独ソの膨張

 1939年8月23日。


 この日は世界史に残る日となった。決して相容れるはずのない間柄であるドイツのヒトラーとソ連のスターリンが手を組み、独ソ不可侵条約を締結したのだ。


「とうとう始まるか」


 世界に衝撃を与えた出来事に対し、自宅で電報を受け取った壱心は短くそう呟いたという。彼は自国が戦争状態にないことを内心で確認し、今後も出来る限りその方針で進めたいと思いながらも一つだけ気がかりな点を抱く。


(張鼓峰で紛争はあったが、ノモンハンではなにも起きなかったな……これが、妙な布石にならなければいいが……)


 しかし、実際になかったものをどうこうすることなど出来ない。壱心は不安を拭い捨てて、すぐに電話で首相官邸に連絡。9月から始まる激動の時代に対処すべくまずは落ち着いて情勢を確かめることを選ばせるのだった。


 そして迎えた同年9月1日。


 ドイツ軍、ポーランド侵攻。


 8月31日にドイツが起こした自作自演の事件、グライヴィッツ事件(ポーランド軍によるドイツ領のラジオ放送局への架空の攻撃)とポーランド国内でのドイツ人への迫害。並びにダンツィヒ割譲を始めとする16箇条の要求に対する無回答を開戦理由として、ドイツはポーランドに進軍した。


 開戦時の状況はポーランド不利。1938年にチェコ=スロヴァキアがズデーテン地方の一部割譲を行って以降、同国西部の大部分がドイツの軍門に下ったことにより北は東プロイセン、南はスロヴァキアまでの約1400㎞ものポーランド半包囲網が既に形成されていた。ポーランドはそれをドイツ軍の半数の兵力で守らなければならなかったのだ。

 ただし、1939年の9月3日には9月2日に英仏よりドイツに送付したポーランドからの撤兵に関する最後通牒への返事がなかったことで英仏両国によるドイツへの宣戦布告がなされていた。そのため、両国の援軍を当てにして時間稼ぎをしながら反転攻勢を狙うのがポーランドの主目的となった。


 さて、ドイツによって半包囲網を布かれた状態で防衛し、英仏の援軍を待つことになったポーランド軍だが、彼らは寡兵にも関わらず重点箇所に多少兵を厚く配備する程度で軍の殆どをドイツ国境付近に薄く広く張り付けてしまう。

 寡兵で時間稼ぎの防衛戦をするのであれば戦線を後退して縮小し、要衝を守るべきだが、ポーランドはそれを選べなかった。これには幾つか理由があり、ポーランドの資源や工業、人口の多い地帯は過去にドイツ帝国より奪ったものが中心であるため、ポーランド西部に多く存在していた上、東部は1920年にソ連との戦争で手に入れたばかりの外様で民族的にも異なる人種が多く住んでいたのだ。そのため、ポーランドは自国経済と自国の中心民族を守る為に国境に薄く広く軍を配備せざるを得なかった。それに対しドイツ軍は南北に軍集団を集中させて包囲殲滅を目指す。


 結果は推して知るべきこと。


 緒戦は奇襲や天候に恵まれた形で陸空共に善戦していたポーランド軍だが、平原の国という国名の通り、平原が続くポーランドでは自国の15倍もいるドイツの装甲師団や、性能でも差をつけられ、数の上でも4倍という差をつけられた航空戦力が本格的な攻勢を始めてしまえばそれらを止める術はなかった。

 薄く広い軍団編成では一度突破を許すと側背を突かれてしまうため、戦線後退を続け、開戦から僅か1週間でポーランドは首都ワルシャワ近郊までドイツ軍の侵略を受けることとなる。

 その頃にはポーランド空軍も敗北を迎えており、制空権を取られたことでポーランド軍の動きは丸見え、転進しようとしても機動力で負けているという有様。果ては9月17日よりソ連が民族保護の名の下に進軍。


 ポーランドは首都ワルシャワに籠って尚も抗戦を続けるも9月29日には陥落。10月6日には降伏し、ドイツとソ連、そしてリトアニアとスロヴァキアによって分割されてしまう。

 ただ、この戦争によりドイツ軍はかなりの被害を被ったため、英仏との戦争への即時移行は中断。そこから約8か月もの間ドイツと英仏の間で膠着状態が続き、所謂まやかし戦争が常態化することになる。


 動きを止めたドイツ対し、11月にはソ連が動いた。ソ連は自国第二の都市であり、革命発祥の地であるレニングラードとフィンランドの国境との距離が約30kmしかないことを憂慮し、フィンランド経由でドイツないし英仏がレニングラードに侵攻して来るのを恐れて彼の地の守りを厚くするためにフィンランドとの間で冬戦争を勃発させた。


