昭和初期
国共分裂
1927年。史実では若槻礼次郎内閣の下で片岡直温蔵相の失言により金融恐慌が起きていた年。本世界線では未だに香月鉄心内閣の下、安定政権が維持されている。
しかし、国内の安定した状況とは裏腹に壱心は恵美から東アジアの情勢についての報告を受けて内心で頭を抱えていた。
「……以上が報告になります。大丈夫でしょうか?」
「あぁ……まぁ、分かった。続けて調査と報告を頼む」
「畏まりました」
恭しく礼をして退出する三代目の恵美。彼女が見えなくなってから壱心は大きく溜息をついた。
「はぁ……」
「お疲れの様子ですね。今、お茶を淹れて参ります」
「そうしてくれ」
控えていた亜美が一時退出する。残された壱心は一人で今行われた報告について考えていた。
(面倒臭いことになった……)
彼が頭を抱えた原因。それは蒋介石による北伐があまり上手く行っていない上、史実と異なる方向で決着しそうなのが現実味を帯びてきたことだ。
ただ、悪いことばかりではなかった。
(まず、南京事件か……結果としては、まぁ史実よりもいい形に収まった? ような気がする形だが……果たしてどうなんだろうな?)
まず、国民党軍が最近になってようやく陥落させた南京について。史実での南京は1927年の3月に北京政府側の張宗昌ら直魯連合軍8万が戦わずに退却することで陥落するが、この世界線では北京政府が満州油田のオイルマネーで装備を整え、士気が低いにもかかわらず、それなりの抵抗を行った。その結果、北京政府は夏まで南京防衛に成功する。だがしかし、国民党軍による直接戦闘の他、民間に対する情報戦などを前にしてつい先日、陥落したとの報告が入っていた。それに伴って、国民党軍による暴行・略奪・破壊が始まっていた。
日本側の対応としては住民を領事館に籠城させ、慎重な対応を取ることに決定。その後、国民党軍による武装解除の脅迫を拒否して住民保護に成功した。この世界線ではシベリア出兵時に尼港事件が起きていなかったため、抵抗した場合に民間人が虐殺されるという前例がなく、抵抗による悪影響を殆ど考えなかったのだ。
また、暴行や略奪、破壊に対しての抗議の意を込めて香月鉄心内閣の下で列強と足並みを合わせて軍艦より砲撃を加えた。
これにより、国民党軍と一部の暴徒たちは鎮静化。史実よりも日本側に配慮することになる。この影響からか、史実では南京事件のすぐ後に起こるはずの漢口事件は起きなかった。
「お茶が入りました」
「悪いな」
ここまでは日本国内にとっていいニュースだった。壱心を悩ませるのはここからの流れだ。お茶を淹れて戻って来た亜美が先程の報告を受けて壱心に尋ねる。
「それにしても、国共内戦が始まりましたか……少し遅れましたが史実通りに進んでいると見ていいんですかね?」
亜美の発言はこの段階では寧漢分裂という状況を表した言葉だ。寧漢分裂を端的に言うのであれば、史実でも発生した南京を陥落させて勢いに乗る蒋介石と彼と手を結びながらもその勢いを脅威と見た共産党が権力を握る武漢で発生した権力争いだ。
現実には今のところ国民党政府の中でも蒋介石に権力が集中していることを受けて武漢政府が権力分散を強行した状態であり、決裂までには至っていないのだが、史実に対する先見がある為、亜美は敢えて一歩先の国共内戦という言葉でそう発言した。
それを踏まえた上で亜美の史実通りという発言に対して壱心は首を振る。
「いや、あまりよくない。史実に比べて進軍の勢いが弱かったことでこの内戦が及ぼす蒋介石への権勢に対する影響は大きくなる見込みだ」
「左様でございますか」
「あぁ。蒋介石の力が史実に比べて小さい。確かに、軍部は蒋介石が抑えてあるから上海クーデターは成功させたみたいだが武漢政府……特に共産党は蒋介石が北京政府相手に足踏みしてる間に独立出来るだけの力を貯め込んでいた。覇権争いは避けられん見通しだ」
「私の見立てでは武漢政府の戦力では北京政府にも南京政府にも歯が立たなさそうですが?」
亜美の言葉は尤もだ。だが、壱心はその正論をあえて否定する。
「だが、史実ではその一番勢力が小さかった共産党が中国統一を果たした。様々な要因があったとはいえ、な」
