緊急事態

 1936年。それは史実の大日本帝国において陸軍の過激派である皇道派が大きく国を騒がせた二二六事件、そして穏健派である統制派が軍部大臣現役武官制を復活させることで軍部が国の実権を握った年だ。


 そして、この世界線でも軍部は様々な場所で蠢動していた。


「落ち着かないな……」


 1936年の3月末の早春のこと。また中央に呼びつけられていた壱心は年度末付けで引退する咲夜の見送りに東京駅まで車で移動していた。咲夜が乗る下り方面の特急の時間まである程度余裕を見て出発する予定でいたが、どうにもきな臭い動きがあるとのことで外出を見合わせて自宅の警備を厳重にした方がよいのではないかと出発前に暗部から電話がかかって来たことで予定が崩れ、そこから渋滞に巻き込まれたり様々な不運の重なりで咲夜の出発時刻に遅れ始めていた。


(出発前から不吉な電話がかかって来たものだ。折角の門出というのに……おかげで表向きは全ての予定を取りやめにしておいたが、内密にこれだけは……)


 表面上は落ち着きを見せている国内情勢だが、水面下できな臭い状態が続いていることは香月組暗部や警察の内部資料などから壱心もわかっている。現在、手元にある資料でもその状況を危惧する内容が載っている。そのため、念には念を入れて壱心の表向きのスケジュールは全てキャンセルして自宅での執務ということになっている。

 しかし、咲夜の一件は四半世紀を共にした大切な仲間の門出だ。見送りにくらいは行ってやりたかった。


「美咲、後どれぐらいで着きそうだ?」

「この混み具合ですと後10分程かと」

「そうか。また遅れるな……」


 咲の時と同じく、特急列車の出発時刻ギリギリまで到着出来なさそうだと見て壱心は申し訳なさを感じる。亜美はそんな壱心を見てくすりと笑った。


「心配せずとも大丈夫ですよ。壱心様が大変なのは咲夜もよく分かっていますから」

「だがな、20年以上身を粉にして働いてくれていたんだ。最後くらいは咲夜のために時間を作ってやりたいと思っていたんだが……」

「咲さんの時、あの子も見ていましたから。大丈夫です」

「大丈夫と言われてもだな……」


 尚も言い募ろうとした壱心だが、そこで口を閉ざした。ここで喧嘩をしたところで無益だからだ。そんな壱心を見て亜美は柔らかな笑みを浮かべる。


「それだけ思っていてあげれば大丈夫ですよ。ちゃんと、あの子にも伝わってます」

「……思っているだけではな。ちゃんと言葉で伝えておきたい」

「善処します」


 やりとりを聞いていた運転手がそう告げると車は加速するのだった。




「……遅いですね?」


 先に荷物を持って駅の待合室に来ていた咲夜は懐中時計を見てそう漏らした。


(また、何かあったんでしょうか? 忙しい方々ですからね……)


 ふっと笑みを浮かべて咲夜は駆け抜けて来た時に思いを寄せる。駅で思い出深い出来事と言えば、朝鮮での暗殺を防いだことだろうか。あの頃は若く、憧れの壱心に仕えるということで血気盛んな真似をしてしまった。


(美咲も血気に逸りやすい性格ですから心配ですね……尤もあの子は優秀ですし、特に問題はないでしょうが……師匠も同じように考えて私に任せたんですかね?)


 駅の思い出と言えば咲夜の師匠である咲の見送りも印象深い。つかみどころのない超然とした師匠だった。だが、咲夜が生きるに当たっての全ての基礎を叩き込んでくれた優秀な人だった。


(今、どうしてるんでしょうね? 流石にもう亡くなったのか……それともまだ旅を続けているのか、はたまたもう見知らぬ土地で落ち着いているのか……最後まで謎な人でした)


 あの人とは違い、引退してからも壱心らとの交流は続けるつもりの咲夜にとっては咲は本当に謎のままだ。だが、同時に師匠らしいとも思う。


「……あ」


 色々と思い出している内に待ち人が来たようだ。もう九十近い老体というのにそうは見えない二人とまだ若い自分の弟子。彼らは真っすぐ自分のところに向かってきてくれている。


「ふふ」


 咲夜は思わず笑みが零し、立ち上がった。先行していた美咲が駅員に話しかけると彼らは敬礼を受けて場内に入って来る。


「待たせた。少し、込み入った事情があってな」

「お忙しいところありがとうございます。ご用事の方はもう大丈夫なんですか?」

「……まぁ、すぐに戻れば大丈夫だろう」


 壱心の口振りに咲夜はあまりよくない感じのものを放置して来たんだろうなとすぐに察した。


「そんなにお忙しいのでしたら、お見送りは結構でしたのに。師匠と違って私は今生の別れという訳ではないのですから」

「咲夜、そんなに嬉しそうな顔されて言われても説得力に欠けますよ」


 亜美が袖で口を隠して笑いながらそう指摘すると咲夜は顔を赤くした。


「嬉しそうで何よりだ」


 壱心からも追撃が入る。更に顔を赤くする咲夜。そんな一行のやりとりを見て美咲も顔を綻ばせた。


「もう、全く……格好のつかない別れになりますね。師匠の時はもっときれいな感じだったのに」

「まぁ、お前も言った通り今生の別れじゃないんだ。気楽に、楽しく行こう」

「……それもそうですが」


 話しながら一行はホームに移動する。元々、駅にあんまり居座るのも邪魔になるという判断で長居しないつもりだった上、警備上の問題から更に短縮されていた時間。遅刻してしまえば更に短いものとなる。しかし、別れの寂しさよりも次の再会の話に花を咲かせて一行は明るい別れを選択した。


