社会問題
日本海を挟んだ隣国で紛争が、そして太平洋を挟んだ隣国で大恐慌が起きた翌年の1930年の秋のこと。
日本においても大きな社会問題が生じていた。
「……こうなったか」
香月組の名誉会長であり、軍部、財界、政界に多大なる影響を与える男、香月壱心は会議室にて現状の日本で表面化した問題についての資料を握り潰さんとする勢いで読み進め、苦い顔をしていた。
(こうなることも予想して然るべきだったな……これは、史実と同じ景気回復方法では足りないかもしれない……打つ手はあると大口叩いておきながら何て様だ……)
「……壱心様、資料は読み終えたようですが会議に入っても大丈夫ですか?」
「……あぁ」
この場に同席しているのは亜美、桜、鉄心の他、利三の息子で壱心にとっては甥に当たる日本財界の表の顔である香月利光、そして壱心の政治的な後継者の一人で内閣総理大臣である広田弘毅だ。壱心にとっては身内ばかりだが世間一般的には錚々たる顔ぶれとなる中で進行役に任ぜられている桜が口を開いた。
「では、まずは本日の議題について。昨年の支那での一連の動乱による国内影響についてと国内の不況で表面化した社会問題、そして全世界を襲っている恐慌への対策についての情報共有となりますが……何か追加したい等、意見はございますか?」
「時間もないことです。それで始めてください」
「畏まりました。では、順を追って行きましょう。まずは支那とソ連の戦争での国内影響についてですが……」
史実で言う奉ソ戦に近い北京政府対ソ連の戦いの結果、軍部では日本軍の貸与していた兵器でソ連と互角に戦うことが出来るという認識が得られた。それと同時に、今後の兵器開発において機甲師団の拡充と重戦車の強化、航空戦力の充実も議題に挙げられており香月組の重工業も日々、設計開発に追われているとのことだ。
「以上、軍拡についての話ですが……利光さんから何かありますか?」
「……ウチとしてはいいんですが。今は軍拡よりも経済を回した方がいいのでは? 広田さん。軍需産業で金を回しても落ちるところは限られてますよ」
香月組の表の顔が内閣総理大臣に苦言を呈す。総理大臣は苦い顔になった。
「重々承知です。ですが、動かないよりは何十倍もいい。それに投資先として重工業を選び、今後の情勢を見て行くのはこの場にいない皆さんも含めて決めたことではありませんか」
「ま、そうですけどね……それで、鉄心さんはどうお考えですか?」
「……この議題についてはこのまま進めていいのでは? 軍需とはいえ内需に違いはありません。特に不都合のある点はないはずです。時間も限られていますし、ただの情報共有として流しましょう」
現在の香月組の頭目たる鉄心の言葉を受けて桜は次の議題に移る。
「では、次です。国内を襲った不況についてですが……」
1930年。史実では日本初となる豊作飢饉が勃発する年だ。そして、この世界線においても豊作飢饉は発生した。不作に対しては壱心らの農業改革は力になれても豊作に対しては大して効果を発揮できない。現在、供給過多により米価は暴落しており政府が買い支えている状態だった。
「これについては……」
「今年度分は仕方ないとして備蓄に回すとして、だ……来年以降はどうするかが問題ですね」
広田はそう呟く。農林省の大臣である屋稲の手によって年間80万トンと言う備蓄がなされているが、今年度はそれを増やして対応するとして、今後どうするか。それが聞きたいところだった。それに対し、壱心がいち早く口を挟む。
「……この件に関しては俺の方から口を挟ませてもらう。来年も減反政策はしない」
壱心から発言があると周囲が声を上げた。まず声を上げたのは広田だ。他の面々と異なり国民からの人気で成り立つ場所に立っている彼は国民感情に敏感に反応せざるを得ないということが背景にあるのだろう。彼は壱心の前で言葉を選びながら慎重に口を開いた。
「閣下。ご存知の通り、閣下を含め先達の方々のおかげで日本の工業は日々成長し、特に重工業におきましては目覚ましい躍進を見せております。国内総生産の内、最大の割合を占めるのは各製造業であると言っていいでしょう」
ですが、と広田は続けた。
「それでも尚、現在の日本を支えているのは農村です。現状、国民の半数近くが農業等の一次産業に従事しております。彼らの収入を突き詰めて言うのであれば、米と絹です。その二つが国民の大半の主な収入源となっています。勿論、閣下は存じ上げていると思いますがその内、絹は世界恐慌の煽りを受けて価格が崩落しております。そして米価も豊作の影響で下落しています。今は外国米の流入を関税で防ぎ、国が買い支えている状況で何とか需給のバランスを保ち、暴落を防いでいる状態です。この状況下で更に増反政策を続けるとなれば米価の崩壊は必至です。それでも尚、閣下は増反しようとされるのですか?」
