1934年の晩夏

「おっじい様ぁ~っ!」


 猫なで声で誰かを呼ぶ声がする。誰か、と言っても現在この廊下を歩いているのは壱心と声の主しかいない。そして、壱心に対してこんな呼び方をするのは彼の孫娘である綾名を置いて他にはないことが分かり切っている。今日、彼女がこの家に来るとは聞いていなかったが、何の用だろうか? そう思いながら壱心は面倒臭そうな顔をして立ち止まった。


「何だ?」

「お話があります」


 猫撫で声から一転して真面目なトーンで語りかけて来る綾名。その態度を見て壱心も聞く態度を改めた。


「言ってみろ」

「私の婚約の話です」


 彼女に言われて壱心は少し思い出す。綾名の婚約。壱心としては鉄心と同様に当時の慣習を無視して恋愛結婚でいいんじゃないかと言っていたのだが、飛び級で大学を卒業して教鞭を振るい、その生活に慣れてきた24歳になった今でも浮いた話の一つもないことで焦り始めた鉄心夫妻によって進められた縁談だ。

 相手は福岡藩の藩主だった黒田家の人間で、綾名と年も近く、中々の美男子で聡明な人物だったと記憶している。


 そこまで思い出してから壱心は綾名に尋ねた。


「お前の婚約がどうかしたか?」

「つい先日、初顔合わせがあったことはご存知でしょうか?」

「いや……ん? あぁ。そう言えば亜美が何か用事があるって言ってたな。それか」


 綾名の問いかけに首を横に振りかけた壱心だったが、そう言えば最近、リリアンや亜美、宇美までもが何か用事があるとして半日ほど家に居なかった日があったことを思い出した壱心。それを聞いて綾名は頷いた。


「はい。綾名はおじい様も来てくれるものと思っていたのですが、何で来なかったんですか?」


 綾名の疑問に壱心は心当たりを探ってみた。恐らく、顔合わせの前の時点で用事が入っていたとかそんな感じだろう。壱心は顔合わせがあったこと自体知らなかった。


 そもそも、ここ最近は基本的に忙しかったのだ。


 早春から東北地方で降雪が続き、4月末にも雪が降ったことで田植えが遅れ、その後も冷夏に見舞われた上、多雨・寡照と不作の要因満載の状況。辛うじて同年に多発するいもち病への抵抗性のある品種改良は形を見せているが、それだけでは不足しているのは明らかで、国を挙げての支援が必要な状況。

 その上、東北地方ではこの不作に加えて不漁も起きているのだ。東北地方は前年に震災に見舞われている。史実で日本経済を追い詰め、戦争に追いやった原因の一つであるこの不況に、表舞台から引退した壱心も支援策を考える必要があった。


 また、壱心が忙しくしていたのは内政問題だけが理由ではない。内政に加えて軍部でも大きな動きがあった。それがこの年の5月に起きた日露戦争の英雄、東郷平八郎の死去だった。

 壱心の働きによって史実に比べれば少しだけ人気が落ちていたが、それでも国内外問わずに絶大な人気を誇っていた彼の死。日本では国葬が開かれ、壱心も当然それに参加した。

 しかし、壱心が忙しくなったのはその後のことだ。海軍において相当な権威を誇る人物の死去によってその権威が壱心に前にも増して添加されたのだ。特に、今年の秋から第二次ロンドン海軍軍縮条約の予備交渉が始まるタイミング。条例派も艦隊派も揃って鉄心を飛び越して壱心にお伺いを立てに来ているという状態だった。


 そんな状況だったことを壱心は包み隠さずに綾名に告げる。すると彼女は不貞腐れながらも一定の理解を示した。


「分かりました……寂しいですけど、おじい様も忙しいですもんね」

「まぁな……」

「でも、今日はこれから少し時間があると聞いています。構ってくれますよね?」


 綾名に要らないことを教えたのは誰だと壱心は思った。大方、孫可愛さに亜美が口を滑らせたか、拗ねていた綾名を可哀想と思ったリリアンが教えたか、面白そうだからという理由で宇美が教えたかのどれかだろう。


(……まぁ別に時間がある時に構ってやる分にはいいんだが)