「……あら、もう富士が来てしまいましたね」


 楽しい時間はあっという間だ。気付けば、ホームから咲夜が乗る特急富士が見える時間になっている。


「では、そろそろお暇致します。壱心様、亜美様、本当にお世話になりました。美咲は後のこと、頼みます」

「元気でな」

「向こうに着いたら電話してください」

「頑張りますね」


 深々と頭を下げる咲夜に三者三様の返事を返す。富士は既にホームに到着した。


「今度はお店で会いましょう」


 咲夜がそう言って富士に乗り込んだ。その時。


 突如、乗り込もうとしていた客たちの中からどよめきが広がった。


 ほぼ同時に銃声が鳴り響く。


 鮮血が舞った。


 哄笑が上がる。


「は、ハハハハハ! ハハハハハハハハ! やった! やったぞ!」

「国政を我が物として私腹を肥やす老賊め! 天誅だ!」

「これで皆、後には退けまい! 維新を為す時だ!」

「グ、ぅ……」


 撃たれた。壱心がそれを理解した時、咲夜と美咲は既に動いていた。


「まだだ! まだ気を緩めるな! 相手はあの香月壱心だぞ! もっと撃ち込め!」


 別の男の怒声と共に銃声が続き様に鳴り響く。狙いは壱心だ。だが、その射線上に咲夜が入った。彼女は着物を自分の血で染めてもその場を動かず、脚を撃ち抜かれて立てなくなっても壱心にしがみつき、決して壱心を射線上に出そうとしなかった。


「クソッ! 邪魔だ!」


 焦る襲撃者たち。彼らの下に美咲が銃を抜いた状態で接近する。


「邪魔なのはお前らだ!」


 吼える美咲。その手に拳銃を携え、彼女は激昂しながらも狙い違わず襲撃者たちの眉間に鉛玉を捻じ込んだ。


「お前ら! よくも! よくも!」


 物言わぬ骸となった襲撃者たちに残弾を撃ち込み、涙ながらに叫ぶ美咲。そんな彼女を壱心は呼びつける。


「美咲! 遊んでる暇があるなら周囲の確認と医者だ!」

「……ッ!」


 壱心から叱りつけられてようやく我に返った美咲は急いで容態の把握と応急手当をしに咲夜と壱心の下へ駆け寄った。太腿を撃たれていた壱心は加齢のせいもあり咲夜の重みに耐えかねてその場に座り込んでしまう。


「壱心様!」


 一人だけ壱心の少し後ろに控えていたことで偶然にも難を逃れた亜美は壱心の周辺に広がる血の赤と対照的に顔を青くしながらすぐに壱心の銃創を確認しにかかる。


(肩口は貫通。腕と腿をかすっているのと、頭と胸に傷。これは……)


 壱心の状況は芳しいとは到底言えるものではなかった。いわんや咲夜の状況は推して知れる。


「く……美咲、そちらは任せます。壱心様! 失礼します!」


 亜美は歯を食いしばって壱心の手当を優先した。遅れて、騒ぎを聞きつけた人々も駆けつける。


「そこの方、すぐに止血道具を!」

「は、はい!」

「あなたもついて行って病院に連絡してください!」

「か、畏まりました!」


 亜美は駅員に指示を出す。駅員は走って圧迫止血用の道具を取りに行ったが、一刻を争う事態に亜美は着物の袖を丸く固めて無理矢理壱心の傷を圧迫することで止血を図った。そんな彼女に壱心は尋ねる。


「くっ……亜美、咲夜はどうだ……?」

「美咲が今見ています。壱心様は自分のことだけ考えていてください」

「……そうか」


 傷口を押されて痛みに顔を歪める壱心。その目は自分を庇ってくれた咲夜と彼女の手当をしている美咲に向いている。だが、美咲は咲夜の容態を見ていたかと思うと、沈痛な面持ちで項垂れた。


「……亜美様、私もそちらを手伝います」

「そう……」


 感情を押し殺した声。亜美は美咲の様子から咲夜の状態を判断し、深くは言わずに壱心の手当のために美咲を使う。


「壱心様、すぐに救急が来て医者に向かいます。それまでご辛抱を」


(ぐ、ぅ……もう意識が……ここまで、か……?)


 目の前が霞み、意識が朦朧とする。壱心は亜美に何か言葉を残そうとするが、これが最期の言葉になるかもしれないと考えると上手い言葉を選べなかった。


「……亜美、後は頼ん……」


 結局、あれだけ周囲に頼まれても困るとぼやいていた後を託す言葉しか言えない自分のことを恥じながら壱心の意識は暗転していくのだった。



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