中華民国 南北講和

「夏ももう終わりだな……」

「そうですね。鉄心もよく頑張りました」

「いえいえ。父上、母上あってこそです。それに、これからですから」

「そうだな」


 1929年初夏。壱心は亜美と鉄心を連れて博多の街に繰り出していた。史実のこの時期では短期政権が続いていたのと対称的に約五年続いた香月鉄心内閣だが、壱心が香月組のトップから事実上引退することを表明したため、鉄心は引継ぎのために総理大臣の職を辞すこととなったのだ。

 後任は壱心の下で勉強を重ね、研鑽を積んだ広田弘毅。史実より早い段階での内閣総理大臣への任命に彼は大任を果たすと言って引き受けてくれた。尤も、壱心の見立てではこの年の10月に起きる世界恐慌の影響で起きる昭和恐慌で倒閣されるだろうというものだったりするが、言わないでおいた。壱心としては倒されるまでに打てる限りの手を打つようにしておくし、運が良ければ難局を乗り切った優秀な総理大臣として名を馳せることも出来るだろうという感覚だ。

 そんなことを考えて健康のためと言って徒歩で来たのは新しく建て直された食事処だ。壱心の自宅からそう遠くないところにある。


「さて、着いたぞ」

「……また新しい店作ったんですか」

「じゃないと客が多くて入れん」

「予約すればいいじゃないですか……」


 呆れた様子の鉄心に壱心は予約待ちが面倒だの自分の名を出すとその予約待ちの列の中に無理矢理捻じ込まれるだの言いつつ店の中に入った。


「あ! いらっしゃいませ! お待ちさせていただいておりました!」

「二階、借りるよ」

「ありがとうございます! よろしくお願いいたします!」


 矍鑠かくしゃくとした様子の店主は壱心の姿を見るなり平伏せんばかりに頭を下げて可愛らしい店員に壱心たち一行を個室に案内するように指示する。階段を上がると壱心たちは美女に注文を聞かれて各々が好きなように頼んだ。まずは注文した飲み物が驚くべき速さで届けられる。


「……さて、適当にやるか。乾杯」

「雑ですね……まぁ、乾杯」

「いつも長台詞吐かされてるんだ。身内の時くらい楽させろ」

「最近、割といつも楽してませんか?」


 日本における最上級国民の振る舞いとは思えぬ適当さで始まった会食と言う名の食事会。しばらく普通の食事と世間話が繰り広げられるが鉄心はいつ引継ぎの話題が出て来るのか戦々恐々の様で落ち着かない様子になっている。


「体にガタが来てるんだよなぁ……もう、稽古もキツくてな。最近は週に三日程度にしてる」

「……もう盤寿を超えてるんですから当然では? しかも言ってる内容がおかしいですよ。見た目も相まって何か拝まれてるの知ってます?」

「仏さんになるにはまだ少し早いが」

「笑えない冗談をありがとうございます」


 雑な軽口を叩き一家団欒の時間を過ごす一行。そんな中、急に部屋の隅の天井から人が降って来た。


「何奴!」

「……鉄心、落ち着きなさい。暗部の者です」

「暗部? 何で堂々と入って来ないんですか? 今日は貸し切りですし、この建物自体も香月組のもので……」

「まぁ、色々だ。その辺も慣れて行かないとな……で、何の用だ?」


 動揺する鉄心を宥めて壱心たちは暗部の者に話を聞く。すると、女性の声で返事があった。


「速報です。北京政府と南京政府が南北講和する模様です。北京政府はソ連に対し、内政干渉の停止と中東鉄道の平等化のための意見書を通告し、拒絶するようであれば強硬措置に出ると通達。南京政府は中国共産党に宣戦布告を行う模様です」

