1928年 中華民国
北伐による混迷が続く中華民国。南京を本拠地と定め、北上してくる国民党軍を前に南京から北京への通り道である山東省に利権を持つ日本は居留民の保護を目的として約五千名を派兵し、治安維持活動を開始した。蒋介石率いる国民党軍は日本軍との対立を避けるべく密約を結び、南京より迂回して山東省の西側を進み、河北にあり北洋政府の首都となっている北京へと進軍することを決定する。
そして事態は動き始める。
蒋介石の迂回ルートの先で待ち受けていたのは近代化された北洋政府主席であり安国軍総司令である張作霖の軍だった。その軍は満州油田のオイルマネーによって民兵が中心の国民党軍とは比較にならない装備と練度を誇っていた。
この張作霖の近衛軍は蒋介石率いる国民党軍に河北省の地を踏ませることなく、国民党軍に多大なダメージを与えることに成功。その上、追撃を行うことによって南京のある江蘇省まで追い返すことに成功した。
これを見た壱心は第一次山東出兵と同じ流れになっていることを確認。しかし、この後の流れとして蒋介石がただでさえ史実と比肩して名声を落としているというのに国共分裂の収拾をつけられるのかという点に注目していた。
「……恵美、支那南部の情勢はどうなってる?」
「中国共産党が蒋介石の座を狙ってプロパガンダを行っています。具体的には列強に配慮した結果、北伐を蔑ろにし、多くの人命を失う大失態を侵した。この様な人間に国を任せるとまた外国への配慮を重視して自国の民を蔑ろにする云々、といったところですね。蒋介石は北伐の失敗と共産党への対処のため、地盤固めに奔走しています」
「なるほどな……ソ連は?」
「国境を睨んでいる他、中国共産党への支援、中国国民党への潜伏活動、民衆への喧伝など日夜暗躍していますね。ただ、日本本土への侵入と伝播は抑えられていると言っていいでしょう」
壱心の問いに対して少し余計なことを付け足して胸を張って答える恵美。壱心は香月組の暗部とこの昭和という時代に残った公儀隠密の活躍について労いの言葉をかけると共に更なる情報を引き出す。
「中国共産党の動きはある程度分かった。詳細は資料を見ることにして……対する国民党の動きはどうなっている? 張作霖に手痛くやられたようだが」
「国民党内部は未だ蒋介石をトップに据えて活動していますね。当の蒋介石は南京に戻り、今回の敗走で落ちた名声を挽回すべく勢力争いに奔走している様子です」
ただ、と恵美は付け加える。
「明らかに動きが鈍っていますね。共産主義者が暴徒となって国民党が抑える勢力圏を荒らしており地盤固めに奔走する見込みとなっております。また、列強との約束を裏表両方守るべく追い詰められています」
「……リークするなりして突いてもいいものだが、さて、どうしたものか」
日本の立場としては中国に外向きの政策を取ってもらいたくないため、しばらくの間は紛争してもらっていた方がありがたい。だが、長く荒れ過ぎて迷惑を被るのも避けたいところだ。壱心がそう考えていると隣にいた桜が口を開いた。
「どうするも何も、このまま事が運んでも何の問題もないと思いますが? 余計な手出しは必要ないかと」
「そうだな」
桜の言葉に同意しつつ壱心は思考する。
(……海外については殆ど史実通りに事が運ぶと見ていたから歯車が狂ってからは見通しが微妙なんだよな。本来の見立てでは日本が支那事変を起こさなければ国民党が強くなるはずだった。それを抑えて軍閥毎でパワーバランスが均衡するように弱みとプロパガンダの準備をしておいたのだが……まぁ、何もしなくても思惑通りに進むのであればそれはそれでいいか……)
史実通りに事が運ぶとすれば蒋介石は再び北伐を実行することだろう。ただ恵美の情報に基づく見立てでは蒋介石は地盤固めに忙しいらしい。どうなるかは未知数だ。しばらくの思案の後、壱心は一先ずの答えを出した。
「……支那は精々食い合ってもらうか」
