誤算
広田が利光に一方的に激論を叩きつけられたところで桜が本筋ではないと注意して話を元に戻した。広田がもう少し早い時点で助けてくれてもよかったのではないかと思いながらも会議は先に進む。
「では、引き続き貧富の格差についてですが」
「我々に出来ることはやっています。小作料や耕作権の調整、並びに最低賃金の導入及び取締については国がやることでしょう。その話は別件で聞いています。広田さんも桜さんも農山漁村経済更生運動の件については聞いているはずですよ? 今、壱心さんがいる貴重な時間を割いてまで話すべきことではないでしょう? 早く次の議題に移ってください」
桜の言葉に割り込むようにして利光はそう告げる。壱心は何をそんなに焦っているのだろうかと思うのと同時に利三であればもっと上手いこと話を回していただろうなと詮なきことを考えた。利光の言葉に応じて桜の言葉も止まる。
「……皆さんがそれでいいのでしたら」
桜は周囲に確認を取った。広田はまだ納得していなさそうだが何も言わない。壱心も思うところはあるが今ではないと何も反応せず、目が合った鉄心だけが答えた。
「ま、私としては貧富の格差も気になるところですが……利光さんがこんな大問題を後に回してまで進めたい議題が気になりますね」
「決まってます。世界恐慌への対応ですよ。この不況に歯止めを掛けなければ国内の問題も止まらない」
利光はそこで壱心の方を見た。
「壱心さんが金輸出解禁に反対したからこそ正貨の流出こそ起きませんでしたが、急激な円高が進んでいます。どう対応されるんですか? 人伝にですが考えはあると窺っていますが……」
利光の言葉に壱心は簡単に答える。
「まぁ、策と言っても簡単に言えば管理通貨制度に基づいて円を切り下げることだ」
「それだけで足りますか?」
利光の言葉に壱心は少しだけ考える素振りを見せてから答えた。
「わからん。今回ばかりは見通しが甘かった。円の人気が高過ぎる」
昨年は100円当たり52ドルだったレートが今は100円当たり60ドルとなっている。史実では来年の話になるが、高橋是清蔵相の管理通貨制度の下で100円当たり49ドルから34ドルと円安が進んでいくのに対し逆の状態になっていた。これは当時のドルが不安定だったというのもあるが、それ以上に史実に対して日本が強大な国になっていたことが原因となっている。
何せ、石油化学工業において世界有数の水準を誇り、窒素化学工業においても他の国の追随を許さない。特許もそれに伴い膨大な数になっており、日本の重化学工業の水準の高さは世界にも知られることになっていた。
それが、問題だった。
(アメリカ発、欧州を巻き込んだ大不況に対し、日本が比較的安全だという見通しを立てられたことで資産を円に逃がす動きが強まったか……もっと後の時代に起こる現象のはずなんだが……)
史実でも戦前から国民総生産は世界でも指折りの経済大国だったが、この世界線ではそれを遥かに凌ぐ富裕国だ。国民総生産はこの時点でアメリカに次いでまさかの世界2位。アメリカが世界恐慌に陥った現状、トップに迫る勢いだ。
当然、それを許すアメリカではない。世界恐慌による国内の不満を逸らすためにも日本が不当に為替操作を行ったことで自国経済が回復基調に乗らないなどと国際的な批判を浴びせ続けてきている。その上でそれはそれとして資産を逃がしたり国際市場の安定化の名の下に一方的な協力を呼び掛けてきていた。
壱心は上手く行かない現実を前に軽く溜息をつく。そんな壱心の様子を見て利光は驚いたようだ。
「壱心さんでも見通せないことがあるんですか」
「勿論ある。正直に言って、アメリカの実体経済と金融市場の乖離は分かっていた。そしてそれがいつか弾けるのもな……俺はそれに円安誘導からの輸出増で対応しようと考えていた。が、円の人気を過小評価していた」
「ふむ……壱心さんも想定外、ですか。となると円の切り下げ以外にも何かしらの打つ手を考える必要がありますね」
