事件の調査
帝都不祥事件が終結して一週間が経過していた。事件後、翌日には被害が明らかになっていたが、恵美は改めて事件についてまとめられた資料を手に取る。
帝都不祥事件は動員された兵力に比べて被害は軽微だったものの、官邸に居た高級官僚や警察官、その他私邸の警備員など、合わせて十二名が死亡。死者の中には大蔵大臣だった高橋是清も含まれていた。
また、重傷者も十名程出ており、被害者の総数は史実で言う二・二六事件に近しい数となっていた。
一方で、反乱軍の方は史実の二・二六事件と比較しても多数の死者を出している。自決者だけでも三十余名に上るという話だが、百人近くが死亡したという。同士討ちも含めてのことだが、反乱軍の総数が約900名であることを踏まえるとそれが非常に多い数字であることが分かる。
(これだけ派手に動いたら流石に暗部の存在も公表せざるを得ないと思ったけど……上手いこと隠し通されたわね)
それだけの被害があったというのに香月組暗部の存在が表沙汰にならなかったことを受けて恵美は複雑な思いを胸中に抱く。
情報操作はお手の物とはいえ、今回は上手く行き過ぎたと言えるくらいの出来栄えだった。今回の騒動で表に出てしまう可能性があった香月組暗部の存在だが、恵美は非常事態の混乱を上手く利用して事実の中に自分たちの存在を織り込み、その存在を隠し通せたのだ。
それが出来たのは裏で暗躍している人がいることを忘れさせるくらい大きな出来事が表であったからだろう。しかし、その出来事を喜ぶ気には微塵もなれない。思考がそちらに向いたことで恵美は苦い顔になる。
(目先のことすら考えられない破滅思考者共が……あぁ、写真すら許せない!)
恵美は忌々しそうに事件の首謀者たちについて書かれた新聞に目を向ける。新聞の一面を飾っているのは事件の被害者たちと本日、軍法会議を受けることになっている反乱軍の首謀者たちだ。
(……私直々に手を下したいところだけど、法の手に委ねなさいとのことだから)
亜美の指示で涙を呑んで己の感情を殺した恵美。彼女の視線の先にある新聞は昭和維新の精神を語り、困窮する農村の現状を憂いて貧富の格差を拡大させている奸臣を排除しようと立ち上がったとアピールしていた青年将校たちの言い分が今回の事件を否定するための材料としての引用元として掲載されていた。それはどの新聞を見ても同じことであり、各社が論調を揃えて今回の蛮行は一切受け入れられることのない身勝手な言い分に基づいたテロ行為であると再度強調されている。
これは新聞社や通信社が大口、もしくは最大手のスポンサーである香月組の意向を受けているとはいえ、概ね国民感情と一致する物だった。天皇陛下と、明治維新からの英雄である香月壱心の両方を敵に回して同情を得られる程、無名の青年将校たちに人徳はない。
彼らを悲劇のヒーローとして持て囃すのは世間と逆張りをすることで売り上げを狙う三流記事くらいなものだ。それもまた一応情報であるため、恵美の下に届けられている。恵美はそれを手に取ると一目見てぐしゃぐしゃに握り潰した。
(……もうあそこの記者には情報を流さないようにしましょう。干上がれ、ゴミ)
個人的感情では件の三流出版社に圧力をかけて取り潰したい勢いだが、恵美は私怨を押し殺してはしごを外す程度に留めておく。ただ、個人の動きは否定するつもりもないので善良なる一般市民によって抗議や非難の手紙が送られることになるだろう。だが、その程度では恵美の心は晴れない。
(イライラする……!)
