困り事
1924年冬。関東大震災の翌年のこと。壱心は気まずい雰囲気の中で困っていた。そして思わず物騒なことを呟いてしまう。
「あー……若造共が……捻り潰してやろうか……?」
「暗殺ですか? お任せを」
「いや、そこまでやるつもりはない。第一、それをやると仕事が増えるだけだ」
やさぐれ気味の壱心。すぐに咲夜が小声でこの場にいる客人には聞こえぬように反応するがその申し出は却下しておく。一応、そんな感じで理性の残っている壱心だが、彼がやさぐれた理由は関東大震災による不安に対しての世論を落ち着かせるべく、立憲護国党が壱心を担ぎ出すために彼の息子である鉄心を内閣総理大臣に持ち上げようとしていたからだ。
「まぁよいではないですか。何事も経験と言いますし」
「……そんなノリで総理大臣を務めてもらっては困るんだが」
因みに鉄心のもう一人の親である亜美の方は割と乗り気だった。ついでに言うのであれば香月組首脳部と女人衆は賛成派だ。壱心も別に反対という程の強硬な意見は持っておらず、ただ不機嫌になっているだけだったりする。
「おじい様。父上が総理大臣になるのには何か問題があるのでしょうか」
そんな不機嫌な壱心に疑問の声を上げたのは鉄心の娘である綾名だ。壱心の孫にあたる彼女がこの場における微妙な空気を生み出している原因だったりする。
「あー……いや別にいいんだが」
「そうですか! なら大丈夫ですね! 父上におじい様が任せておくように言っていたと伝えて参ります!」
「いや、そこまで言ってない」
「そうですか……では、ダメでしたと伝えておきます」
元気溌溂といった様相から一気にしぼんでしまう綾名。壱心は彼女のテンションの落差に困りながら告げる。
「別にダメとも言ってないだろう。お前は昔から早とちりでそそっかしい……」
「おじい様! 事実ですが傷付きます!」
「……そこまで言い切れる元気があれば別に大丈夫だろう。それで、用件は鉄心の総理大臣就任に対することだけでいいか? なら分かったとだけ伝えておけ」
可愛く育った孫娘へ億劫そうにそう告げて壱心は話を終えようとする。しかし、彼女は元気に頷いた後に立ち上がってこう言った。
「はい! そしてもう一つ大事な用件です! おじい様に愛でられるつもりで今日はここに来ました! 可愛がってください! さあ!」
(何だこいつ……)
両手を開いてcome on! と言わんばかりの綾名に壱心は普通に引いていた。必要なことを話す時以外はあまり言葉数の多くない壱心と亜美。その血を継いで同じくそんなに話す方ではない鉄心。綾名の母も奥ゆかしい大和撫子だ。どこで突然変異したのだろうか。
「アヤナちゃん今日も元気だね~」
壱心が素朴な疑問を抱いていると煎餅を割ってその欠片を口に運びながら宇美が楽しそうに口を開いた。その横槍に元気よく綾名は反応する。
「宇美さん! おじい様が抱っこしてくれません! 昔は会う度に抱っこしてくれてたのに!」
「いつの話だ……お前ももう直に
「でもおじい様! 前に私が何かおじい様が驚く凄いことしたら抱っこしてくれると言いましたよね! やりましたよ! 論文書きました! クメン法って言うらしいです! ね、大お母様!」
「は?」
壱心は亜美を見た。彼女は顔を背けた。合点がいった。壱心は頭を抱える。
「亜美……お前、孫可愛さに何してるんだ……」
「いえ、私は……そうです。ちょっと満州油田のお話をしただけで……」
「大お母様のお話は凄い分かりやすかったです! 添削も学校の先生なんかよりずっと上手でした! それはそれとして抱っこ!」
ずい、と迫る綾名。約束は約束なので壱心は頭を乱雑に掻いた後に仕方なく彼女を抱き寄せた。そしてぼやく。
「全く……こんなジジイに抱き寄せられて何が嬉しいのか」
「特別感です!」
「……そうかい」
しばらく抱きしめると壱心は綾名を解放する。すると彼女は満足げに息を吐いた後に頭を下げた。
「では満足したので帰ります! ありがとうございました!」
「気をつけて帰れよ。咲夜、見送りを」
「畏まりました」
「出来ればおじい様に見送ってほしいです!」
ストレートな物言いに壱心は仕方なさそうに立ち上がった。それに倣い、この場にいる全員が立ち上がる。
「では皆様方! ごきげんよう!」
玄関で護衛に二人に挟まれて綾名は元気に去って行った。
「姦しいやつだ……」