「……また面倒なことに」

「史実とズレますね」

「……何言ってるんですか! これは一大事です。すぐに対策本部を……」


 食事を止め、立ち上がる鉄心。そんな彼に座ったまま壱心は告げる。


「まぁ待て。報告を最後まで聞け」

「~ッ、そうですね……!」

「いえ、報告は以上です。仔細は追っての連絡になります」

「わかった」


 失礼しますと告げて天井裏に消えて行く暗部の者。それを見送った後、鉄心が口を開いた。


「父上、すぐに……」


 食事を止め、すぐに動こうとする鉄心。しかし壱心はそれを制した。


「そそっかしい奴だな。まだ見込みの情報だ……慌てるな。これから香月組を運営するにあたってこの程度で動揺していては身が持たんぞ」

「この程度って……」

「今年の秋には世界恐慌が起きる。それに比べればこれしきのこと、前座と言わざるを得ん」


 鉄心は支那で起きている一大事を前座呼ばわりするというとんでもない扱いをしながら落ち着いている壱心を見た後、同じく落ち着いてお茶を飲んでいる亜美を見る。両親が落ち着いているのを見て鉄心は乱雑に席に着いて尋ねた。


「世界恐慌って何ですか? 戦争でも起きるんですか?」

「あぁ……次の世界大戦は約十年後だな。今回の世界恐慌はアメリカの株高が崩壊して全世界が不況の波に襲われるってことだ」


 またとんでもないことを言い出す父に鉄心は言いたいことを呑み込んで絞り出すようにして尋ねる。


「それは……どうするんですか? 広田さんに対応出来るんですか?」

「まぁ……取り敢えずやってもらうって感じだな。他人事みたいにしてるが、お前は香月組のトップとしてこの問題を見てもらうぞ? 分かってるか?」


 壱心の静かな問いかけは重圧が込められていた。鉄心はそれを飲み込み、頷く。


「分かってます」

「ま、安心しろ。引継ぎの最中に起こる予定だから俺の方でも知恵は出す。何もお前一人に全てを背負わせるつもりはないさ。当然、お前の力で乗り切れそうだと判断したら手は出さないが……」

「鋭意、努力はさせていただきます」

「じゃあ鉄心。訊きたいんだが、今回の一件に対してお前はすぐに動こうとしたがどう動くつもりなんだ?」


 壱心の問いに鉄心は少し考える素振りを見せてから答える。


「各所との会議に入って意見を募り……」

「違う。お前はどんな意見を持ってどうするつもりなのか聞いている」

「私、ですか?」


 壱心は頷いた。そして告げる。


「意見を集めて聞き入れるのも勿論重要になってくる。だが、どんな方針で物事を進めるのか決めていなければ一貫性のない脆弱な策しか生まれない。鉄心、お前の方針となる大目標は何だ?」

「……先達たちに倣い、この国の安全と発展を支えていくことです」

「成程。先達に倣うという辺りに少し確認しておきたいところがあるが……まぁ、悪くはない目標だ。では、そのためにどうしていくのか考えねばな」


 壱心はそう言って店員を呼ぶベルを鳴らす。そしてユーラシア大陸東部を拡大した地図を持って来させた。


「……何でこんなものが料理屋に」

「そりゃ、暗部の店だからな。有事の際に色々と備えてある。因みに、俺が建てた店だと他の店でも同じような備えがされてる。覚えておくといい」

「うすら寒く感じて来ましたよ……」


 天神、博多だけでなく帝都や京の都、大阪やその他にも数多く出店している父の店。それらが道楽ではなく実業も兼ねていることを知り、特に福岡平野に張り巡らされた網の目の細やかさに畏怖する鉄心。だが、壱心から言わせてもらえばこの程度は序の口どころではない。


「何を言う。お前もこれから使いこなしていくようになるんだぞ。そんなことよりシナだ。南北講和で問題となるのはどこになる?」

「……ソ連との国境、そして中国共産党と中国国民党の戦線は恐らく、まずは江西の辺りになるかと」

「ふむ、まぁ順当に考えればそうだろうな。流石だ。では、日本が動くのは?」


 壱心の問いに鉄心はしばし悩む。だが答えは見つからないようだった。しばらくの沈黙の後、彼は申し訳なさそうに告げる。


「すみません、わかりません」

「……政治の正解はそこにあるものじゃない。作るものだ。さぁ、考えてみろ」


 壱心の再度の問いかけに鉄心は頭を過った答えを素直に吐き出すことにした。その答えを受けて壱心は薄く笑い、問答を続けていく。その光景を見て亜美は静かな笑みを浮かべるのだった。



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