伏した老君
壱心が凶弾に倒れて十日間が経過していた。彼が緊急搬送された後、帝都の名医が執刀した手術は無事に成功した。しかし、壱心が目を覚ます気配はない。
「壱心様……」
広い病室の中に桜の声が響く。現在、室内は静かなものだが、病院の周辺は規制が敷かれる程にごった返している状態だった。壱心の状態や搬送先の病院は秘匿された情報であるというのにどこから聞きつけたのか多くの人々が病床に就いた壱心の下に一瞬だけでもいいからお目通り願いたいとして訪れているのだ。また、常識と良識をどこかへ忘れてしまったらしい取材班が壱心の周辺の者に聞き込みを行うとしてあの手この手で侵入を試みている。
このような状況に対し、桜たちは金とコネと地位と権力をフル活用して壱心がいる病室の周辺は親族の内でもごく限られた人しか立ち入れない状態にしている。それにより基本的に他人をシャットアウトした上で入室者は退室後も暗部の選りすぐりの者としばらく行動を共にするという制限を課して壱心を守ろうとしていた。
だが、それでも桜たち香月組首脳部は不安だった。それは壱心の腹心となっておきながらその立場を利用して、その立場でしか知り得ない壱心の外出情報を賊に横流ししたあの男が頭を過るからだ。
(あの男のせいで面倒なことになりましたね……)
桜たちの頭を過るのは壱心の甥である利光だ。彼の所為で桜たちは身内すら怪しまなければなくなるという事態に陥っていた。一応、彼が犯行に至った動機についてはつい先日、帝都不祥事件とは別に世間を騒がせた香月組最高経営責任者の行方不明事件の真相を知る者による裏情報により明らかになっており、香月組首脳部には共犯者がいないことは確定している。だがしかし、論拠は裏切り者の言葉。信じるには不安が残ったのだ。
香月組最高経営責任者行方不明事件についての内容に触れると、その仔細をまとめた報告書には香月組暗部によってほぼ有罪であると判断された利光の背後関係を洗うためにまずは尋問を行ったとあった。次いで、罪を認めておきながら居直り、壱心を悪し様に罵り始めたところで拉致の実行犯たちは投薬を始め、続けて拷問を行ったとされる。
そして欧米諸国との不平等条約改正のためにこの国から一掃したはずの悪しき
(何が父を蔑ろにした報いを受けさせる、なんでしょうかね? 利三さんの死を利用したのもその顔に泥を塗ったのも利光さんの方だと思いますが……)
利光を拉致した実行犯たちの行いによって露わになった真実を思い出した桜は溜息混じりに詮のないことを考えて苛立ちを覚える。こんな感情など今必要な判断を下すに当たって不要なものであるというのは分かっていても憂鬱な気分と底から湧き出て来る苛立ちが収まらない。
(最初の言い分は確かに、ありえるかもしれない内容でした。利三様がリリィさんに思慕の情を抱いていたのは周知のこと。また、壱心様が利三様に気苦労をかけたのも事実。利三様は壱心様のやりたいことを実現するために日々を費やしていたのも本当のことで、その愚痴をつい家族の前で漏らしてしまったというのはありえるかもしれない内容です)
利光からの犯行動機の述懐はその時点では私怨で殺人計画を立てて教唆するという許されざる行為はいえ、少し思うところのある内容だった。しかし、復讐に燃える鬼たちが止まるほどの内容ではない。彼らが真実を求めて更なる行動に移した結果出て来たのはくだらないものだった。
(薬を飲ませて自白させた本音は他の財閥と比較して香月組は投資に目を向けて事業拡大を続けるばかりで筆頭株主の香月家が豪奢な暮らしが出来ていないということに対する不満。そして、自分が組織の頂点に立ちたいという欲が根底……)
桜は一つ溜息を吐いて無理矢理気持ちを落ち着かせる。
(……確かに、ある程度の能力はありましたが、あまりにも身勝手な理論を振り回し身の丈に合わない野心を抱いた愚者ですね……このまま消えてもらいましょうか)
桜は冷酷に利光を切り捨てる方針で考える。常人に比して老化が遅い壱心を見て、このまま壱心が生きていれば自分は最後まで組織のトップにはなれず、思う通りの人生を歩めないとして組んだ利光の謀略は彼の身を滅ぼすことになりそうだ。桜がそう考えていると彼女についている暗部の者が時計を確認して桜に声を掛ける。
「桜様、そろそろお時間です。次は東京邸の会議です」
「そうですね」
そろそろ次の予定のために移動しなければならない。思考を一時中断して桜は次の予定、綾名主催で開かれた緊急家族会議について考える。
(……綾名さん、とても見ていられない有様でしたが、一体何を言い出すんでしょうか……)
壱心が襲撃されたことを知って卒倒し、その後は興奮状態と意識の断絶を繰り返すことで病院に入れられた綾名だったが、投薬と説得、精神分析の末に何とか付き添いを同行させることを条件に壱心の病室に入ることを許可され、入室したのが昨日のこと。滂沱の涙を流しながら壱心に縋りつく有様は痛々しいものだった。
そんな彼女だったが、医者と亜美の説明を聞いた後に泣き止むのに苦労しながらも緊急会議を言い出したのだ。
(……もしや、壱心様のこの姿を見てもう心の折り合いをつけ、先のことを見据えるつもりなんでしょうか?)
細くなった壱心の手を取って桜は静かに考える。ある程度年老いていたとはいえ、少し前まではとても江戸幕府が存続していた頃より生きていた高齢者とは思えない体をしていた彼の身体は今は見る影もなくなっていた。
(それとも、この状況を打破するために何か……)
「桜様」
物思いに耽る桜を暗部の者が呼び覚ます。それにより我に返った桜は最後に壱心の手を握ってから病室を後にし、暗部代表の恵美に警護のことを任せて香月家の東京邸に向かうのだった。
「……揃っていましたか」
桜が暗部の者に庇われながら記者団を振り切って病院を出発し、香月家の東京邸に入った時、既に大会議室には壱心一家の中核を担う人物たちが集まっていた。
即ち、亜美、宇美、リリアンといった女房衆。そして亜美の息子の鉄心にリリアンの娘である莉子、宇美の息子であると娘である久美という子どもたち。更に、鉄心の娘である綾名と息子の悠希という孫二人だ。
その他にも壱心一家の血縁者はいるが、今回は呼んでいなかった。壱心の子どもでリリアンの娘である智子や宇美の息子である
久々に集まる一同。しかし、当然のことながら表情は暗い。ただ、暗い表情で沈黙していても話は始まらないので桜が口火を切った。
「それで、今回の議題はなんですか?」
綾名に対して問いかける桜。綾名は全員揃ったことを目で確認すると言った。
「はい。リリアンさん、本邸から持ってきた例の物をお願いします」
「……はい」
憔悴しきった顔で言われるがままにリリアンが机の上に出したのは何らかの液体が半分ほど入った小さな小さな試験管だった。特殊な試験管立てにたった一本だけ入れられたそれを全員が確認したところで綾名はそれが何であるのかを告げる。
「それでは、議題に入ります。皆さんの目の前にあるそれ……かつて、雷山の麓に居を構えたとされる仙人が大お母様たちに使ったとされる反老化薬。これをおじい様に投与する事。これが、今回の議題です」
50年以上の歳月を経ても尚、壱心たちの手に渡った時と変わらぬ状態の謎の液体を前にして綾名は静かにそう告げるのだった。
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