「本来なら増反したいところだが……そこまではやらせん。ただ、減反はしない」
「……浅学で申し訳ございません。その理由を窺ってもよろしいでしょうか?」
そんなの簡単だ。来年、東北や北海道が冷害に襲われて凶作になる可能性が高いというだけの話。史実よりも品種改良を進めているとはいえ、史実で後に名を残す程の冷害に耐えられる公算は低い。
しかし、そんな未来のことを知っているからなどと説明すればとうとうボケたかと思われる。この世界線に来て半世紀以上が経過したというのに相変わらずその辺りで苦心する壱心はそれっぽい感じのことを言うことにした。
「金がなくても食えれば死なん。無理に暇にすれば文句が増える。それに、売りつける場所ならあるだろう? 旱魃で苦しんでいた場所が」
「……支那、ですか」
昨年まで旱魃に苦しんでいた上、奉ソ戦の微妙な結果によって求心力を失っている北京政府に貸しつけろと暗にいう壱心。広田が考える間に壱心は続ける。
「まぁ、『来年も豊作になれば』という条件の下に行うことだがな。だから打診はぎりぎりまでするな。いいか?」
まだ微妙に納得していない様子の広田だが、明確な言葉には出来ないようだった。それを横目に鉄心が壱心に尋ねる。
「父上は来年、豊作になるとは思っていないようですね? 何故ですか?」
「と、言うよりは今年が上手く行き過ぎただけだという認識だな」
「そうですか……私はてっきり、米が今年よりも必要になる動きがあるのかと」
「今のところ予定はない」
少し不穏な話になりそうだったので壱心はきっぱりと断言しておいた。来年は史実でいう満州事変が始まる年だ。少し危機感を持つのは仕方のないことだった。
「……ま、この話は壱心さんが減らさないって言うんだからその通りにするとして、だ。次の話に移ってくれないかい?」
壱心の様子を見て利光が話を進めたがる。桜がそれを受けて周囲に確認を取ると特に異論はなかった。
「では、国内の社会問題について話を進めるとしますが……一言で言うのであれば貧富の格差が広がっております」
「これは資本主義経済を取った以上、仕方のないことでしょう。次」
「待ってください」
利光の言葉を遮ったのはまたも広田だった。彼は面倒臭そうな顔をしている利光に毅然とした態度で告げる。
「富の再分配を行わなければ経済が循環せず、国力の低下を招きます」
「……それは分かっていますが? だからこそ、香月組はモノやサービスを適正価格で顧客に提供し、従業員には適切な賃金を支給。また、雇用を生み出すことで社会に貢献している。我々に出来ることはやっています。問題があるのは他の企業や個人でしょう? それは日経連や日農の方の会合で協議しましょう。ここでする話ではない」
そう言って利光が強硬な態度で冷たく突き放すと広田は口火を切った時の毅然とした態度を崩して頭を下げながら続けた。
「……すみません。ですが、そちらの方で対応するにも限界がありまして……香月組さんにはご協力いただいているのは重々承知しています。その上で、国民全体の生活を守るために社会保障制度が重要になってきます。救護法では足りないんです。申し訳ないんですが、その、所得の累進課税を……」
「は? この状況下で?」
利光は広田に冗談を言うんじゃないと言いつつ壱心の顔を見た。壱心は軽く首を横に振って自分の意思ではないことを示す。利光は溜息をついた。
「あのですねぇ、国民の人気取りも大事かもしれませんがもっと地に足つけて考えてもらえます? 消費が減ってるんですよ? 更に締め上げて何をしたいんですか?」
広田は壱心の方をちらりと見た。しかし、壱心は特に何も言わない。応援は来ないようだ。広田は話し始める前の毅然とした態度などもはやなかったかのように利光に貧農を守れと言う割に米価のことばかりを気にして貧農の実態、小作料を米で納めているため彼らにとっては減反政策の方が問題となることなども知らんではないかなどといった話や
(……まぁ、確かに小作人と地主の問題はどうにかしないといけないことでもある。が、それは別件で進んでいる話だ。何で桜が今あげたのかは分からんが……今は時間ないし後にしてくれないものか)
広田から助けを求められた壱心の方は特に彼を助けもせずにそんなことを考えるのだった。
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