」


 綾名の言葉に桜も乗って来た。壱心は彼女たちの言葉にも一理あるとは思いつつも腕を組んで考える。


(確かに、二人の言い分は尤もだ。来年から世界大戦が始まるということがなければ素直に応じられたんだが……)


 軍部の消極的な動きは自発的な戦争参加に対して歯止めがかかっていると見ていいだろう。日本の経済状況も満州油田や国内需要、そして中ソの紛争によってある程度の推移で移行している。ここまでは問題なかった。

 だが、昨年の秋から再びアメリカを襲っている不況によりアメリカでは再び日本へのバッシングが加熱している。彼の国は自国の立場を脅かす国を許さない。このまま不況と貿易摩擦が続けば何らかの報復行為に出て来るだろう。

 そうなれば日本も黙っている訳にはいかない。そうやって報復が報復を呼び、経済戦争へと続き、更なる発展を遂げて戦争へと至る可能性が高いだろう。


(せめて、第二次世界大戦後の厭戦ムードがあれば、多少の失敗をしても取り返しがつくから任せられるんだがなぁ)


 ミスが許されない盤面を後進に任せることで彼らの成長を促す。これもまた一手ではあるだろう。だが、リスクがあまりに大きい。それを考えると自分が考える通りに進めていくべきか。壱心は悩んだ。


「……まぁ、今の時点でどこか悪いというわけじゃない。取り敢えず訓練を軽い運動程度に下げて仕事も来月から9時を回ったらやめることにして様子を見よう。仕事に関してはこちらに回す分はある程度減らすということで」


 結局、壱心は中途半端な形で健康診断の結果を受け入れる。彼の言葉を受けて微妙に難色を示す二人だが、これ以上の譲歩は難しいと見て彼の提案を受けるのだった。




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