中ソ紛争
1929年秋。世界に激震が走った。その最たる要因がアメリカを端として発生した後の世まで語り継がれる世界恐慌だ。日本ではその煽りを受けて翌年に昭和恐慌と呼ばれる大不況が起き、日本経済は大打撃を受ける。ただ、金輸出解禁を見送っていることから史実と比べて傷は浅い見込みだ。
さて、そんな世界恐慌が海を越えて日本へと波及する前に日本は隣国の問題を眺めていた。それが史実でも1929年に起きていた中ソ紛争だ。事件が起きる背景としては史実と重なる点も多いこの一件だが、史実とは異なる点の方が多かった。
まず最大の相違点は蒋介石による北伐が成し遂げられていない状態であること。張作霖爆殺事件も起きていないこの世界線において、北洋政府が健在であり国民党政府も倒れていない……いわゆる内部統制が取れていない状態でソ連と戦うという事態に発展するとは壱心たち日本政府にとって想定外だった。だが、防共の名目で北洋政府と国民党政府は手を取り、中国内外の問題を片付けようとしていた。
この講和は様々な思惑が絡んだ結果だった。北洋政府からすれば北伐軍が内乱を起こしている間に北伐軍に手を貸している胴元を牽制しておくこと。また、山東省における北伐軍に対する勝利から張作霖が自信をつけて対ソ戦にも勝算の見込みがあること。そして何より国民に対して様々な意味で強い政府であることをアピールすることが含まれたものだった。そして国民党政府からすれば今の内に地盤固めをして北伐をスムーズに行いたいという算段から起きたものだった。
次の異なる点は北洋政府の精強な軍備だった。日本からのオイルマネーを使って揃えられた北洋軍閥の張作霖軍は張作霖の息子である張学良に機甲師団を即時編制させて国境要地である満州里付近に配備した。また、北洋軍閥が保有し、使用可能な軍用機の三分の一に当たる六十四機も戦場に導入していた。これは史実における北洋軍閥が保有していた四十五機を大きく上回り、その内実戦に使用可能だったのが五機だったことに比肩すればどれだけ航空戦力に力を入れられたかが分かることだろう。
ただ、史実における対華二十一か条要求に当たる、本世界線の対華十五か条要求で締結した内容に基づき日本人の顧問が表向き雇われなかったことにより、日本軍による軍事教導は行われていないことになっている。北洋軍閥は日清戦争の時と同じようにガワだけ整えた状態だった。
そして中華民国南部、国民党軍と共産党軍の戦いにおいてはもう史実と同じ点の方が少数だった。
そんな中、戦闘が始まる。始まったのは関東軍の立場が微妙だったことでソ連の神経戦が史実より長引き、世界恐慌が起こる10月のことだった。
ソ連の侵攻は史実と同じく三方に分かれてのことだった。黒竜江・松花江方面、満州里方面、
まず本格的な攻勢が始まったのが綏芬河方面での戦闘だった。ただし、この方面における戦闘については史実と同様に中国軍の守りが堅く、ソ連側が攻めきれずに戦況は膠着することになる。
この攻勢に続いてこの戦いの主戦場となる満州里でも侵攻が開始される。史実ではソ連陸軍、空軍の総攻撃に寄って中国軍が惨敗したこの地において、まずは陸軍に先んじて制空権を握る戦いが繰り広げられることになる。史実では五機しか飛べずに惨敗した中華民国軍だったが、本世界線ではソ連軍の航空戦力と同等の数を揃えてある。戦場もこれが初めてではない。戦える算段はついていた。その結果が。
―――引き分け、だった。
自信を持っていた戦いでの引き分け。それは北京政府に大きな動揺を与えた。だがしかし、負けではなかった。その敗北ではないことが彼らをまだ戦場に駆り立てる。元々空での戦いはこの戦い以前はなかったものだ。最初から支援を当てにしていては戦にならない。その判断の下、次に始まった陸軍戦。こちらも北京政府、虎の子である機甲師団を投入してあった。対するソ連軍は初のソ連製戦車、T-18を実験投入。その結果は……またしても引き分け。いや、名目上は中華民国軍が防衛に成功したというべきだろうか。
ソ連製T-18と史実に存在しない日本製の重戦車である八七式重戦車。その戦いに日本からの観戦武官が注目する中、八七式重戦車はT-18の不完全な装甲を打ち破ることに成功し、その役割を十分に果たしたと言える。だが、肝心要の北京政府軍の戦闘ドクトリンが甘かった。戦車を倒したからといって戦争が止まるわけではないのだ。張学良軍は戦車を失ったソ連軍を見て好機とばかりにその穴に対して突撃を仕掛けた。だが、相手にとってT-18を率いた戦車隊はただの実験部隊だ。失っても継戦能力は十分にあった。
結果、飛び込んだ先は死地となった。戦車がなくとも重機関銃や重砲は残されている。不用意に飛び込んだ張学良軍は格好の餌食だった。すぐに部隊は崩れ、逆襲に遭い、拮抗は崩れた。
だが、それを立て直したのもまた戦車や装甲車たちだった。彼らはその機動力を以て歩兵が抜けた穴を埋め、陣地の再構築まで奮戦した。
一昼夜の戦いが終わり、残ったのは大量の死体のみ。双軍ともに結果は得られずそのまま睨み合いに戻ることになる。
そして黒龍江・松花江方面の戦いが幕を開ける。この地では満州里と同様に空軍での制空権争い。そして陣地確保のため、陸軍での総攻撃が主となる他に黒竜江と松花江という大きな河川が流れていることから水上戦も起きた。
動員されたのは砲艦五隻と武装商船四隻から構成されるソ連のアムール小艦隊と砲艦三隻に武装商船など六隻から構成される中国軍江防艦隊だった。
こちらもあいさつ代わりの制空権争いが勃発。この空の戦いを制したのはソ連軍だった。その結果、中国軍江防艦隊の武装商船「江安」が爆撃に合って轟沈。江防艦隊は港に逃げ帰ることになる。だが、それ以降は要塞化した対空射撃や中国空軍の抵抗に遭って明確な戦果を挙げることが出来ずに無為の日々を送ることになる。
十月中旬。三方面、全ての戦場で戦況が膠着した。
これに焦ったのが北京政府である。戦況は膠着していると言えども、既にソ連軍が自国内に入って来た上で膠着している。事実上、領土を占領されているのだ。
その上、南京政府はソ連からの支援が薄い共産党政府に連戦連勝。北京政府こそ強い政府としてアピールするつもりが見事にしてやられている。
このままでは旗色が悪い。そう判断した張作霖は一撃講和の道を模索し始める。どこかソ連軍の手が薄い場所を総攻撃してその戦果を以て講和する。しかし、そんな都合のいい場所はなかった。悩んでいる間に冬がやって来る。そうなればソ連軍の独壇場だ。それまでに何かしらの進展を得なければならない。
こうして、北京政府は講和の道を模索することになる。仲介役を史実通りドイツに頼むことになるが、ソ連はベルリンでの調停を拒否する。次に張作霖が頼ったのは日本だった。その申し出を受けて日本は中立の立場を再表明した後、各国による現地の調査をするように提案。英米仏がそれに同調して四ヶ国調査団が派遣されることになる。そして日米英仏の四ヶ国はソ連が不戦条約に反する行為を働いたことを認め、不法占拠した場所から撤退して停戦するように呼び掛ける。
ソ連側も内実として、北京政府単体でここまで戦える相手だとは思っていなかったことやこれ以上の戦闘も益のないことと判断して停戦を受け入れることにするのだった。
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