利光はうろたえることなく考え込む。その堂々たる様子に壱心は利三とは違った信頼感を覚えつつ打開策となるキーワードを幾つか並べてみる。
「そうだな……まぁ、企業には合理化を進めてもらうとして、物価の安定を図るにはやはり金融緩和が必要だな」
「ですね……公債の発行量を増やし、公共事業を拡大しましょう」
「……香月組としては重工業で既に儲かっているので公共事業については他の財閥に任せますか?」
「いや、取りに行く。価格指導力の問題もそうですが、雇用創出のための公共事業でもモノはモノとして適切なモノを造る必要がある。香月組不在で下手な真似はされたくないですからね」
会議が盛り上がる。だが、一先ずは香月組主導で産業合理化のモデルプランを立てることや価格崩壊を防ぐ名目でカルテル結成を容認する重要産業統制法などの制定、また金融緩和などが主な対策案として挙がった。
(……まぁ、ほぼ史実と変わらんか。金輸出解禁と井上準之助蔵相による緊縮財政がないこと。それに満州事変がないことで軍事費がかからない分だけマシに出ると思うが……ただ、史実じゃその暴走に必要だった軍需も市場活性化に役立っていた。その点がどう出るかは不明だな)
周囲が盛り上がる中で官製需要がいまいち伸びない可能性や来年以降の天災などについて考える壱心。一先ず国内の処理について話したところで利光が次の話題を切り出してきた。
「国内についてはまぁ、分かりました。ある程度考えていたことと合致します。では次にアメリカからの申し出ですが……壱心さん、単刀直入に訊きますが、朝鮮の併合を進めても問題ないですか?」
「国内の問題で手一杯と言うのに他国の面倒を看る余裕はない」
利光の言葉を受けて壱心は忌々しそうな顔をする。中国市場への足掛かりのためにアメリカがせっせと開発してきた朝鮮市場だが、日本の管理下にある朝鮮では様々な規制や朝鮮国内の反米運動という問題の他、輸出も日本との価格競争に晒されることでどうしても輸送コストの面などの問題から採算が合わなくなってきていた。
そこに今回の世界恐慌だ。アメリカに赤字を生み出すだけの他国の面倒を看ている暇はなくなった。合理化を進めることにしたアメリカはこれを機に朝鮮を切り捨てることにしたようだ。元々、日本の管理下でしか開拓できなかったそれほど大きくもない利権。それを最大限活用すべく一番高い貸しに出来そうな日本に朝鮮の米利権を売り飛ばす算段を立てた様子で、香月組に多くのオファーが来ていた。
しかし、そのオファーに対して壱心は余程の採算が見込めるもの以外は断るように指示を出している。利光はそれが不満だったようだ。
「仰りたいことは分かります。ですが、アメリカが保有する朝鮮の利権を買い取る形でアメリカに資金融資を行うというのが一番丸く収まると思うのですが……」
「国民優先、本国優先だ。何も今やることじゃない」
「今やるべきことじゃないと言って既に20年以上が経過してます。壱心さん。朝鮮もあれから変わってますよ? 身分解放が進むことや教育の浸透により親日家が増え、インフラ整備も進み、北部は工業化、南部は大規模農場として発展しています。資料が欲しいというのでしたらすぐ準備しますよ。ご一考ください」
(何か気持ち悪いし胡散臭いな……賄賂でも貰ってんのかこいつ?)
利光の語りを切って捨てる壱心は後で利光の背後関係を洗うことに決めてこの話題こそ今話すべき話題ではないとして終わらせる。桜はそれを受けて次の話に移った。
「では、ロンドン海軍軍縮条約の結果についてです」
「全体が目標の対英米比7割を超してますし、特に問題はないはずですが……」
「いえ、国内においては重巡の英米比が未達ということで不満の声が」
「……冗談でしょう?」
(軍備においては問題ない。後は統帥権干犯問題にならなければいいが、な……)
その後も議題が尽きることはなく、時間の許す限り彼らは語り続けるのだった。
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