大正の終わり
1926年。大正最後の年であり、昭和にとっては最初の年の瀬の夜。また一つ時代が終わってしまった数日後のこと。壱心は帝都から福岡に戻るところだった。
「……いよいよ、昭和時代に突入ですね」
「そうなるな」
寝台列車に揺られての移動。隣に亜美、向かいに桜を供として壱心は移ろいゆく暗い景色を眺めながら小さな声でそう応じた。それを受けてしみじみと桜は呟く。
「大正時代は短いものになりましたね……ですが、この国が大きく飛躍する時代となりました」
「そうだな。大戦景気と内需拡大、そして満州油田の開発……関東大震災の影響で混乱もあったが、順調と言っていいだろう」
桜の呟きに壱心はそう応じる。確かに、国内政策は順調と言っていい。金融恐慌などが待ち受けている可能性が大いにあるが、実体経済もある程度追いつくように国内を整備してきたつもりだ。だが、彼にはまだ不安があった。それは中華民国の情勢とアメリカの情勢だ。
(……中華民国で蒋介石が起こした北伐。湖南までの進撃は確かに破竹の勢いだった。だが、そこからどうにも足が鈍い……この時期には既に湖北はおろか、江西も落として福建省まで制圧してるはずなんだが……)
予想外の北伐の鈍さに壱心は顔を曇らせる。現在、蒋介石は湖北で足踏みをしていた影響で、江西攻略に心血を注いでいた。これは明らかに史実と比べて異常事態だった。その表情の変化を見取って亜美が声を掛けてくる。
「まだ、悩みの種が?」
「あぁ。国外情勢だ。西も東も……北もか。どこもかしこも不穏でならん」
アメリカ、中国、ソ連。大国に囲まれている日本の立地に今更ながら壱心は苦笑する。そんな彼に桜が問いかけた。
「……読み通り、ではないのですか?」
「違うな。そもそも、俺は日本史についてはある程度の知識を持っているが世界史はそこまで知識がない。だから、現在の日本の政策がどんな形で外国に皺寄せが行っているのか机上の論説以外じゃ不明なんだ」
桜の問いかけに即答する壱心。周囲を大国に囲まれた日本だが、日本自体も大国であることを忘れてはいけない。この国の取った進路が他の国にどのような影響を与えているのかは未知数なのだ。
壱心はまず、積極的には干渉をしていないアメリカについて考えた。
(現状、日本は大幅な貿易黒字。史実ではアメリカなんかから輸入していた石油や精密機械、鉄に産業機器なども国内品と中国などの周辺国の輸入品で賄えている状態。その結果、アメリカは対日貿易赤字を垂れ流している……普通なら日本バッシングが捗って仕方がないことだろう……)
これまで大陸利権の一部をアメリカに渡すことで対日感情を悪化させないようにしてきたがそれにも限界がある。現在、アメリカが対日経済制裁を行っていないのは偏にアメリカ経済が狂騒の20年代と呼ばれる黄金時代に入っていたからである。
しかし、それも1929年のウォール街が終わりを告げる。その時、どうなるのかは蓋を開けてみなければわからなかった。
「……ダメだな。色々と考えてみたが、手出ししていないアメリカすら予想出来ん。確実に日本を脅威として認識しているのは間違いないだろうが……」
「アメリカですか。アメリカは確かに私にもよく分かりませんが……少なくとも、隣の、中華民国の動きは史実に比べてよいものと思いますよ?」
首を捻る壱心に桜は簡単にそう告げた。それに対して壱心はどうしてそう思ったのか尋ねてみる。
「理由は?」
「史実通りにあの国が一つにまとまると日本にとって脅威です。現在の北伐の進行度で進み、国共軍が内部分裂して三国時代に突入してもらえれば日本は欧州に対するイギリスのような立場で事に臨めるでしょう」
「北京政府、国民党、共産党の三国時代か……そう、ことが上手く運べばいいが」
中華民国の三国時代。それが実現されれば桜の言う通り、日本にとっては好都合となるだろう。特に、現在親日的な北京政府が中国中央部から北部にかけての主要地域を抑えている状態で日本の利権を保証し、守ってくれている上でというのは今後も引き継がせたい情勢である。