 戦争が始まる以前の交渉ではフィンランドからレニングラードにほど近いカレリア地峡の割譲や首都ヘルシンキの目と鼻の先であるハンコ岬の租借などの代わりに係争地帯であったレポラとポロソゼロの広大な土地を渡すという条件でのソ連式の平和な交渉が行われようとしていた。

 これはフィンランドから第二の都市ヴィープリと対ソの備えであるマンネルハイム要塞線を奪って首都ヘルシンキの喉元に刃を突きつける代わりに二束三文をくれてやるという恫喝そのものだった。そんなものを受け入れてしまえばその後も国として舐められ続けるのは明白だったため、フィンランドは当然ながらこれを拒否した。


 その結果が冬戦争の勃発だ。


 国力差は明白。人口だけでもソ連1億8000万人に対し、フィンランドは370万人しかいない。ソ連が攻勢する出発点であるレニングラード周辺の人口だけでフィンランドの総人口に匹敵するレベルでの差があった。

 戦車もソ連がフィンランドの100倍近くの数を持ち合わせており、航空機に至っても約10倍の差。火砲の数ですらフィンランドはソ連の5分の1しか持ち合わせていなかった。その上、弾薬の備蓄も3週間分しかなかった。

 ただ、ソ連軍も決して楽観視できる状況ではなかった。兵力差や国力差はあるものの、兵站はレニングラードから伸びる1本の鉄道でしか運ばれて来ず、弾薬は2週間分を下回る備蓄。そして誰もが知るソ連軍弱体化の要因である大粛清の後という状態。


 この状況でソ連とフィンランドは開戦した。


 この戦争もソ連お得意の戦争口実のための偽装工作であるマイニラ砲撃事件(ソ連領マイニラ村でフィンランド軍による砲撃によってソ連軍将兵13名が死傷したとされるソ連による自作自演の事件)を契機として戦争が始まる。


 ソ連軍はまずフィンランドとの国境約1300㎞の戦線に沿って4個軍を配備。これはポーランド侵攻時のドイツ軍に似たような配備でドイツ軍に出来たことをソ連軍でも実現してみせるという意気込みを込めて行われたものだ。

 だが、当然ながら道路網が整備されていた平原の国ポーランドと極北の大地で森や湖沼に覆われた国フィンランドではあまりに条件が違い過ぎた。


 開戦から1週間は順調に攻勢を続けたものの12月初旬に入り雪が降り始めると最低気温-40度で6時間程度しか顔を出さない太陽の下、土地勘もないままに進んだソ連軍は戦車と歩兵を切り離され、各個撃破されていくことになる。

 加えて、この戦争で重要視されており、動かない目標ということで迷う余地のないマンネルハイム要塞線への攻撃も実施されたのは散発的な突撃のみでそう簡単に突破は出来なかった。毎日決まった時間で行われる砲撃や、特定の目標があるわけでもなく実施できるからという理由で行われた空軍の爆撃は殆ど無意味に終わっていく。


 その結果、緒戦はまさかのフィンランドの連勝。1940年を迎える頃にはソ連軍の戦線は膠着してしまっていた。その時点でのソ連軍の戦死もしくは行方不明が約2万名を優に超えたのに対し、フィンランド軍の被害は負傷者を合わせても2000名程度という仮想戦記でも稀に見るような戦果を挙げていた。これには流石のスターリンも攻勢の中断を命令。1月12日には外交交渉を再開する。


 だがそれはソ連軍再編制の僅かな時間でしかなかった。


 1か月の間にソ連軍は冬季戦の集中訓練が施され、戦車を刷新。全方面に対する攻撃を止め、要衝であるマンネルハイム要塞線のあるカレリア地峡に対しての集中攻撃に切り替えた。それに伴いソ連軍は開戦時の全兵力を優に上回る21個師団を集中運用することが出来るようになる。更に約3500門の大砲を揃えて最初の1日だけで30万発に及ぶ正確な砲撃をマンネルハイム要塞線に叩き込んだ。

 3000輛の戦車と1300の航空機の支援を受けたソ連軍はマンネルハイム要塞線に風穴を開けることに成功。その後はポーランド戦と同様に1度突破された穴を修復することが出来ずに継戦困難と見たフィンランド政府は1940年3月12日に講和することになる。


 講和を要求したフィンランドに対し、ソ連は開戦時の要求よりも厳しい条件で講和することを決定。フィンランドはカレリア地峡のみならずカレリア地域全体の割譲とその地域にあったインフラを喪失。ソ連軍は兵力の外に国際連盟からの脱退や英仏との関係、そして国威などに多大な代償を支払いながらも勝利と領土を手にすることに成功する。

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