恐慌脱出を目指して

 1931年。日本は昭和恐慌からの脱出を掲げて様々な政策を打ち出した。それらの施策は功を奏し、日本は恐慌からの脱出の一歩を着実に進むことになる。

 しかし、予断を許さない状況だ。特に東北・北海道地方においては史実通り冷害によって不作となっており、昨年の豊作不況や世界恐慌と相まって農村財政は危機的な状況を迎えている。そんな中、壱心は福岡の本宅で報告を受け取っていた。


「やはり、国内は不作だったか」

「その通りのようです。昨年の豊作で過剰になっていた備蓄米を格安で解放、並びに無利子での貸し付けによって何とか東北・北海道地方も食つなぐことが出来たかと」

「……まだまだ品種改良が足りていないな。が、済んだことを言っても仕方がない。今回はこれでいいとしよう」


 何とか史実の昭和恐慌で起きる欠食児童や女子の身売りを大幅に抑える事が出来たと安堵する壱心と桜。史実を知らないものからすれば不況は不況で、それなりの数の身売りが出ている現状を大変な社会問題と捉えているが、それでも昨年度の豊作不況によって政府が格安で買い支えた備蓄米をすぐに役立てたことは政権の評価の上昇につながっている。だが、それでも広田内閣も盤石というわけではなかった。


「農政の方はこれでよかったかもしれませんが……問題が山積みです。特に案の定、軍部と野党が騒いでいる統帥権干犯問題は如何なさいますか?」

「……ロンドン海軍軍縮条約か」


 第一次世界大戦以降続いていた軍縮と国際平和協調の一環であるロンドン海軍軍縮会議。会議自体は昨年の4月末に終了していたのだが、その結果が国内に知れ渡ると政府内と軍部の間に溝が生まれることとなった。


「対英米7割の死守を達成したというのにな……」

「重巡が僅かに足りず、引っ掛かりましたね」

「全く、面倒な奴等だ……」


 会議前の目標である対英米7割以上の艦隊保有はかなり容易に達成した上、壱心が重視していた1万トン以下の航空母艦の処遇についても既に保有している艦についてはその保有を認めさせたということで航空母艦の合計排水量で英米比8割以上の達成という躍進を見せていた。

 しかし、主力艦隊の内訳で問題が発生したのだ。その問題と言うのが巡洋艦カテゴリーA、日本では一等巡洋艦と呼ばれ、通称が重巡洋艦である艦船の対米比だ。

 史実でも米英日の比率が10:8:6となっており、最も割合に差をつけられた艦船だが、この世界線ではアメリカが18万トン、イギリスが14万6800トン、そして日本が史実より1万7600トンプラスの12万5600トンとなっていた。史実に比して大幅な躍進と言えるが、それでも対米比において0.698とわずかに足りない数値となっていた。それが政府の弱腰外交として非難の的になっていたのだ。そもそも、軍が出した目標に対し、何故日本は世界二位の経済大国であるのにイギリスよりも少ない比率となっているのかという議論さえ沸き上がっている。


「他の国が持ってるからと言って欲しい欲しいと駄々をこねる大きなガキどもが……どうせ基準排水量の規定など破るだろうに」

「それを言ってしまえば元も子もありませんが」


 壱心の言い分は桜には理解出来た。重巡における対米比7割において不足しているのは400トン。これは随分な重さに感じられるが改装してしまえばいとも容易く超過する値だ。条約の失効を見越して今から艤装を作れば些末な問題と化すものだったりする。ただ勿論、それを見越しての条約締結とは国民には言えないのだが。


「まぁ、確かに建前上は条約なんぞ破るから関係ないとは言えん。文句も甘んじて受けるしかないな」

「問題ないでしょうか? 壱心様は史実ではこれが問題で暗殺事件にまで発展したと仰ってましたが」

「今のところ、軍部内の動きは大体抑えてある。突発的な事象が起きない限りは問題ないはずだ」


 桜の不安に壱心はそう答えておく。だが、内心では彼も先行き不透明感に襲われていた。


(ただ、軍部が……引いては国全体が拡大するにあたってウチの暗部でも見切れない部分が出て来ている。見ておきたい部分に比例させて暗部も大きくしたいところだが質が悪くなって表沙汰になれば逆に縮小する羽目になる。難しい塩梅だ)