壱心はお茶を飲みながら考える。
(上海クーデターの影響がどれくらい出るかが焦点になるな……この段階で共産党が国民党に対して本気で噛みつくことはないと思われるが、今の情報を本気にするなら噛みつくことは出来なくない。噛みつけば、泥沼だな)
今回の寧漢分裂は北京政府との戦いが長期にわたることによって史実よりも共産党に融和を図らざるを得なかった蒋介石の失策だった。共産党は声高に一度認めた権益をひっくり返し、列強に屈服して同じ志を持つはずの同胞を大量虐殺している蒋介石は袁世凱のような帝国主義者の再来だと市民に喧伝。
同時に、武漢政府の国民党員はそんな真似をしないということも喧伝することで武漢政府の国民党が共産党から離反することが難しいように振舞っている。この辺りにおいて中国共産党は史実における最初の国共内戦の時よりも上手い立ち回りをしていた。
泥沼になりつつある中華民国の内戦。その様相は未来を知っておきながらも不安になるような状態だった。既に轍を外れつつある状況で亜美は壱心に尋ねる。
「難しい話ですね……日本の立場としてはこれまで通り、北京政府……特に張作霖を支持する形でよろしいのでしょうか」
「まぁ、満州油田の権益を守る為に結果的にそうなってるな。ただ、勿論内戦には参加しないが」
「内戦には、ですね」
薄く笑う二人。黒い笑みだった。内戦には参加しないと言いつつ、満州での権益やその他の北京政府からの資金供与によって彼らの手の者によって軍事教導や兵站の供給、また他軍閥に対する牽制に加えて他国……特にソ連からの援助や水面下で動こうとしている部隊に対する妨害など幅広い活動を実施しているのは二人の間で共有されている情報だからである。それを知った上で二人は会話する。
「何か文句が? 蒋介石も今の状態を維持してくれれば北伐を成功した暁には満州の権益を認めるという話だが」
「いいえ、ありませんとも」
「……全く、黒いことばかりだな」
腹の中がコールタールよりも黒くなっているかもしれない。そう言って苦笑を見せる壱心と釣られて笑う亜美。ひとしきり笑ったところで二人は真面目な話に戻る。
「さて、問題はこれからなんだが……山東出兵、どうするかな」
「北伐軍もまだ南京を落としたばかりですし、内乱で足踏みするようですから時期尚早では?」
首を傾げる亜美。壱心はそれに頷きつつも口を開いた。
「亜美の意見も確かにそうなんだが……少し気になるんだよな」
「何がですか?」
「国民党……特に、蒋介石の動きが気になってな。国共内乱に至ったからには地盤固めに走るかと思いきや北伐の再声明を出した。共産党を相手にしながら北京政府とも戦う構えになっている」
「南京から北伐のルートとなるとそうですね。確かに、山東省が鍵になって来ますよね……先手を打ちますか?」
亜美の言葉に壱心は思案する。日本国民においては先の南京事件によって居留民たちの不安が広がっており、軍による保安活動が求められているため、世論の許可は出ることだろう。
だが、安易な決断をした場合には史実で言う済南事件が起き、国民党が主となっている革命軍との衝突、そして内乱干渉による外交問題が起きる可能性が出て来る。
(英仏からの打診もあったことだし、アメリカも動いているから日本が動くことも問題ない……ただ、蒋介石との密約に抵触する可能性もあるな……尤も、その話も奴らが北伐に成功した場合の話になるんだが……)
史実で成功したからと言って、この世界線で成功するかどうかは未知数だ。だが国民の安全が侵害されることを見過ごすわけにもいかない。
「……よし、色々と懸念事項はあるが史実通りに進めるとするか。山東出兵は実施する。史実より少し多いが五千名を派兵だ」
「畏まりました。立憲護国党に連絡いたします」
現政権に壱心は意見を提示する。対中強硬派の田中義一外相はそれを歓迎し、満州軍の一部と本土の陸海軍が山東省へと出兵することになった。
(さて、国民党がどう動くか。見ものになるな……)
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