健康診断

 史実では加藤高明率いる護憲三派内閣の下でソ連と国交樹立する日ソ基本条約、満25歳以上の男子に選挙権を与える普通選挙法、国体の変革や私有財産制度の否認などの共産主義者を罰する治安維持法などの重要な法案が目白押しだった1925年のこと。

 本世界線においても香月鉄心内閣の下で同条約の締結を行ったり、法令の内容を一部変更して公布したりしていた中、壱心らは鉄心の補助を行いつつ短期入院精密身体検査……いわゆる人間ドックの結果を聞くために桜の帰りを待っていた。

 既に近くで自動車の音が聞こえており、桜が屋敷の敷地内に戻ってきているのは分かっている。


「……すぐに終わる内容ならいいんだが」


 石油関連事業の拡大の上申を見ながら壱心はそう呟く。最近になっても壱心は折を見ては体を動かしているのだが、あちこちに老いを感じるようになっていた。そのため、雷雲仙人の薬の効果がどうなっているのか気になるところなのだ。


「あ、戻って来たみたいですね」


 ドアを開ける音がしたことに気付いたリリアンが少しそわついていた壱心のお茶を下げて出迎える準備をする。壱心も立ち上がった。


「さて、何事もなければいいんだが……」


 淡い期待を抱きながら桜を出迎えに行く一行。玄関まで行くと桜が四通の封筒を持って彼らを待ち受けていた。その表情からは何も窺い知ることは出来ない。


「では皆様方お揃いということで……第二応接室に行きましょう」


 桜主導の下で再び移動を開始する一行。外見こそ最年長の壱心が四十代といったところだが、内実は八十近い老体だ。もうあちこちにガタが来ていて当然の年齢になる。他の面々も似たようなものだ。


(絶対に口にはしないが老人会だな……)


 見た目二十代、三十代の美人な妻たちを見ながら壱心はちょっとだけ余計なことを考える。因みに長年の経験の賜物故に顔には一切出していないが、そういった事を考えるとまず、亜美に気付かれるので即座にそう言った考えは消しておかなければならない。


「壱心様?」

「どうかしたか?」

「いえ、何やら妙な気配が……」

「不安になるからやめてくれ」


 どうやら今回も気づかれたようだがしらばっくれて誤魔化しておく。亜美もそれ以上は追及せずに一行は賑やかに第二応接室まで移動した。


「どうぞ」

「あぁ」


 部屋に通された後、扉が閉められるとこの場は密室になる。まず、壱心が奥に座ると次に桜が上座に、そして残る面々が下座に座った。


「さて……早速ですが皆様に診断結果を渡しておきます」

「正直、見てもわかんないんですよね~……あ、なんか悪くなってる」

「……私もです」

「……この落ち幅、とうとう来たか……」


 悲喜こもごも、そう言うには悲しみの声の方が多い室内。内容を一通り確認するのを待って桜が口を開く。


「結果から言いますと、まず女性陣。亜美さん以外は薬の効果がもう切れかかっています」


 視線が亜美に集まる。極東の魔女は今日も元気に若々しさを保っていた。正しく魔女と言っていい美貌だ。そんな彼女はいい結果だというのに暗い顔をしていた。


「……私だけですか」

「そうですね……ですが、悪い結果はそれだけに止まりません。壱心様」

「あぁ」


 嫌な予感は的中する物だ。自分にそう言い聞かせていても緊張する。そんな中、桜は努めて平静に告げた。


「……薬の効果が、完全に消えました」


 とうとうこの日が来たか。そう思うと長い息をついて瞑目してしまう壱心。場に静寂が満ちる。しばしの瞑目の後、彼が目を開くのを待って桜は告げた。


「これからどうなるのか知っているのはあの仙人様だけです。ただ、もうこれからは今までのような無茶は利かないということだけ、重々心に留めていただけますようお願いいたします」

「……分かった。心に留めておこう」

「皆さんも壱心様に無茶をさせないようにすると同時に自分も無理が利かない年齢になったことを忘れないようにしてください」


 表情を硬くする一行。そんな中、壱心が告げた。


「まぁ、人間である以上、死はいずれやって来るものだ。そう身構えても仕方あるまい。幸い、香月派の後進といえる人間も何人も出来た。鉄心が総理大臣を務めるぐらいだしな。後はその後進のために色々と残していくだけ……いつも言っていることだな」


 壱心のまとめに桜が同調する。


「ですね。今までの様な無茶はしないように心に留めておくだけでいいです。あまり気にし過ぎて日常に差し障りが出ては本末転倒なので」


 ただ。と桜は付け加える。


「日頃から年甲斐もない無茶をされるのはいい加減におやめになっていただきたく存じますが」

「……心当たりが多すぎて何のことやら」

「夜更かし、過度な訓練、過度な執務、多過ぎる会食などです」

「会食は確かに減らした方がいいな。前々から言っていたことだ」


 その他については何の言及もない事を受けて溜息をつく桜。リリアンが笑顔の裏に怖いものを潜ませて告げる。


「壱心様?」

「分かってる。訓練量も減らすさ。乱稽古なんかも流石に年でな……」

「壱心様」


 強めの口調だ。壱心は後ろめたい気持ちを感じながらも弁明する。


「……いや、石油関連の事業がな。なぁ、亜美?」

「私のことは良いのでお休みください」

「そうは言うがな、この辺りの知識は俺にもないもので理解に時間がかかるし、何より今一番大事なところでだな……」

「壱心様」


 名前を呼ぶだけで壱心の言動に圧力を加えるリリアン。味方になってくれない亜美の方を恨めしげに見る壱心だが亜美は心配そうに告げた。


「壱心様、皆、貴方様のことを心配してのことです」

「それは分かってるがな……」


 自分が生きている間に遺せるものは遺しておきたい壱心。後進の育成はしてきたつもりだが、まだまだ自分でやらなければならないことが多いと思っているのだ。

 そして、なまじ彼を引っ張り出そうとしている中央の勢力がいる事によって彼もその気になってしまっている。


(本来ならとっくに引退していてもいいお年ですのに……)

(壱心様、昔から自分で何でもやりたがる癖は抜けませんね……)


 桜は溜息をつき、リリアンも嘆息する。亜美は壱心の視線を感じて同調圧力の前に目を逸らしていた。そんな中、わざと空気を読まずに宇美が手を打った。


「まぁ、取り敢えず皆無茶はしないようにしましょう! はい! おやつの時間にでもしましょう!」

「そ、そうだな……取り敢えず、棚上げだ。無茶はしないように努力する。うん」


 助け船が来たとばかりに宇美の話に乗る壱心。他の三人も納得はしていないようだったが、一先ずはその話に乗って話題を切り上げる。


「仕方ありませんね……今日のおやつは何ですか?」

「リリィの好きな求肥入り最中だよ~」

「だ、そうだ。機嫌を直してくれないか?」

「……もう。私もお菓子で誤魔化される歳じゃないですよ」


 そう言いながらも先程までの気迫はそこになく、一行はお茶の時間としてこの場を後にするのだった。



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