「……まぁいいだろう。茶菓子でも持って来させて何か話でもするか」

「はい! すぐに手配させます! おじい様は第二応接室に行っていてください」

「第二ね。はいはい」


 喜んで使用人を呼びに行った綾名を尻目に壱心は第二応接室に向かう。だが、その前に美咲へ連絡を入れておいた。この後の予定を少しズラすためだ。


「美咲、リリィと宇美が戻って来るのは1時間後だったよな」

「はい。そのように伺っております」

「これから綾名と話をする。もし、俺が綾名と話している間にリリィや宇美が戻ってきたらにも綾名の相手をしているから遅れると伝えておいてくれ」

「畏まりました」


 壱心の指示を受けて美咲はすぐにいなくなる。後で宇美辺りに小言を言われるかもしれないが、同居人との世間話はいつでも出来る。今は綾名の方を優先しておこうと壱心は決めた。結婚するとなれば彼女の一生に影響が出るのは間違いない。特に相手は侯爵で壱心にとって主君筋に当たる黒田家の人物。相談に乗っておくべきだろうというのが当然のことだった。


(……そう言えば、貴族院を無理矢理退任してからというものの、近年は長成さんのところに行ってないな……綾名は会って来たみたいだし、近況でも聞いておくか)


 主君筋に当たる黒田長成の誘いを忙しいからという理由で断っている現状に負い目を感じる壱心。特に、鉄心に色々と任せてからは人付き合いでこういうことが多い。大いに反省すべき点だった。


「おじい様。ささ、中にどうぞ」

「別に逃げやしないから……」


 腕を取られて壱心は応接間のソファに座らされる。まるで恋人のような距離で隣に座る綾名から少し離れて壱心は息をついた。


「さて、婚姻の話だったな。暗部が素性を洗った結果、問題ないと太鼓判を押した相手で、一年間の交際を経た後に問題なければ結婚すると亜美から聞いているが」

「はい。どう思います?」

「いいんじゃないか? 綾名が受け入れたのであれば俺から言うことは特にない」

「むー、そこは寂しいとか何とか言ってほしいものですが……言って下さっても結構ですよ?」


 拗ねる綾名だが、壱心としては綾名とは寂しいと思う程一緒にいた記憶がないので何とも言えない感じだった。

 確かに、初孫ながらその翌年に弟であり長男となる悠希が生まれたことで周囲の目がそちらに向いて色々あった時などは壱心や亜美が面倒を看ていたこともあった。

 しかし、綾名が心身共にある程度成長した頃には悠希も大きくなったことで鉄心家にも余裕が出来、家庭内の問題もある程度片付いたことで、もう10年以上前から壱心から綾名に対する干渉は殆どなくしている。そのため、壱心からすれば綾名が未だに壱心にべったりな理由がよく分からなかったりするのだ。

 壱心が綾名に対して微妙な感情を抱いて黙っていると綾名はどこか寂しそうに笑みを浮かべた。


「もう、言って下さらないんですね。いけず」

「人の門出にケチつけるつもりはないんでな。それに俺からお前にそんなこと言ったら婚約解消を言い出しそうで怖い」

「……む、確かに」


 適当に誤魔化した壱心の言葉に綾名はくすくすと笑い出す。機嫌が直ったところで壱心は綾名に尋ねた。


「それで、婚約者はどうだった?」

「はい。おじい様のことをしっかり尊敬してる良い人そうな方でしたよ。会えなくて残念とのことです。まぁ、私の方がおじい様のこと好きですし尊敬してますが」

「……そうか。まぁ、良い人なら良かったな」


 一々取り合っていられないので壱心は綾名の言葉の後半を聞き流して頷く。しかし、続く言葉は流石に聞き流せなかった。


「はい。婿入りでおじい様との同居に強い関心を持たれていました。流石です」

「同居? 何の話だ」

「常々、私はおじい様と同居したいと大お母様たちに言ってたのはご存知ですよね? 当然、将来夫婦になる相手ですからその辺りも包み隠さずに言っておきましたが」

「何を言ってるんだお前は……」


 寝耳に水だった。壱心としては同居の話を聞いたこともなければ、大事な主君筋に当たる黒田家の人間の前でとんでもないことをしたものだと呆れる他ない。しかし、綾名の方はまた別方面でショックを受けていた。


「え、聞いてないんですか? 何で?」

「……こっちには同居するつもりが一切ないからだろう。俺に訊くまでもない。当たり前のことだ」


 溜息を吐く壱心に綾名は顔を覆って落ち込んでいた。


「嘘でしょ……わ、私の計画が……大お母様のうそつき……」

「なんで衝撃の事実を知った風な感じでいるんだお前は……変な計画を立ててる暇があったらもっと有意義なことに時間を使いなさい」


 溜息混じりに告げる壱心の言葉はもう綾名には届いていないようだ。再起動するには抱きしめるなり何なりすればいいが、壱心にやる気はない。


(……何か介護する気満々だったらしいな。若い内から老後のことを考えると人生を楽しめなくなるから今の内に止めておけてよかった)


 綾名の呟きを聞いて壱心はそう思いながら彼女が真っ当に再起動するまで待つことにするのだった。


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