何かに八つ当たりしたい気分の恵美。そんな彼女の下に誰かが来る気配がした。今度は何の報告か。扉がノックされると同時に恵美は入室許可を出した。
「失礼します」
「今度は何?」
入室して来たのは彼女の忠実な部下である中根だった。彼は恵美とその周囲に目を向けるもすぐに恵美のみに目を向けて書類を渡しながら報告する。
「目下、反乱は鎮圧されたという見通しが立ったことで内閣が倒れる見込みです」
「でしょうね。で、いつ?」
資料を受け取ってざっと見出しに目を通しながら恵美は結論を問いかける。中根は色々と言いたい言葉を飲み込んで答えた。
「……来週中には、そうなるかと」
「ふーん。後任は?」
「広田さんになるとのことです」
「広田さんね……確定?」
二人が言う広田は壱心の政治的な後継者の一人である広田弘毅のことだ。先の事件では立憲護国党の総裁として計画段階では襲撃の対象となったが、警備が厳重だったことで難を逃れており、現在は事件の処理に奔走している。
それを踏まえた上で恵美の問いに中根は頷いた。
「牧野さん、木戸さん、西園寺さんが主宰の重臣会議で決まったことです」
「じゃ、確定か。因みに中身はどんな感じ?」
「陸軍大臣が引責辞任。次は古賀さんになりそうですね」
「……随分と親香月組で固められることになるじゃない」
皮肉っぽくそう告げる恵美に中根は忖度でしょうと答えた。それが何に対する忖度なのかは敢えて問わずに恵美はそんなことよりも、と話題を切り替える。
「で、今回の事件で裏を引いていた奴の調査は進んでるのかしら?」
「はい」
「進んでいるの? なら、詳細を……」
予想していた答えとは異なる言葉を聞いた恵美がそう答えると中根は言い辛そうにしながら口を開いた。
「……詳細は不明です。ですが、先代たちが調査した結果」
「待て、どういうことだ? 何故、私の指揮権を超えて先代が……」
恵美の疑問に中根は不思議そうな顔をする。
「恵美様に許可を得て動いていると聞いていますが……」
勝手な真似をしてくれる。これだから現場主義で功あらば罪咎めずを地で行く時代遅れたちは……そう、苦々しい顔になる恵美だったが、結果を出しているのであれば何とも言えない。
「で、先代たちは何と?」
「……壱心様襲撃の件、これは偶発的なものではなく香月組内部の情報漏洩があったのは間違いないとのことで」
「それは分かってる! 埒が明かない。面倒だ。先代たちを呼び出して……」
「まぁ落ち着くのさ、恵美」
中根に対して苛立ちをぶつける恵美の下に新たな人影が現れた。それは現在、恵美が恵美と名乗るまでその名を名乗っていた者。先代の恵美だった。
「先代……」
「御屋形様の件、情報漏洩をしたのは
何の前置きもなしに告げられた言葉に今代の恵美は言葉を失う。それに対し、先代は何てことのないことを告げるように続けた。
「今はもう復讐鬼たちが向かってるところだ。もう、私たちに出来ることはないね」
「な……何を勝手に! 暗部の掟を」
今代の恵美が我に返って抗議するが先代は老いた表情に疲れを見せて溜息を吐いて彼女の言葉を遮るように告げた。
「あいつらは、暗部どころか人であることを辞め、畜生に堕ちるそうだよ。その覚悟を見て私には止められなかった。尤も、止める気にもならなかったんだけどね。私も出来れば……」
少し遠い目をした先代恵美だが、すぐに
「いや、そんなことはどうでもいい。あんたより先に報告した首脳部の方々も止める気はないみたいだったよ」
「すぐに……」
「今頃は拉致を済ませてどこかに隠しているだろうね。それに協力している者たちも相応の覚悟を決めてる。言っただろう? もう、あたしらに出来ることはない」
断定する先代の言葉に沈黙する今代の恵美。重苦しい沈黙の中で恵美の下に遅れて利光とその息子である光彦、そして孫の明彦と浩二が行方不明になったという報告が届けられるのだった。
その後。
帝都不祥事件一色だった帝国の新聞がまた別の記事で世間を騒がせることになる。香月組の最高経営責任者だった香月利光とその直系男子が一夜にして全員行方不明となり、二日に渡ってその消息が一切不明になったのだ。
世間では多くの謎を呼ぶことになるこの事件だが、不思議とその話について大きく騒がれることはなく、淡々とした処理が行われる。
そして香月組の最高経営責任者は利光の不在によって、その弟である香月徳三が後を継ぐことになるのだった。
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