「……問題はこの気に乗じて軍部が工作をしないことだな……不穏分子についてはどうなってる?」
「……恵美からのまた聞きになりますが、水面下での活動も殆どないことから今のところ問題ないかと。ただし、張作霖が北伐で敗れて奉天地域に戻り、権力の集中を図ることを既定路線として考えるのであれば不透明にはなりますね」
「満州の死守のためにどう動くかは分からん、か……」
史実に比べれば首根っこを掴んでいる状態である軍部だが、それでもそのすべての動きをコントロールすることは出来ない。完全にコントロールできる規模にまで落としてしまうとソ連や北洋軍閥に対抗できなくなってしまうからだ。その辺りのバランスについて壱心は頭を悩ませる。
「はぁ……何にせよ、中華民国については北伐と国共分裂次第になるな。引き続き注視していくに限る」
「何か手を打たなくてもよろしいのですか?」
「今動くのは悪手だ。存分に国内で争ってもらおう……求められる動きがあれば、それを確認して色々とやっていく準備はあるがな……」
今無闇に動けば余計な問題を全て押し付けられ、反日感情を悪化させる可能性が高いとして壱心は向こうが求めない限りは手を出さない不拡大方針を取ることにした。中華民国についてはこんなところだろうか。亜美に確認を取ると、彼女は少し言いたいことがありそうだった。
「何かあるなら言ってくれ。些細なことでもいい。見落としがあるなら……」
「いえ、話がソ連の方にまたがってしまいますので……」
「……満州の土地はそちらもあるよなぁ」
「はい」
東清鉄道の権利関連で色々ともめている奉天派とソ連。一応、北洋政府としては1924年に北京協定を結んで権利関係を確認しているが、現地の奉天派はそれに不満を持っており、奉ソ協定という別の協定を結んでいた。だが、それは北伐を理由に途中で放棄されており、1925年にはソ連側が奉ソ協定に対する越権行為を行うことで国境がきな臭くなっていたのだ。
「ソ連、モンゴルとの国境についても北洋政府に頑張ってもらわないとな……」
「北洋政府の思惑としては自分たちは北伐を片付け、ソ連とのにらみ合いには日本も参加してもらいたいというところでしょうね……」
「そんな簡単な思惑でいてくれればいいんだが……」
溜息をついてしまう壱心。国外情勢は不測の事態が多く、蓋を開けてみなければ分からないという問題が山積みだった。
(……特に東アジア情勢だな。史実と異なる動きが多い……蒋介石が湖北で足踏みをしていた理由が気になるところだ。それに、ソ連の国境線での動きも活発化してきているからな……)
目下、気になるのは北伐の動き。日本政府としては現在、北洋政府に多額の借款を与えており、それを踏み倒されるのは非常に困るのだ。それに加えて様々な条約についての兼ね合いもある。反帝国主義を掲げて列強と対立する蒋介石が中国統一を果たすのは嫌なところだった。
だが、それは日本政府としての目線。壱心としては日本の動きは改めるが外国についてはある程度史実の流れを踏襲する前提で計画を作っているので無秩序に予定が変更されるのも困りものだった。ただ、北伐が失敗して中国が再び三国時代に入るというのは日本にとっては好都合というのも間違いなかった。そのため、積極的な介入を行うつもりにもならない。
「幾つになっても、未来のことが少しは分かっていたとしても、政治というものは難しいな……」
「当たり前ですよ」
「さて、今後はどうなるか……そして俺はどこまで今後を見続けられるか……」
「悩みすぎても身体によくありませんよ。今日はもうお休みください」
亜美の進言に従い、壱心も寝台に就く。それを見て桜も向かいの寝台に身を滑り込ませた。そして、一行を乗せた列車は暗闇の中を進んで行くのだった。
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