危険な兆候

「……私の結婚式に殿下が?」

「綾名はどうしたい?」


 綾名が婚約して一年が経過した。それはつまり、婚約関係にある両名が共に婚姻を承諾したということだった。両家共に位人臣を極めたとも言えるこの家格で昭和初期のこの時代の考えともなると、ほぼ強制結婚が主流ながらお見合いでの結婚。

 しかし、壱心を筆頭とした本家の考えとして綾名の思いを尊重したいというものがあることで黒田家の方は万が一の時の覚悟はしていたという。

 それがめでたく婚姻承諾ということで、お祝いムードとなっている両家。社交界でもこの一大事で持ちきりだった。


 そんな中、壱心の下に宮内より手紙が届けられていた。それは天皇の補佐役である内大臣牧野伸顕からのもの。大久保利通の息子であり、今上天皇の信任の厚い彼からの手紙は綾名の結婚式に今上天皇の皇弟である雍仁親王を主賓として招き、盛大な式を行わないかというものだった。


 通常であれば非常に恐れ多いこと。だが、綾名は微妙な顔をする。


「……私の主賓は皇弟殿下よりおじい様がいいんですが」


 綾名としては皇族が来臨されるとなると確実に結婚式の規模が大きくなり、主賓を壱心に出来なくなってしまうためあまり歓迎したくなさそうだった。確実に不敬罪に当たる物言いに壱心は溜息を吐く。


「お前は……はぁ。いくらここが安全だからと言ってそんな言い方をするな」

「はーい。ですが、それを除いてもこの結婚は個人的に夢破れた日になるのであまり殿下を呼ぶのに相応しいとは思えないんですよね……」

「……何かあるのか?」

「はい。まぁ、この年にもなって本気で言っていると知られたら引かれると思うので言いませんが」


 綾名の物言いから壱心は何となくこの話題については深入りはしない方がよさそうだと判断し、話を元に戻した。


「じゃあ、殿下の来臨は辞退するか?」

「……出来れば辞退したいですが、おじい様や父上の立場や状況的には受け入れた方がいいんですよね」


 綾名の心配事。それは史実同様にこの年になって浮かび上がって来た天皇機関説に対する排撃運動に立憲護国党、引いては香月組が国体明徴声明を出して天皇機関説を正当な学説の一つであると表明したことによる皇道派との溝だった。

 この一件から野党や軍部の一部から立憲護国党や香月組は天皇制を軽視し、陛下を蔑ろにしようとしているという流言飛語が飛び交うようになっていた。


 それらのことを踏まえて牧野も病魔に蝕まれた身体を押して天皇家と幕末以降これまで国を支えて来た公爵家の一つである香月家や黒田家を筆頭とした福岡藩閥が良好な関係であることを示すために今回の調整を行ったのだろう。それが分からない綾名ではなかった。


「……このお話、謹んでお受けいたしましょう」


 真面目な顔をして先程言った本音とは別の答えを出す綾名。壱心は藪から蛇を追い立てるような真似をせずに礼を言っておく。


「色々と考えさせて悪いな」

「悪いと思っているのであれば行動で示してください。私、しばらくはおじい様の家に居ますね」

「……まぁ、それくらいいいが」


 たまには鉄心の家、綾名にとっての生家に帰ったらどうだろうかとは思う壱心だが実家は綾名にとってあまり居心地がよくないということなので何も言わないでおく。


「今日は大お母様もいらっしゃるということですし、色々楽しみです」


 準備をするために一度、今住んでいる家に戻る支度を始めた綾名を見ながら壱心は今後のことを思案し始めた。


(さて、皇弟殿下を招くとなれば今から色々と準備が必要だな……取り敢えず、牧野くんには歓迎の旨を伝えておいて……)


「おじい様~準備出来ました。一度帰りますね?」

「あぁ」


 手早く支度を終えた綾名の声で壱心は思考を中断した。そして第三応接室から出て美咲に綾名の秘書を呼んで来るように伝える。程なくして、綾名の身の回りの世話をしている秘書がやって来て車の準備まで終わらせた。


「ではおじい様。またすぐ後に。ごきげんよう」

「気をつけろよ」

「はい」


 優雅に一礼して玄関を出ていく綾名を見送った後、彼女が戻って来てからでは仕事に集中できないだろうと予測した壱心は部屋に戻って書類のまとめに入る。

 まずは先程綾名に確認した案件だ。牧野に殿下来臨の件の歓迎と今後の打ち合わせ日程についての相談の箇条書きをしたため、桜に文章として清書するように指示を出す。


「これで一応、皇道派に対する牽制にはなると思うが……いや、過激派はいつも斜め上の論理を振りかざして来るから油断は出来ん。ただ、まともに取り合うのも労力の無駄だ。厄介な限りだな……」


 桜に書かせる分のまとめを書き終えた壱心はこれからの事態を考えて溜息を吐く。


(しかも、陸軍の過激派をこの件で牽制したとしても次に海軍の過激派が待っているからな。やってられん……)


 天皇機関説に対する国体明徴声明を発したことで陸軍皇道派の一部が壱心を懐疑的な目で見るようになった状況だが、この年の冬に待ち受けている出来事によって海軍の一部からも懐疑的な目で見られるようになることが容易に想像出来た。

 それが第二次ロンドン海軍軍縮条約会議だ。

 東郷元帥が亡き今、海軍から大量のお伺いが壱心の下に来ているのが現状で、各国と協調して軍縮条約をある程度は受け入れる予定の条約派からも独立路線を歩もうとする艦隊派からも壱心は意見を求められている。

 そして、そのどちらにも意見を出している以上、どう転んでも壱心の指示で海軍が動いたという見方は免れない。


(先も統帥権干犯問題があったが、今回も揉めることになるだろうな……)


 史実では予備交渉の時点で相容れないと判断して軍縮条約からの脱退を決めたこの一件。この世界線ではその前の軍縮条約からある程度譲歩を引き出しており、戦力をそれなりに維持出来そうな見込みであるため、会議に参加する予定となっている。


(事前交渉を済ませた上で会議に参加する時点である程度は軍縮するという意思表示になってるからな……艦隊派からは睨まれそうだ)


 調整を重ねた結果ではあるが、不満を持つ者は確実にいる。壱心が相手であるため直接言ってこないだけだ。香月組暗部の情報網には裏で色々と言っているという情報が網を引き千切らんばかりに入ってきている。

 それこそ一部では壱心が立場と権力を乱用し、天皇機関説を悪用して陛下の統帥権を干犯しているのではないかという意見まで出ている始末だ。


「皇室との蜜月関係のアピールで艦隊派が言わんとする論理にも対応は出来る。この一件で軍部が暴走を開始する前に抑えられればいいが……」


 そう思いながら各所との調整を進めていく壱心。


 しかし、壱心のその願いも虚しく、綾名の結婚式に雍仁親王を招いた結果は皇室を自らの権勢を誇るために私的利用したという誹りの原因となるだけに終わる。

 そしてこの一件を契機として、壱心ら香月組を主流とした統制派に対抗すべく陸軍皇道派と海軍艦隊派が接近し、尊皇派として手を結んでしまった。

 結果として、壱心の敵を団結させることになってしまった綾名の結婚式。過激派の活動が活発化することで警察や香月組暗部の動きも活発になる中、咲夜の引退も少しだけ引き延ばされることになるのだった。




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