「そうですね。可能であれば共産党の脅威を残したまま、国民党に勝利してもらいたいところです。漢冶萍公司など政府として切っても切れない縁もありますが、基本は民間と半民間を中心としたビジネス関係で上手くやっていってもらいましょう」
桜はすました顔でそう答えた。壱心も彼女の言葉に同意して流しておく。そして彼は次の話題に移ることにした。桜はそんな壱心の態度に同じような話でも亜美との会話であればもう少し反応があると勝手に拗ねつつ成り行きを見守る。
「さて、南部は資料を後程確認するとして……北部はどうだ? 山東省の一部開発の件、張作霖は同意しそうか?」
壱心が差し込んだ一言。その言葉を聞くなり恵美は苦い顔をした。そして彼女は頭を下げて答える。
「……申し訳ございません。それが、難航しておりまして」
「そうか。まぁ、内実はどうであれ蒋介石に負けっ放しだから国民の理解が得られないんだろうな」
「我々も根回しはしているのですが……力及ばず」
「仕方ない。しばらくは我慢するか……」
諦めるとは言わない壱心。政府主導の特殊権益が無理なのであれば、利益の類は落ちるが民間の力を使うまでだ。そのためには真綿で首を締めるようにじわじわとした謀略の類が必要になってくる。その方向で彼女たちには尽力してもらうことにした。
「さて、じゃあ時間もそろそろいい頃合いだが……他に特記事項等あるか?」
「ご存知かと思いますが……アメリカの動向が少し不安ですね」
恵美の言葉に壱心は興味を惹かれ、続く内容を促した。
「内容は?」
「実体経済と株価の乖離です。彼の国では第一次世界大戦後、大量生産は続けているのですが消費がそれに追いついていないとの認識が……」
「あぁ……西欧諸国の立ち直りと市場の成熟に伴うアメリカ産の資材の消費減ね」
壱心は情報収集のみを任せており、これからの史実がどうなるかは教えていない恵美の優秀さに感心しながら頷いた。
「そうだな。今の金融経済は膨らみすぎている。じきに弾けて実体経済に引き摺り落とされる可能性が高い」
「……先の排日移民政策の件で日本からの出資金は引き上げが続いていることである程度、影響は限られており、直接的な被害は少ないと見ていいのですが……」
「影響が少ない? そんなことはないぞ。アメリカ経済が悪くなれば贅沢品である生糸が売れなくなるし、各国に影響が波及する。日本も例外なく、輸出にかなりの影響を被ることになるだろうな」
恵美の言葉を壱心は否定しておく。壱心の見立てではこの世界線での世界恐慌にも日本は巻き込まれるだろう。そして史実で昭和恐慌と呼ばれる深刻な不況が日本を襲うに違いない。
そう告げると当然のように恵美から質問が帰って来た。
「ではなぜ、そんなに落ち着いていられるのでしょうか?」
「ま、景気には波があって当然だからな。それに、幾つか対応策は練ってある」
少し笑みを作りながらそう告げる壱心。恵美はそれ以上の追及はしなかった。
「では、御屋形様の思し召しの通りに。我々は情報を集めます」
「そうしてくれ。今日みたいに気になったことはどんどん聞いてくれ。俺も、そう永くはない。後任に任せていく必要がある……恵美、お前もその柱の一人だぞ? 俺が言うのもおこがましいかもしれんが、今の内に吸収できる分は吸収していってくれ」
「畏まりました。そういった悩みを解消し、御屋形様が長生きできるように職務に邁進する次第です」
「……まぁ、動機は何でもいい。頑張り過ぎない程度に頑張ってくれ」
そう言って壱心は恵美を下がらせた。それと入れ替わるようにして彼の孫娘である綾名が到来した旨を咲夜と、昨年から咲夜の後継者として育てられている美咲という少女が報告に来る。
「また騒がしい奴が……」
「では、私は席を外しますね。資料を読みたいですし」
「……お前も偶には参加しろ」
「あら、よろしいのですか? くすくす……」
嬉しそうに笑う桜と共に壱心は孫に会うために執務室を後にするのだった。
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