 自然と難しい表情になっていたのだろう。気付けば桜が心配そうに壱心の顔を覗き込んでいた。壱心は彼女の不安を払うように笑ってみせる。


「そんなに心配そうな顔をするな。大丈夫だ」

「……その言葉、信じます」

「そうしてくれ」


 壱心の言葉に応じて桜は報告に戻る。しかし、その報告のどれもがこの世界線での昭和恐慌に関連した話であり暗いものばかりだった。壱心は内心で溜息をつきながら報告を聞き流していく。


(真面目に統計を取りたくない気分にさせられるな……)


 暗いニュースを聞いて憂鬱な気分になっていく壱心の表情を読んだのか、一時的に桜は明るい報告をし始める。主だったのは香月組の開発成果だ。だが、それでも壱心の表情は浮かない。それに業を煮やしたのか、桜はちょっとした爆弾を投下してみた。


「そして西新で亜美さんがナイロンに続いてポリエステルの合成に成功し、工業化の目途が立ったとのことでこれの発表準備を進めるとのことで……」

「ちょっと待った。このタイミングでそれはマズいぞ」


 話を聞き流していた壱心が思わず腰を浮かせて桜の言葉を遮った。この時代の主流な衣類の繊維と言えば綿や絹、羊毛などの天然繊維だ。レーヨンを筆頭に人工繊維も多少はあるかもしれないが、それでも圧倒的に天然繊維が市場を占めている。そしてこの時代の日本も史実通り絹や綿織物を筆頭に繊維産業が非常に盛んな国だ。壱心が重工業を育成していてもそれは変わらない。

 そして、ポリエステルの発明はその繊維産業をひっくり返すような出来事になる。

しかし桜は笑っていた。それを見咎めて壱心は顔を顰めて言う。


「何を笑っているんだ? 適正技術を少し超過してるぞ? まだしばらくは綿と絹で稼ぐつもりなんだ。亜美に苦情と即刻停止の申し入れを」

「大丈夫ですよ。研究所の中での出来事です。いつでも発表出来るように準備はしているとのことですが、現時点ではまだ発表するつもりはないとのことです」

「……分かっているんだろうな?」


 確認する壱心に桜はくすくす笑いながら答える。


「大丈夫です。壱心様が話を聞き流していないか少し試しただけですから」

「……全く、心臓に悪い。ただでさえ不況で気が動転してるというのに」

「すみませんでした。では、報告の続きと行きましょう。大陸での話ですが柳条湖で事件がありませんでした」

「……桜、遊ぶな」


 呆れたようにそう告げる壱心。このやりとりで気が抜けたのか壱心は投げやりになって背もたれに体重を預け、念のために確認する。


「柳条湖で何もないことはわかった。大陸の問題は洪水以外に何かあったか? 今のところ、耳に入っているのはそれくらいのものだが」

「そう、ですね……万宝山で小競り合いがあったこと、朝鮮半島で排華運動が起きていることくらいですかね。洪水の件では北京政府が南京政府に対して水面下で色々とやっているようです。南京政府からは日本だけではなく各国に対して人道支援の要請がありますが……」

「中国国内の小競り合いは情報だけ集めて放置だ。南京政府の要求に関しては日本は東北・北海道地方の困窮と世界経済の落ち込み、国内情勢を盾に断る方向で。元より向こうもそこまで期待していないだろう」

「畏まりました」


 支那での問題はそれくらいにして壱心たちは国内に再度目を向ける。打てる対策は打って行く。だが、その奮戦も虚しく広田内閣は統帥権干犯問題と不況の責任を取って倒閣することになるのだった。



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