「元気がないよりはいいかと思いますが」
「まぁ、な」
口々に綾名の感想を言いながら部屋に戻る壱心たち。そして彼らは真面目な話をする体制に入る。
「さて……今年ももう終わる頃に入ったが今年の特記項目を挙げていくか」
「まぁ、兎にも角にも鉄心の総理大臣就任ですね」
「……それは置いといて、だ。東アジア情勢がまた大きく動いた」
「それは奉直戦争における張作霖の勝利とモンゴル人民共和国の成立、そして国民党と共産党が提携した国共合作についてですか?」
桜の言葉に壱心は頷いた。
「あぁ……アメリカ方面でも排日移民法が制定されるとか日本が対抗して朝鮮半島でアメリカの利権に対して色々やっているなんかの問題はあるが、今日はその三つについて議題に挙げたいと思う。いいか?」
異論はなかった。アメリカの排日移民法については確かにこれまで何とか築いてきた対米感情を悪化させるものだった。だが、日本からの対米移民希望者は基本的に少数であったため、国益としては日本側の体面を傷つけられたこと以外に大きな問題はないという認識だったからだ。
「じゃあ、始めるとするか。時系列的には国共合作や奉直戦争の方が先になるが、モンゴルの話の方が簡単だから先にこちらから話すとする。桜」
「はい」
桜が壱心に話を振られて東アジアを拡大した地図を示しながら説明を開始する。ソ連による支援によって中華民国から独立したモンゴル人民共和国。簡潔に言えばこの国はこれからしばらくソ連一辺倒の政策を続けるソ連の衛星国となる。
「つまり、中ソの緩衝地帯となるわけですが……ソ連の色が濃いです。油断ならないことを覚えておいてください」
「まぁ、分かりやすく言うとそんなところだな。そして次の話だ。こちらが重要になってくる。国共合作。つまり、中国国民党と共産党の提携による中国国内の統一と反帝国主義の台頭だ」
第一次国共合作。これは現在、壱心たちが推している北京政府や中華民国内の軍閥に対抗して起きたものだ。
「これは直ちに大事になるという問題でもないため、中国国内の問題に過ぎないと言い返され、介入が難しい。だが、これからカギを握って来る問題になる。重々心に留めておいてくれ」
具体的には二年後の北伐の開始まで目が離せないが、ここではそこまで詳しいことは言わずに壱心は次に移る。
「そして最後に奉直戦争だ」
こちらも壱心から説明が入る。奉直戦争。中華民国で現在政権を担っている北京政府における覇権争いの一つだ。北洋軍閥から分離した直隷派と日本が利権を得ている満州の地を中心とした奉天派の戦争で、1922年に起きた第一次奉直戦争は直隷派が勝利したが1924年に勃発した第二次奉直戦争は奉天派の勝利となる。これらは史実通りの運びであり、本来なら問題はないはずだった。
「謀略戦で奉天派が勝利した。それはいいんだが……懸念点が幾つかある。オイルマネーによる奉天派の過剰な軍備増強だ」
「……満州油田を掘った結果、ですか」
原因となる要素を呟くのは亜美だった。壱心はその言葉を受けて頷く。
「そうだ。軍備増強自体は満州を掘る際、最初の時点である程度期待していた流れになるんだが……」
奉天派の本拠地である満州の経済状態。それは史実とは比べ物にならない程発展していた。理由は明白だ。日本による油田開発。それに尽きる。
「日本の技術がなければ採掘と精製は不可能ということで技術費用等で買い叩いているが……それでも儲けは出る」
その儲けを使って主に日本から兵器を買っている。これは壱心が満州油田を掘るに当たって期待していた流れであり、行き過ぎなければ何の問題もない。寧ろ関東軍が満州で軽率に動けなくなる重しとして期待できた。
だが、壱心は史実との乖離として張作霖が内戦での戦費を各地に重税を課すことではなくオイルマネーで賄おうとしている状態を複雑な面持ちで見ていたのだ。
「まぁ、今のところは悪くない循環をしているからいいんだが……そのバランスが崩れた時、満州は大きな火種になる。今の内から細心の注意を払う事。特に、石油事業の技術が流れると大変なことになる。今以上に情報統制を引き締めて対応すること。頼んだぞ」
壱心はそう簡潔にまとめるとその場に会する面々に確認を取るのだった。
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